02

「なによ、これ……」

 エドワードの背後から、呆然としたカレンの声が聞こえる。振り返れば、無数の魔物の群れを目の当たりにして、エドワードと同じ表情になっているカレンとイレインの姿があった。

 走り去っていった二人を慌てて追いかければ、このおぞましい風景。自失するのは当然だが、今はその余裕がなかった。

大量発生スタンピード・ディザスターだ。本部に、いや、まずはフェリックスに連絡しろ、急げ!」

 未だ一匹一匹は空豆ほどの大きさにしか見えない魔物の群れに向き直りながら、エドワードは後ろのイレインに叫ぶ。後ろで彼女が慌てて通信魔具を弄る気配を感じながら、切っ先に魔術式を紡ぎ始めれば、横でハーヴィーがそれに倣いながらも混乱したように言い募った。

「なあおい! アレは一体何なんだ!? あんな数の魔物は見たことねえ、どうなってやがる!?」

 大量発生スタンピードを知らないのだろう、あまりにおぞましい数の魔物に、さしものハーヴィーにも表情に怯えの色が混じっている。

 遠くから見れば、灰色の波涛のようにすら見えるその群れを注意深く眺める。魔物はすべて灰色の体色で成されていて、のったりとした速度でトゥリエスに向かってやってくるその様は、嵐の海のようだった。

 努めて声に震えが混じらないようにしつつ、エドワードはハーヴィーの疑問に答える。

「あれは大量発生スタンピード・ディザスター。数十年に一回、魔力の超異常集中によって発生する災害級の魔物の発生現象だ」

 そもそも、魔物の発生現象とは、大気中の魔力の異常集中によって起こる自然現象だ。魔力の異常集中によって、魔物は生み出され、この世に生を受けるのである。そう、『魔物』とは魔力で構成された奇妙な生物であり、生殖で増えることもなく、食事すらも本来は必要とはしない。

 この魔物の発生現象は世界各地、いついかなる時でも起きており、魔物が出現すること自体は不思議ではない。が、しかし、世界中で起きる魔力の疎密、そのしわ寄せがどこか一点に押し付けられた結果、こうして発生するのが超異常集中と大量発生スタンピードなのである。

 山の中や海上など、場所を選ばず起こるために、直接的に人里に被害を及ぼすのは実に稀なのだが、よもや街の目と鼻の先で起きようとは。運が悪いにもほどがあろう。

 街の運の悪さにどこか親近感を覚えつつも、そうやって短く答えれば、ハーヴィーも「ようはくそったれってことかよ」と大きな舌打ちをして前に向き直る。状況の悪さだけはしっかり伝わったようだ。 

 魔物は獣同然の本能を持ちながら、それでも襲うのは人のみ。だからこそ、目の前の灰色の波涛は一切の乱れなく、最寄りの人の里たるトゥリエスにまっすぐ向かってきている。

 もはや、麻薬組織がどうのと言っている場合ではなくなった。今この瞬間、目の前の大量発生スタンピードに対応しなくてはならなくなったのだ。

 カレンが大剣を抜き放ってエドワードの横に並び立ち、通信を終えたイレインがハーヴィーの隣に立つ。短槍を構えて式を紡ぎつつ、エドワードに向けて口を開く。

「連絡したけど、逮捕した組織の連中の連行にちょっと時間がかかるみたい。申し訳ないがしばらく牽制して、って」

 この状況でも妙に艶やかな所作は変わらず、イレインは髪を軽く撫でつけながら困ったように言った。

 作戦はすでに終了したようだが、続けてこんな問題が発生することは流石に想定していなかったようだ。逮捕した者どもをむざむざ魔物に殺されるのも本末転倒、安全な場所へ連行するまでの時間を稼がなくてはならない。

 相手は無数の群れ、こちらはたったの四人。なかなかの絶望的な状況に思わず乾いた笑いを漏らしながら、エドワードは己を鼓舞するように吠えた。

「行くぞッ!」

 号令一喝、四人の魔術が同時に放たれる。

 エドワードの『岩砲ロックシェル』が、ハーヴィーの『雷槍ライトニングジャベリン』が、イレインの『風砲ウィンドシェル』が、カレンの手甲の『炎弾フレイムバレット』が、一斉に空を彩った。

