06

 鮮血が舞い、悲鳴が響き渡り、化け物の絶叫が鼓膜を貫く。

 雪の如く燐光が降り注ぎ、何かを咀嚼する化け物の頭上を柔らかく舞っていた。

 そんな神秘的な光景とは裏腹に、血臭は吐き気を催すほどに濃厚。その原因たるはらわたを晒した死体がそこかしこに散見され、ピンク色の内蔵からは湯気が立ち上っていた。化け物は、それを実にうまそうに食いちぎっている。

 地獄の再現かとさえ思われるようなおぞましい光景に、観客席へと突入した二人の足は完全に止まっていた。

 悲鳴が聞こえた時点で覚悟していた。しかし、ここまでとは誰が想像できようか。

 呆然と口を開けたままの二人だが、やがて視線は上へ。

 頭上を覆う魔術式の中心を見れば、そこには一人の男が居た。頬に奔る裂傷と刈り上げた銀髪、鋭い鳶色の瞳。彼がこの狂乱の元凶であり、崩壊の羅針盤コラプスゲートであることに疑いようはなかった。

 それをゆっくりと理解したカレンの表情が、呆然から激情へと変貌する。そして、声を嗄らさんばかりに叫ぶ。

「こんな、こんなっ! なんてことをしてくれるのっ!?」

 言葉にならない怒りを無理やり言葉にすれば、銀髪の男の視線がこちらへと向く。

 訝しむような表情の後、カレンの鎧の所属を示す紋章を見て、「ああ」と得心したように表情を歪めた。

「また貴様らか……同胞がここに来ていないのも、貴様らの所為ということか。まったく、邪魔ばかりしてくれる」

「当然よ! こんな、こんな恐ろしい真似をするあなたたちを放っておくわけないでしょ!?」

 呆れた調子で、しかし世間話のように話す男に、カレンはさらに激昂し、髪を振り乱して叫ぶ。

 彼女の炎のような怒りを前にしても、男は一切の反応を見せず、今度はエドワードを見る。鳶色の視線がしばらくエドワードを睨み、困ったように眉をひそめられた。

「そして、貴様は生きている、か。だが、わざわざ殺されに来るとはご苦労なことだ」

「……はっ。殺されに来たんじゃない、殺しに来たんだ、このクソ野郎!」

 凄惨な光景に同じく怒りを昂らせていたエドワードも、叫びと同時に紡いでいた魔術式を突き出す。

 刻まれるは『爆裂エクスプロード』。怒りの代弁たる爆発が、男を消し炭にせんと迫る――がしかし、その直前で『障壁シールド』のサークルが一撃を遮断した。

 激突の直前、男の剣に刻まれた式が燐光を放っていたのをエドワードは見逃さなかった。刻印式の魔術式か、と舌打ちしつつ、さらに魔術を叩きこんでやろうと式を紡いだところで――背筋を走る悪寒。

 ぞくりと鳥肌の立つような予感に逆らわず、横のカレンを抱えるようにしながらその場から跳び退れば、突如として飛来した岩の砲弾が眼前の床を打ち砕いていた。

 男からではない、全く別方向からの魔術攻撃に慌ててそちらを見やれば、そこには化け物しかいなかった。

 どこに魔術師が――と探そうとした瞬間、カレンが叫ぶ。

「そいつらは魔術を使うわ! どいて!」

 エドワードの腕を振りほどき、『魔術殺し』を引き抜いて眼前に突き出す。直後、飛来する電撃の鞭が刀身に絡みつき、効果を発揮する前に魔力の燐光となって消えた。

 それを放ったのは、紛れもなく化け物。その事実に、魔術の造詣の深いエドワードはカレン以上に驚愕する。そして同時に、化け物の胸を見て納得した。

 人を、人の脳を混ぜることで、魔術の行使を可能にしているのだと。

 その行為のあまりのおぞましさに、吐き気を覚えるエドワードだが、今はそうしている場合ではない。意識を切り替え――横合いから振るわれた長い鉤爪を剣を巡らせて受け止める。

 音もなく近寄ってきていた化け物の一撃をどうにか凌ぎ、弾き返して返す太刀で胸へと斬撃を叩きこむ。人間の顔が絶叫を上げるのを見て苦渋の表情を浮かべつつも、行動は非情に徹する。剣を手繰り、目の前の化け物の眼窩に切っ先を突き込んで仕留めた。

