07

 エドワードが目を覚ますと、不意にかぐわしい香りが鼻腔を通り抜けた。

 柔らかくも鮮烈な香りは、どこか嗅いだことのあるもので、直感的にエドワードは「女の匂いだ」とぼんやりとする頭で考えていた。

 そのうちに目の焦点が定まっていき、かなり近い距離にカレンの顔があることに気が付いた。彼女はこちらを向いておらず、どこかを厳しい表情で見つめている。

 体勢的に腕の中に抱かれている、とようやく認識した。なぜだ、と思考し、そして自分が殴り飛ばされて気絶していたことを思い出した。

 そこでようやく、現状のまずさを把握する。

「……どのくらい寝てた?」

「っ! ああ、よかった。生きてたのね! 一分ぐらいよ、もう!」

 声をかければ、カレンは一瞬だけこちらを向いて安心しきった表情をみせた。そんなに心配させていたか、と申し訳なく思いつつ、なんとか自分の力で身体を起こす。

 傍に転がっていた神聖金属ミスリルの長剣を握り、前方を見やれば、自らを殴り飛ばした異形が静止してこちらをじっと見つめていた。

 何もしてこない。

 カレンがずっと大剣を向けていたようだが、いくら敵意を叩きつけられても微動だにしていなかった。

 彼女の手を借りて慎重に立ち上がるも、その間ですらなにもしてこなかった。

「……なんだ? どういうつもりだ、あいつ」

「さあ、わからないわ。さっきまで理性もないみたいに暴れまわってたんだけど、こっちに襲い掛かろうとした瞬間にああなったわ。何もしていない、というより、何かを警戒してるみたいなんだけど……」

 カレンの言葉通り、周囲のベースボール会場はほとんど瓦礫と化していて、無事なのは二人と異形が立つ中央の球場だけだ。

 それがどうして、と考える前に、ふと、エドワードは彼女の言葉が引っかかる。

「なに? 理性がない、だって?」

「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」

 記憶を探る。何もしてこないことをいいことにやや時間をかけて思い出すと、直前に拠点で見た羊皮紙が記憶によみがえった。

 『魂の降臨』、『魂の定着』、そして『魂の理性的支配』。内容をよく吟味し、思い出せば、今の状況がありえないことに気が付く。

「やつら、失敗したんだ」

「……どういうことよ」

「奴らがしたかったのは、竜人の骨を利用して竜人の魂を呼び、そしてその魂を己に降臨させて伝説の竜人の力を自分の思いのままにすることだ。魂を降臨させることで力を手に入れられる、ってのはどうやって知ったかは知らないが……できることを確信していた。それなのに、現在ああして思いのままにできてない、ってことは……奴らは失敗したんだ。俺のせいかもしれないがな」

 直前に叩きこんだ『爆裂エクスプロード』で式が崩れたのを思い出す。あれで何かが狂ったのかもしれない。

 だとしたら万々歳な成果であるのだが、だからといって現状がどうにかなるわけではない。崩壊の羅針盤コラプスゲートの思惑は潰えても、こうして化け物が爆誕してしまったのだから。

 しかも、その伝説の力は嘘でもないように思える。一分弱で瓦礫と化した周囲の会場然り、確実に発動したはずの『障壁シールド』を叩き割った上でエドワードを殴り飛ばしたこと然り。

 今も腹部には灼熱の痛みが迸っている。内蔵がやられたのか、口の中には血の味が色濃く広がっていた。

 「そういうことね」と納得しているカレンも、現状がとても困った膠着であることに気付いているのだろう、表情は晴れやかではない。

 相手が動かないのをいいことに、エドワードは懐からスタミナ増強剤を取り出し、二錠取り出してかみ砕く。

 ザラから融通してもらった代物で、魔力の源であるスタミナが不足しがちな魔術剣士にはとても重要な代物だ。文字通りスタミナを増強してくれるものだが、便利である分副作用が大きく、こうしてピンチに陥らなければエドワードとて使いたくないのだ。一日二錠まで、と制限をかけられているのもなかなか怖い。

 薬の効果で身体の芯が熱くなるのを感じつつ、剣を構えて式を編む。この異形を放置することはできない。ならば、ここで打倒するしかない。

 異形――否、竜人の視線が魔術式を捉え、僅かに体が強張った。やはりこちらを認識している、と改めて理解しつつ、エドワードは僅かに後退する。魔術師的に後衛として戦おうと踏んだためだ。