 岩の砲弾が遠距離にある魔物の群れへと高速接近。そのまま防御することもない進路上の魔物どもを引き潰し、その隣を青白い閃電の槍が着弾の余波で雷撃の麻痺を広げていく。またその横では炎が着弾と同時に火柱をあげ、その合間を無色の見えない砲弾が魔物たちの土手っ腹に風穴を開けた。

 さしもの群れも攻撃に気付いたのか、にわかにざわついたように動きを止め――ばさり、とあちこちで異音が響き渡る。次の瞬間、翼を持った魔物たちが、一斉に飛び立った。

 地上の行進は危険と判断したか、それとも別の何かか。そこを判断することはできないが、しかし状況がひどくなったのは誰の目にも明らかだった。

 空と地上、勢力が二分されたことで圧力は減ったように感じるものの、その実何も変わっていない。狙いが別れた分、数を減らしにくくなったといえるだろう。

 しかし、状況の悪化はまだ続く。

 空と地上の両方の勢力のあちこちから、空色の燐光がちらほらと漏れ始める。それが意味することはただ一つ――魔術の行使だ。

 魔物による魔術の行使は、珍しいことではあれど驚くほどのことではない。行使できるほどの知能があるのはあり得ることであり、過去に無数の事例がある。

 だが、それを無数の群れの一割であったとして行使してきたなら、どうなるか。

「ッ! 防げェェェ!」

 視界を覆う魔術の数々に、エドワードは絶叫して全力で二つの魔術式を紡ぐ。ハーヴィーもイレインも迫りくる死の群れに血相を変えて式を構築する中、カレンだけは数歩前に出て黄金の大剣を構える。

「おい、アンタ何してるっ!?」

「黙ってみてなさい!」

 ギョッとして叫ぶハーヴィーを尻目に、カレンは迫る魔術へと思い切り大剣を薙ぎ払った。熱線が、雷撃が、光線がその刀身と激突し、そして一切の効果を及ぼすことなく燐光に還って散っていく。さらに薙ぎ払った剣を逆袈裟に跳ね上げ、第二波の岩の砲弾や炎の弾丸を同じ末路へと誘い、とどめとばかりに振り下ろせば、遅れて飛来する氷の礫をかき消した。

 大剣『魔術殺しマジックキラー』の本領発揮、触れる魔術を悉ことごとくを魔力に還す。しかし、カレンの凄まじい技巧を以てしてもここまでが限界。タイミングをずらして放たれた、間隙を縫う光線の群れを防ぐには速度が足りない。

 それを補うのが後ろの三人で、『魔術殺しマジックキラー』の能力に驚きながらもハーヴィーとイレインはすべきことを為していた。

 エドワードとハーヴィーが生み出した四枚の『障壁シールド』がカレンの前方に広く展開。その隙間を埋めるように、イレインが発動した『風障ウィンドバリアー』の逆巻く風の結界が広い範囲をカバーする。

 直後、着弾する光線の群れ。ほとんどが『障壁シールド』に阻まれる中、隙間を抜けた光線は、しかし誰にも直撃することなくあらぬ方向へと曲がっていく。『風障ウィンドバリアー』により変化した空気密度が、通る光のすべてを屈折させて無害としたのだ。