 しかし、そこで背後から聞こえた風切り音に気付いて振り返れば、カレンが次々と飛来する魔術を剣と肩当の『障壁シールド』でどうにか防ぎ、弾いている。

 男に肉薄しようとしたところを、五体の化け物が遠距離から次々と魔術を放ってきたのだ。男の下へと近づけまいとしているのか、化け物たちは間断なく魔術を撃ち放っている。

 そこまで知能が、と驚いている場合ではない。援護すべく、式を紡いで魔術を放つ。

 直後、カレンの目の前に突如として屹立する分厚い鋼の壁。その壁に魔術が激突し、カレンには一切の被害を与えない。『鋼壁ウォール』の魔術が一時的にであれど、完全にカレンへの攻撃と視線を遮断した。

 束の間の安息を生んで、振り返ったカレンと視線を合わせる。言葉に出さずとも、視線で「どうする?」と問うていた。それに、「任せろ」と力強く頷いて返す。既に考えはあった。

 左手と切っ先に先ほどと同じ魔術式を描いて、発動。再び紡いで発動。さらに描いて発動。怒涛の連続発動に、観客席の至る所に鋼の壁が築かれる。

 一気に魔力を失って肩で息をするエドワードと周囲を見回すカレン。なんのつもりかと問うことすらなく、それだけで彼の意図を読み取り、笑みを浮かべて頷く。

 そして前を向き、剣を担ぐように肩に乗せ、姿勢を低くする。力強く大地を踏みしめ、足に力を込めて――弾け飛ぶように壁から飛び出した。

 直後、見えた彼女を追いかけるように次々と魔術が放たれる。しかし、圧倒的な身体能力によって矢の如き速さで走る彼女を捉えること叶わず、観客席の椅子を次々と吹き飛ばすに留まった。

 その間に次の壁に隠れた彼女は、方向を転換して入った方から飛び出してさらに次の壁へ。急激な方向転換についていけず、化け物たちの魔術は空を切る。

 その隙を突いて、手近な一匹に一気に肉薄。慌てて放たれる迎撃の魔術を剣で打ち消し、懐へ滑り込む。そこへ人の首など容易に刎ねる爪撃が迫るも、それすら肩当の『障壁シールド』が弾いた。

 万事休すの化け物にトドメを刺すべく大剣を突き出そうとして、カレンは慌てて化け物の懐から転がり出た。

 直後、炎の槍が、岩の砲弾が、雷の鞭がその化け物を撃ち貫いた。同士討ち、否、化け物が化け物ごとカレンを殺そうとしたのだ。

 合理的ながらやはり人間ではありえない判断力に、改めて人外のものであることを認識する。もはや魔物と言っても差し支えないのかもしれない。

 舌打ちを漏らしながら、カレンはあわてて鋼の壁に隠れる。

 一方でエドワードも壁に隠れながら魔術式を紡ぎ、発動。壁に隠れたカレンを狙える位置にある化け物へと、『炎槍フレイムジャベリン』を撃つ。式から放たれた槍の形をした炎が化け物へと狙い過たず飛来。遅れて気づいた化け物の頭部へと突き立ち、その命を絶った。

 さらにカレンの進行方向上に居ない三体の化け物に、同じく『炎槍フレイムジャベリン』を投擲する。さすがに反応してくるのか、それぞれが『水膜ウォーターシールド』を発動して対抗レジストせんとした。結果、激突した両者の炎の槍と水の壁が相克し、激しい水蒸気となって消滅する。

 しかし、それもエドワードの予想の範囲内。間髪入れずに放った『爆裂エクスプロード』が対抗レジストする間もなく三体に纏めて炸裂、肉片を散らして絶命させる。

 そして同時に『鋼壁ウォール』を発動し、カレンの逃げ場を作りつつ自分も次の壁へと逃げる。直後に、エドワードの隠れていた壁を光線が貫いた。ついに化け物が壁を突破する方法を見つけてしまったのだ。