 しかし、それは悪手だった。

 カレンよりも後方に下がった瞬間――またしても、竜人の姿が搔き消えた。

「――ッ!?」

「そこ!」

 エドワードの視界から一瞬にして消え、驚愕を顕わにする合間にカレンの鋭い裂帛の声が響き渡る。

 直後、振り返ったカレンが大剣をエドワードの背後へと鋭く突き込んだ。

 それに合わせて慌てて振り返れば、大剣の刺突を紙一重で避けて後退する竜人の姿があった。

 思わずカレンの横まで下がって剣を構えなおすエドワード。その横でカレンも大剣を構えなおし、竜人の一挙一動を逃すまいと視線を鋭くしている。

 それを横目で見つつ、エドワードは問う。

「カレン、見えたのか?」

「……ええ、辛うじてね。これでも目はよく鍛えてるの」

「それは、頼もしいな」

 あの驚異の移動速度をカレンは捉えられるのだという。だというならば、まだ対抗できる可能性はある。

 だが、何よりも気になるのは。

「俺が動いた瞬間に攻撃してきた……いや、カレンから離れた瞬間か?」

「ええ。しかも、私の剣を全力で避けてきたわ。当たっても正直掠るかどうか、っていうところだったのに」

「ということはつまり、だ。やつも魔術で縛られた存在、お前の『魔術殺しマジックキラー』さえ当たれば、降臨した魂を消すことができるかもしれない」

 わずかな情報から、二人はあっという間に結論に辿り着く。竜人が理性がなくとも大剣を避けようとするのも、本能が死の危険を、魂の霧散を理解しているからだろう。

 ますます勝ちの目が見えてきた。しかし、当てるにはかなりの策を弄さねばならないのかもしれない。あの移動速度で逃げに徹されれば、大剣の一振りなどまさに牛歩の如くだろう。

 この恐ろしく速い移動速度は、初代ガロン王が戦ったという竜人の特徴そのままだ。それをエドワードは何かのヒントになれば、と古い記憶をどうにか掘り起こす。

『竜と人の合いの子、竜人の健脚は風の如く。

 竜人の剛腕、巨人の如く。

 竜人の叡智、父の如く。

 竜人の吐息、母の如く――』

 そこまで思い出して、ふと気づく。

 目の前の竜人の胸が、唐突に大きく膨らんだことに。

 ゾクゾクゾクッ! とこれまでにない悪寒が全身を走り抜けた。

「ヴィィィガァァァ――――ッッッ!」

「――ッ!? うおおおぉぉぉッ!?」

 刹那、天を裂かんばかりの咆哮。直後に太陽の如き閃光が竜人の口から溢れ出る。

 それを見たか否か、同じく絶叫してエドワードも全力で現在の式を破棄、新たな式を紡いで発動する。

 『障壁シールド』の魔術を高速展開。しかし、竜人の口腔から放たれた吐息ブレス――光線と見紛う超高熱の炎の熱線を受け止めた瞬間、中央から急速にヒビが入っていく。『爆裂エクスプロード』なら三発は受け止められる防御魔術を一撃で、などと驚いている場合ではない。

 さらに切っ先と左手に魔術式を展開、二つの『障壁シールド』を同時発動し、砕け散った最初の『障壁シールド』に重ねる。

 魔術でない攻撃にはカレンの大剣は無力だ。故に、ここでエドワードが気張るしかない。

 さらに一枚、防御魔術を足したころ、ようやく閃光が止み、『障壁シールド』が砕け散ったところで完全に吐息ブレスが消え去る。

 よし、と竜の吐息ドラゴンブレスに比肩する一撃を耐えたことに喜びを見出した瞬間、気を抜いたのがいけなかった。

 光が止んだ瞬間、目がくらんだその一瞬に、竜人はするりとエドワードの懐に風の如き速度で滑り込む。

 気が付いた時には、またも目の前に屈んだ竜人。先ほどの再現、しかし今度は驚愕する前に身体が動く。魔術は間に合わない。ならば、己の身一つで耐えるしかない――!

 全力で後方へと向かうように大地を蹴りつつ、腕を必死に動かして腰のソレ・・を手に取り、腹の前に持ってくる。同時、竜人の腕がブレて――ギリギリで、間に合った。

 直後、エドワードの剣のが、竜人の拳を受けて無残にも手の中で砕け散る。そして、威力の減衰された一撃がエドワードの腹に突き刺さった。

 異物がねじ込まれるような感覚。身体の中の何かがブチブチと千切れる音を聞きながら、エドワードは口から熱い液体が零れたことに遅れて気が付いた。

 それがなんであるか、などと考える暇もなく、巨人の如き腕力で思い切り腕を振りぬかれる。そのまま吹き飛んだエドワードは矢の如く後方の瓦礫に突っ込み、叩きつけられた勢いのまま口にたまった熱い液体を吐き出した。案の定、内臓からの血液だった。

 今度は全身を苛む激痛によって、意識は保ったまま。むしろこの状態の方が辛いかもしれない、などとぼんやりする頭で考えつつ、この状態はまずいと瓦礫から身体を引き抜こうともがく。