 そして返す刃でお返しの魔術を空の勢力へと撃ち放った。地上の進行はバリケードで防げても、空の行軍はどんなに高い壁を以てしてもどうしようもないのからだ。

 空飛ぶ魔物を撃墜し、飛んでくる魔術を防ぎ、またさらに魔術で撃墜する。多少の被害を受けながらも、それでも実力者四人は次々と魔物の数を撃ち減らしていった。

 しかし、その撃ち合いにも終わりが訪れる。

 四人の眼前にまで、ついに駆け迫った地上の群れ。空への注力の終わりを余儀なくされ、砂塵を巻き上げて駆けてくる先鋒の群れを相手にしなくてはならなくなっていた。

「来るぞ!」

「わかってる!」

 最も足の速い、四足歩行型の魔物の群れが息遣いも聞こえるほどの距離に迫る。そして、接敵。

 とびかかってきた二メートルほどの犬型の魔物は、前に出ていたカレンがその口腔に剣を突き込むことで一撃で絶命。続けて涎をまき散らしながらとびかかってくる虎型の魔物の攻撃をカレンは身を捩って避け、後ろのイレインが短槍の鋭い刺突を眉間に叩き込むことで下した。

 さらに、今度は空からやってきた鷹と豚の混じった魔物の突撃を、イレインの短槍の薙ぎと刺突が迎え撃ち、見事撃墜。羽と右の眼窩から血を吹き出しながら後方へと落ちていく。

 穂先にこびりつく赤い血を振り払いながら、イレインは陶然としてつぶやいた。

「わたし、こっちのほうがいい……魔術苦手なんだもの」

「言ってる場合か! 使える手札は全部使えバカ!」

「はぁい」

 ハーヴィーが二足歩行の狼の爪撃をその双剣で捌き、返す刃でその狼の頭を刎ね飛ばしながらイレインに叫べば、彼女も空から飛来する牛の足を持った巨大なクワガタの突撃を刺突で迎え撃ちながら残念そうに答える。

 その横でエドワードも、馬の四足をもつ猪の突撃をぎりぎりのところでステップで回避していた。目の前を通り過ぎようとする横っ腹に剣を突きこみ、切っ先の魔術を発動。魔物の内部で『爆裂エクスプロード』が弾け、文字通り魔物がぐちゃぐちゃに吹き飛んだ。

 弾け飛ぶ肉片を間近で浴びながら、エドワードは気にした様子もなく振り返り、間髪なく飛びかかってきていた螳螂と虎の魔物の鎌をギリギリで剣で受け止める。弾き飛ばし、魔術を放とうとした瞬間、横合いから振り下ろされた黄金の大剣がその虎の頭を切り落としていた。

「大丈夫?」

「なんとかな」

 絶命した目の前の魔物を蹴り飛ばしながら、カレンの心配そうな声に応える。そして彼女と背中合わせになって、同時に襲い掛かってきた熊の剛腕をどうにか足を踏んばって受け止める。よくみれば、体は熊だが頭はよくわからない虫のものだ。

 その気持ち悪さに思わず唾を吐き、複眼に着弾させながら左手を熊の腹に押し付ける。同時、魔術を発動。『炎閃フレイムレイ』の熱線がその硬い身体を貫き、激痛にぐらついたところを、剣を跳ね上げて一閃。虫の頭がごろりと転がる。

 どうと倒れた熊の身体の向こうでは、ハーヴィーとイレインが獅子奮迅の活躍をなしていた。

 エドワードの熱線の巻き添えを食らって貫かれた犬の魔物の首を、ハーヴィーは右手の剣で刎ねつつ、迫る虫頭の猿の拳を左手の剣で受ける。返す右手の刃で心臓を一突きにし、念を入れて首を刎ね飛ばした。

 さらに、素早いステップで振り返った先には、両腕が螳螂の鎌になっている熊の魔物の突撃が。それを受ける――ことはなく、右手の切っ先に紡いだ魔術式を差し向け、発動。

 『電鞭エレクトロウィップ』の電撃の鞭が熊の体に絡みつき、迸る電気に魔物の体が硬直、痙攣を起こす。その隙に、大気を駆ける刃がその首を刎ね飛ばした。

 その横では、イレインの短槍が空中を舞い踊る。目の前の羽が生えた巨大な狼の鼻面を蹴って高々と跳び上がり、その背中に一撃。さらに空中で身をひねって穂先を躍らせ、翻った短槍が直上から狼の心臓を一突きにする。