 しかし、時既に遅し。カレンは既にもう一体の化け物を切り捨て、そして最後の三体の下へと肉薄していた。

 一体が迎撃せんと前に出て、残る二体が瞳に魔術式を展開したまま僅かに後退する。当然、先にカレンが相対するのは爪をふりかざす一体だ。

 勢いを全く落とすことなく、激突する勢いで突貫。肩に担いだ大剣をそのまま勢いよく持ち上げ、振り下ろす。ただそれだけで、恐るべき切れ味を持つ大剣は化け物に何もさせず、頭部を二つに切り裂いた。

 そこへ、後方の二体から爆裂魔術が放たれる。剣を振り下ろした直後の彼女では打ち消せないと踏んだか、それとも偶然か。とにかく有効な一撃であるに変わりなく、そこにエドワードが居なければカレンも倒れていたであろう。

 魔術が炸裂する直前、エドワードの『鋼壁ウォール』がカレンの目の前に展開。二重の爆裂の前に跡形もなく消し飛ぶ鋼の壁だが、それでも役目を果たしてカレンには手傷を負わせない。

 エドワードの援護を信じていたのか、カレンは一切勢いを殺すことなく次の行動へ移っていた。即ち、大地へと勢いそのまま大剣を叩きつけ、切っ先を埋めた反発を利用して跳びあがる。空中で切っ先を抜き、天高く構えて一体へと力強く振り下ろした。

 落雷の如く。全体重と重さを持った一撃は頭頂部から股へと一気に駆け抜け、真っ二つに切り捨てる。

 隣の最後の一体がようやく反応して振り返り、魔術式を刻み始める。速度は一級、剣を構えなおして振るうよりも早く式は完成するだろう。ならばどうするか。

 大剣を手放し、拳を握る。雷の如き速さで化け物の懐に踏み込み、腰からを上を捩じりあげるように回転させながら――右ストレートを放った。

 見た目以上に重い一撃が化け物の腹に突き刺さる。激痛のあまりか、集中を途切らせた瞳からは燐光が弾けて式が散った。

 しかし、そこで終わる特殊部隊ではない。追撃のように、突き込んだ右拳の手甲から燐光が漏れ、刻印された魔術式が展開、魔術を形成する。性質は炎、形は弾――『炎弾フレイムバレット』が、零距離で炸裂。豪炎の一撃が腹部を弾け飛ばした。


 これで邪魔するものはもう居ない。

 二人とも男の方を見やれば――いつの間にか、降り注ぐ燐光がなくなっていたことに気付いた。

 それはつまり、式が完成したということ。

 巨大な魔術式が完全に会場を覆い、淡い光を放っている。それはエドワードが拠点で見たそのままのもので、その中央に立つ男は剣を持たない手で骨のようなものを手に持っていた。

 尾てい骨のような形をした骨がいくつも連結していて、先に行くほど小さくなっていっている。まるで何かの尾のようだった。

 それを天高く掲げ、男は凄絶な笑みを浮かべる。人がする表情とは思えない、悪鬼のような様相だった。

「さあ、始まるぞ、『国殺し』が! 我らの悲願、我らの願いを成就する時だ!」

 高らかに謳いあげ、同時に魔術式が恒星の如く輝く。骨が細かい光の粒子となって崩れ、式に吸収されていった。

 瞬間、閃光、そして大爆音。鼓膜を貫く大音声と視界を灼く光に、二人の身体が硬直する。

 次いで襲ったのは突風のごとき衝撃波。後方に持っていかれそうになる身体を必死に踏ん張って耐えれば、同時に光が収まっていく。

 見えてきたのは、魔術式よりはるか天空から降り落ちる光の柱。それは男のいた場所を貫いており、どんどんその光が強くなっていく。

 それに比例するように強くなっていくエドワードの悪寒。もはや体の震えが止まらなくなってくるソレに、エドワードは我慢できずに叫んだ。

「くそったれ!」

 同時に魔術式を紡ぎ、『爆裂エクスプロード』を光の柱に叩きこむ。正解かどうかはわからない、しかしやらねば頭がどうにかなりそうな恐怖を感じていた。

 爆発が光の柱を横から貫き、男のいた観客席を粉々にする。

 その瞬間。

 天空の魔術式が崩れたようにも見えて。

 光が爆発するように、全方位に散った。


 果たして何が起きたのか、全く見当もつかない二人は動くことができない。

 光が止むのを待ち、男がいた場所を見つめる。消える光の中、現れたのは――異形だった。

 顔面は人間のソレではなく、爬虫類めいた頭部。そのワニの如く突き出した爬虫類の口の隙間には、短剣のような牙の列があり、その上にある瞳孔のない一対の鳶色の瞳は虚空を見つめている。