 激痛に悶えながらもどうにか体を起こせば、エドワードに近づけまいとカレンが竜人に向けて大剣を振るっていた。

 巨大な得物を振るっているとは思えない、鋭い突きからの跳ね上げる一撃。それからさらに振り下ろし、振り上げ、薙ぎ払い、と隙なく連綿と続けられる斬撃。

 しかし、竜人はその速度を活かしてするりするりと避けていく。逃げ場をふさぐように斬撃の檻を打ち放っているものの、それでも速度に負けて避けられていた。

 そして、返す刃で振るわれる剛腕。それをカレンは膝の力を抜くように身体を落とすことで避け、剣を跳ね上げて伸びきった腕を狙う。、

 が、それすらも竜人は後退することで回避。やはり速度が尋常ではない。


 俺がどうにかしなければ、と既にボロボロになっている身体を立ち上がらせれば、懐からボロリ、と何かがこぼれ落ちる。

 なんだ、と視線を向ければ、それはいつの間にか懐に突っ込んでいたヴァレントの魔術書だった。落ちた勢いで広がったページが、不意にエドワードの目に留まった。

 それは、どこかで見たことのある魔術式。遠い記憶でありながら、どこか近い記憶の中にある魔術だった。

 思わず拾い上げ、そのページの魔術式を穴が開くほど見つめる。どうしようもないほど完成されたそれに、エドワードは思わず笑みを浮かべた。

 すぐさまその魔術書を懐に戻し、入れ替えるようにしてスタミナ増強剤をさらに二錠、取り出して飲み下した。用法容量を守らないとどうなるか、非常に怖いが今は無視する。魔力が、もっと魔力が必要だった。

 熱くなる身体を抑えつけ、すべての体力を魔力に練り上げて昇華する。そして切っ先を天高く掲げ、先端に式を紡ぎ始めた。

 それはあまりにも情報量が多すぎて、処理能力を超過した式に脳髄が破裂しそうになる。

 茫洋とさえし始めた意識を必死に抑えつけ、式を紡ぎ続ける。その膨大さにようやく気付いたのか、竜人がエドワードに向き直るも、それをカレンの無数の斬撃が許さない。彼女もここまでくれば、彼がデカい一発を放とうとしていることが分かっているのだ。

 時間にして一分弱、全力で紡いでそれほどの時間をかけた式が今、完成する。

 切っ先に展開する式を剣ごと勢い良く振り下ろし、竜人へと向ける。

 ソレは、膨大にして複雑怪奇、無数の記号を束ねて形成したる、かつての伝説の一撃を具象する魔術式。

 第二級禁止魔術に分類されるソレを、現代魔術に変換し、威力を第三級禁止魔術級にまで落とし込むことでようやくエドワードにも発動が可能になった魔術。

 ページを軽く見ただけで式を紡げるほど簡単なものではない。エドワードに確固たる下地があったからこそ、軽い一瞥だけで魔術式を展開できた。

 それは、古いながらつい先ほど見た記憶。既にいない親友と共に研究したからこそ式を紡げる、『かつて大陸を穿った一撃、神の怒りの代弁者、太陽の閃光を束ねた光の柱』たる魔術。

 燐光が激しく明滅し、魔術の完成が為される。刹那、危険を感じ取った竜人が逃げようとするが、無駄。

 一瞬さえあれば、この魔術には十分だった。

 燐光が消えうせ、魔術――『極光神閃レディエイト・オーバー』が発動する。

「死んでおけ、このトカゲ野郎ッッッ!」

 瞬間、太陽が降臨した。

 そう錯覚せざるを得ないほどの極光を放つ、光線が魔術式から放たれる。

 速度は光速、風の如き健脚で以てしても逃れることは叶わない。逃げようとした竜人よりも速く、柱と見紛うほどの極太の光線が竜人の胸部に突き刺さる。

 ありとあらゆる物質を溶かす超光熱の一撃、いくら竜の鱗を持つ竜人でも耐えられない。

「ヴィ、イ、イ、ガアァァァァァァ――――!?」

 絶叫と共に、光の柱が竜人を貫かんとし――しかし、止まる。

 恐るべきことに、竜人は第三級禁止魔術の威力を耐え抜いているのだ。じりじりと後退しながらも、しかし、竜の鱗は超光線を耐えている。否、溶けながらも再生しているのだ。

 ここに来て、この恐るべき再生能力が発覚。エドワードの究極の魔術が抑え込まれ、結果として竜人を打倒し得ない。

 しかし、絶望は舞い降りない。

 動きは止まっている、竜人は光線を耐えることで手一杯。ならば――この一撃で終わらせればいい。

 極光の陰で、大剣を振りかぶる影。小豆色の髪が巻き上がり、薔薇色の瞳が決死の覚悟に燃え上がる。

「ああぁぁぁぁぁぁーーッ!!」

 直後、咆哮と共に、黄金の大剣が極光ごと竜人を切り裂いた。

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