 そうやって沈んだ魔物の体を蹴ってまたさらに宙を舞い、魔術によって風を纏った穂先が空飛ぶ魔物を両断。落ちる死体すら足場にしてさらに跳躍し、群れに突っ込んでは短槍を躍らせて鮮血が舞う。この場の誰よりもイレインは生き生きとしていて、戦う姿は誰よりも勇猛だった。

 それを横目に、カレンと共闘しながら周囲を見渡すエドワード。

 もはや、彼らの周りは半分包囲されているような有様だった。見える範囲だけでも数十体は居るだろうが、今相手しているのも全体のほんの一割程度にすぎない。こうしている間にも、魔物の群れの本隊は近づいている。

 さて、いよいよ絶望的か、とエドワードが最終手段の魔術を紡ぎ始めた瞬間――不意に、頭上を黒い影が通り過ぎる。街の方角から飛来してきたソレに思わず視線を向ければ、目に映ったのは巨漢の背中だった。

 その手に握る斧槍を大上段に構え、斧身に刻まれた式が燐光を放つ。そして、群れの中心に着地すると同時に斧槍が振り下ろされ――大爆発を巻き起こした。

 近くにいたエドワードらも吹き飛びそうな爆圧を必死に耐えれば、爆煙が晴れた先には屹立する大男が笑みを浮かべて四人を見ていた。

「待たせたな! お前たち!」

「オヤっさん!」

 グッとたてられた親指に、ハーヴィーが喜色を浮かべて脱力する。

 フェリックスが来た、ということはつまり、増援が間に合ったということ。

 エドワードが思わず空を見上げれば、数えるのも馬鹿らしい数の魔術が後方から天空を彩り、空を飛ぶ魔物どもを一気に駆逐していく。魔物側から飛来する魔術も無数の『障壁シールド』が完璧に防いでいた。

 さらに、フェリックスに遅れて続いてきた警官たちがエドワードらの周囲になだれ込み、未だ彼らを包囲していた魔物たちを倒し、安全域を確保する。

 そこまでされてようやく、エドワードも肩の力を抜き、紡いでいた魔術を霧散させる。ここまでくればもう安心だ。数百人の精鋭揃いの警官がいれば、流石にもう怖くはない。

 思わず剣を大地に刺してそれにもたれかかるエドワードに、フェリックスは担いだ斧槍を揺らしながら笑みを浮かべて言葉をかける。

「はは、お疲れだなエドワード。だが、残念ながら、本番はここからだぞ」

「今ぐらい休んだっていいだろ……」

 それぐらいわかってる、と口にたまった気持ち悪い唾を吐き出しつつ、無理やり背筋を伸ばして前方を見据える。

 先鋒としてやってきていた足の速い魔物の群れは完全に駆逐した。その死体は、魔力で構成されているが故に、時間がたてば魔力に還元されて消えるだろう。

 それでも濃厚な血の匂いに眉を顰めながら、エドワードは前方に広がる無数の魔物の群れを睨んだ。

 そう、これからが本番。足の遅い、言うなればその分だけ強力であろう魔物が、大量にやってくるのだ。

 思わず気が滅入る話だが、エドワードに今さら手を引くつもりはさらさらない。関わってしまったが最後、放り投げて逃げ出すような真似はもうしたくないのだ。

 逃げる、という考えに過去のトラウマが僅かに疼く。しかし、それはもう負のソレではなく、日和見をしたがる己を前へと突き動かす原動力となっていた。

 剣を大地から抜き、前を行くフェリックスの隣に並び立つ。ちらりと寄越された視線に不敵な笑みを返し、二つの魔術式を描いて気力を充足させた。

 周囲では同じように得物を構え、或いは魔術式を描く者たちが緊張を高めていく。エドワードの隣に並び立つカレンもまた、その空気に同調するように大きく息を吸い、姿勢を低く大剣を担いだ。