 そして人より長い両腕には肌を覆う光沢をもつ蒼い鱗があり、それは全身を覆っているようだった。後ろ腰からは刺々しい突起があちこちから突き出る尾が伸び、ゆらゆらとうねっている。

 下に目を向ければ、両足のブーツを五本の鋭い爪が突き破って飛び出ていて、荒々しく地面を掴んでいた。

 まるで成人男性のパーツを、人形のように爬虫類と入れ替えて付け加えたかのよう。

 それは先ほどまで居た化け物とよく似ていながら、しかしアレとは比べ物にならないほど生き物として洗練されていた。確固たる個を持ち、見ていても全く嫌悪感を抱かせない姿。むしろ、神々しさすら存在していた。

 一体あれは何だ、と固まったまま見つめていれば、その異形が身に纏うボロボロになった衣服に目が留まる。黒っぽい服と、そして異形の右手から滑り落ちる直剣。

 その情報と合致するのは崩壊の羅針盤コラプスゲートの男。よもや、この異形があの男だというのか。

 驚愕し、異形を呆然として見つめていれば――不意に、その一対の鳶色の瞳とエドワードの視線が合う。

 瞬間、エドワードの背中に氷を差し込んだかのような極大の悪寒が迸った。もはや本能と言っても差し支えない反応速度で、全力で後方に跳び退る。しかし、それでは足りなかった。

 いつの間にか、その異形がエドワードの目の前に屈み込んでいた。

 何が起こって、などと思考する間に、その異形が、エドワードの目の前でゆっくりとその人間めいた五指を握る。

 ぞわり、と全身が粟立つような恐怖が総身を駆け抜けた。本能に従うまま、全力で『障壁シールド』の魔術を形成する。

 それが間に合ったか否かという瞬間――

「ヴィィィイイイアアアァァァアアアッッッ!」

 跳ねあがる拳と何かが砕ける音と共に、突然目の前の化け物が遠ざかっていく。

 逃げるのか。どうしていきなり。

 否、違う。自分が吹き飛んでいる――。

 理解すると同時に、腹部に燃え盛るような灼熱の痛みが炸裂する。

 その痛みに悶えるよりも早く、背中と後頭部への更なる衝撃を最後に、エドワードの意識は暗転した。 









 ふと気づくと、エドワードは廊下を歩いていた。

 のんびりと、どこか不機嫌さを思わせる足取りで、若い男女たちが行き交う廊下を歩いている。目の前を、すぐ横を、同じくのんびりと通り過ぎる彼らはみんな楽しげで平和だ。

 はて、自分はなぜこんなところに居るのか。そもそも今まで何をしていたっけ?