 高まっていく戦意を感じ取り、フェリックスはおもむろに息を吸い、そして怒号を張り上げた。

「さあ、いくぞお前たち! 気合い入れて行けよ!」

「おう!」

 フェリックスの銅鑼を響かせるような号令に、数百人の応がトゥリエスの郊外に木霊する。

 そして、砂塵を巻き上げて数百人が突撃し、間もなくして魔物の群れと激突した。









 頬を流れる汗に気持ち悪さを覚え、エドワードはグイと拭う。だが、二度三度と拭っても流れる汗に違和感を覚えて、拭った手の甲を見れば、目も覚めるほど真っ赤に染まっていた。

 そこまできてようやく頬がザックリと切れているのを把握し、とめどなく血が流れているのを遅まきながらに理解する。

 ここまで頭がぼんやりしていたのか、と目も覚めたついでに驚いていれば、ようやく周囲の音が耳に入ってきた。

 怒号、咆哮、悲鳴、絶叫。いったい何人の喉を嗄らせばこんなに多様な叫びが響くのかというくらい、頭蓋を揺らす音が鳴り響いていた。しかし、今更気にすることではない。ずいぶん前からこの有様だ。

 先ほどまで何をしていたか一瞬わからないほど、意識を埋没させて作業のごとく魔物を屠っていた。結果として連携もへったくれもなく、カレンやフェリックスとは当の昔に引き離され、今はどこにいるのかわからない。だが、あの二人のことだから十分生き残っていることだろう。

 思考を打ち切って周囲を見渡せば、魔物の屍が山と積まれている。これは、確か魔術で思い切り吹き飛ばしたからだ。おかげで魔力をごっそり失って意識を失いかけていたのだが、なんとか持ち直せたようだ。

 おまけに、見回したおかげでぽっかりと空間のある広場を見つけることができた。距離的にも近い、ちょっと途中の魔物を蹴散らせばすぐにでも着くだろう。

 そう考え、トドメを刺すために突き立てていた剣を抜き、ゆっくりと歩き出す。

 やはり、少し歩けば襲ってくる魔物、魔物、魔物。おぞましい密度の中を歩けばそうもなるか、と妙に冷静な思考で納得しつつ、攻撃をかわし、カウンターを叩き込み、また攻撃をかわす。

 やってくる魔物を捌いているうちにまもなく目的の広場が見え始め、そこが安全地帯――治療現場であることがわかった。倒れている人々に対し、近くの人間が魔術式を差し向けているのが見えたからだ。

 ならば都合がいい、と頬の傷を気にしつつ、魔術式を構築。『爆裂エクスプロード』を発動し、周囲の魔物を一気に吹き飛ばす。

 おかげで安全地帯までの道のりが綺麗に出来上がり、そこを全力で駆け抜けた。

 それでも尚追いかけてくる、尾が蛇になっている豹の魔物に対し、後ろ手に魔術を放とうとして――横合いから振り下ろされた黄金の大剣が、豹の頭を切り落とした。

 その光景を横目で捉え、振り返るまでもなく、それが誰の仕業であるかを悟った。

「大丈夫?」

「ああ……悪いな」

 心配するカレンの言葉に、剣を下ろしながらエドワードは答える。

 ようやく一息つけそうな安心感にほっとしながらエドワードは周囲を見渡し、そしてカレンに視線を向けて尋ねた。

「それで、ここで何してるんだ? どこか怪我でもしたのか?」

「いいえ。人手が足りてないみたいだったからここの防衛を助けてたのよ。そしたらあなたが走ってきたってわけ。だいたい、あなたのほうが怪我だらけじゃないの」

「好きでけがしたわけじゃないさ」

 頬の切り傷に触ってくるカレンの手を振り払いながら、エドワードは人心地ついたといわんばかりに座り込む。ここで治療してくれるなら都合がいい、と休憩を決め込んだのだ。

 手の空いてそうな医師を手招きして治療をお願いしつつ、カレンを見上げて現状を問う。

「それで、どうなってる?」

「今のところ順調らしいわ。どこかの誰かさんと違って、ここの警察は連携が本当にうまく取れてる。重傷者はそれなりに出てるけど、死者はまだゼロだもの」

「ほう、それは凄いな」

 治癒魔術で消えていく頬の傷を撫でつつ、皮肉を無視して驚いたように言う。確かに、見てみれば地面に伏している人はいるものの、傍の医師と言葉を交わしているようだった。

 あの無数の魔物に対して多少なりの被害を想定していたエドワードだが、どうやら過小評価していたようだ、と警察の評価を上方修正する。きちんと連携を取り、窮地に陥っている味方とちゃんと助け合っているようだ。

 そうして感心している間に頬の切り傷や全身の打撲も治り、医師に礼を言って立ち上がる。

 カレンの隣に並び立って戦場をよく見てみれば、隙間が目立ち始め、戦う警官の姿がよく見えるようになっていた。

 つまり、魔物の数が目に見えて減っているということ。あの無限にいるかと思われた魔物も、このまま続ければ殲滅できると確信できるほどには削られているのだ。

 隣のカレンもそれを感じ取っているようで、初めよりは随分緊張を緩めた顔をしている。

「このままいけば、一時間もすれば終わりそうね」

「ああ、俺たちが何もしなくてもよさそうだな」

 と、カレンの言葉に贅沢を言えば、彼女から非難するような視線が返ってきた。

「何を言ってるの。ここまできたら、最後までやるのよ。そろそろここの防衛もしなくてよさそうだし、いい加減前にでなきゃ」

「……はいはい」

 強い視線と語調にあっさりと折れたエドワードは、仕方なさげに剣を構える。その横でカレンも大剣を担ぎ、薔薇色の瞳で群れを見据えた。

 そして、いざ突撃せんとし――しかし、直後に襲った異変に、足を止めざるを得なかった。

 異変とは即ち、立つこともままならないほどの強烈な横揺れ――地震だ。

 思わずしゃがみこんで地面に手をついてしまう揺れに、あちこちから動揺の声が上がる。それは魔物とて同じく。彼らも動きを止め、一時的にすべての戦場が停止していた。

 時間が経つごとに治まるどころか酷くなっていく地震。視界が横にグラグラと揺さぶられるその最中で、エドワードははるか前方の大地が裂けるのを見た。

 地割れすら起きるほどの災害か、と驚く間もなく、エドワードはさらなる驚きに包まれることになる。

 裂けた大地から、のっそりと伸びる人間の手・・・・。灰色の五指が裂けた地面の縁を掴み、その体を持ち上げんと力が込められる。

 驚くべきはその大きさであり、数百メートルは先であろうエドワードの肉眼を以てして、手のひらが同じ距離にいる人間と同じ大きさに見えるのだ。単純にその手が人のものであると考えると、その身長は五階建てマンションに匹敵する。

 そしてその予想はたがうことはなく、さらにもう一本手が縁に掴まり、持ち上げた全身はあまりにも巨大だった。一つ予想と違うのはアレが人間ではなく、身体が猿で頭部は虎だということだ。

 つまり、あれは魔物なのだ。信じられない大きさであるが、特徴はすべて一致している。

 気づけば地震は治まっていたが、誰も動けないでいた。あれほどの大きな魔物など、逸話の中でしか聞いたことがない。

 誰もが信じられない思いで居る中、唐突に戦場に声が響き渡る。

『雌伏の時は終わった。憎き仇敵どもを駆逐し、我らがすべてを支配する時だ』

 拡声魔術によるものだ、とエドワードは気づいたが、ならば誰が? そんな疑問もまた間もなく氷解した。

 視線の先、巨大な魔物の肩に、魔術式を展開する何かがいる。咄嗟に魔術で視覚強化を行えば、その全貌が見えた。

 成人男性の鍛え抜かれた裸身に、猛禽類の鷹の頭部。股間がないのは生殖能力を不必要とするからであり、それはつまり彼が――否、奴が人間ではなく『魔物』であることを指し示していた。

 人間をベースとした、しゃべる魔物。

 その存在を仄めかされながらも、しかし過去に存在を一切認知されなかったソレが、巨大な魔物を伴い、出現する。


 大量発生スタンピードは、また新たな局面を見せ始めていた。

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