 歩きながらも、どうしても思い出せない現状に疑問を呈していれば、突然背中を強くどつかれる。

 走る痛みに顔をしかめながらも振り返れば――思わず、息を呑む。

 癖のついた赤毛に碧眼、特徴的な泣きぼくろ。今だって思い出せる、『彼』の姿そのものがそこに居た。

「よう、ずいぶんごきげんななめじゃねえか」

 聞けば心地のよくなる低音の声で、朗らかに話しかけてくる。そう、これも彼の人気の理由の一つだ。

 ああそうか、とエドワードは納得した。

 これは夢だ、と。

 夢でないとあり得ない、彼がこんなにも普通で、平和な時間は。

「……ロイド! 聞いてくれよ、エリックの奴がアレ・・をチクろうとしてやがったんだ!」

 『彼』――ロイドの顔を見て、エドワードは態度を一変させ、笑みを浮かべながら彼の肩を叩く。

 そう、確かこの時はこんな風に返していた。

 これはかつての一時を回想しているのだ、と遅まきながらに気付く。故に、身体は思う通りには動かない。

 触れたくないのに彼に触れ、語りたくないのに彼と語らう。なんと残酷なことか。いつもなら、このあたりで無理やりに目覚めて夢を断ち切っている。

 だが、いまのエドワードは、なんとなく、この続きを見たくなった。あの頃を、思い出したくなっていた。

「おいおい、まじかよ! やっぱりエリックは誘うべきじゃなかったな。アイツはいつも最後には日和やがる。アレ・・はやっぱり俺たちだけの秘密だな」

 夢の中のエドワードの言葉に、ロイドは渋面を浮かべて吐き捨てる。そういえば、エリックなんてのも居たな、と夢を見ながらエドワードは内心笑みを浮かべた。

 先ほどからアレ・・と隠語を交えて会話しているが、これも今のエドワードはなんであるかを思い出した。そういえばそんなバカもやっていたな、と。いや、やっていたからこそ、あんなことが起きてしまったというべきか。

 そうやって思いを馳せているうちに、二人はいくらか言葉を交わして、そのまま肩を並べて歩き出す。

 向かう先はとある一室、書庫だ。

 ここは、かつてエドワードが通っていた、ツァール魔術高等学院。優秀な魔術師の卵が通う魔導院で、一部のエリートにのみ門戸を開く場所だ。

 その書庫となれば、かなりの数の魔術書が納められており、その中には当然、第一級禁止魔術に関連した書籍もちらほらとみられる。

 その中でも一部の教員にのみ閲覧を許される禁書に分類され、書庫の奥に封じられている物が、この二人の目的だった。それを盗み見て、中身を研究することが最近の二人の楽しみであり、エリックにばらされそうになった悪い事、である。

 いかにエリックを黙らせたか、なんて他愛もないことを話しつつ、できるだけ自然に奥へと近づいていく。目的の代物は司書の座るカウンターの奥の扉の先にあり、二人の目標はいかにしてこの司書を席から離すか、というものだ。

 だが、今日という日は運がよかったことをエドワードは思い出す。たまたま司書が席を外していて、鍵をかけられた扉もピッキングで容易く開けられたからだ。

 周囲に誰もいないことを確認して、中にするりと入り込む。

 中の小部屋には、禁書がぎっしりと詰められた本棚があり、そこから迷いなくロイドは一冊の本を手に取る。

 第二級禁止魔術研究書、と銘打たれた表紙を感慨深く撫でながら、ロイドはにやりと笑みを浮かべた。

「さ、今日はどれを見ようか? 昨日の『震天雷条ライトニング・オーバー』は難しすぎて手に負えなかったからな。俺達でもどうにかできて、かつ研究し甲斐のあるやつ……となれば、なんだろうな?」

 ロイドから本を受け取ってページをぺらぺらとめくれば、数多の文字と記号が情報として視界を覆っていく。

 教科書では決して得られない情報の数々にやはり興奮しながら見ていけば、やがて一つの魔術に目が留まる。

「これなんかどうだ? 『かつて大陸を穿った一撃、神の怒りの代弁者、太陽の閃光を束ねて――」

 二人してそのページを覗き込み、その内容にのめり込んでいく。やがてはその中身をメモして、二人で大はしゃぎしながら書庫を去っていった。

 そんな、どこにでもある学生時代の青春の一幕。蓋をして重石を乗せてまで封印していた遠い記憶の欠片だ。

 平和な彼の横顔をぼんやりと眺めていれば、やがて不意に周囲の景色が遠ざかり、暗くなっていく。

 行き交う人々の影が掻き消え、代わりに立ち並ぶ木々が後方へと流れていく。いつの間にか、エドワードは走っていた。

 エドワードだけではない、平和な顔をしていたロイドも、いつの間にか決死の形相で走っている。

 突然にこうして場面が変わるのも、今のエドワードには慣れたものだった。必ず平和な夢の途中で、こうしてあの『トラウマ』へと変化していく。

 これは、そう、学生時代の終わりごろだ。国境近辺で起きた紛争を耳にしたロイドが、その紛争に参加すると言ってきかなかった。

 理由を問えば、彼の故郷の近くで起きているからというもので、いつ自分の両親が巻き込まれるか気が気でないという。自分が参加することで、少しでも早く紛争解決に導ければ、と尋常でなくロイドは焦っていた。

 色々と理由を考えたが簡単に言えば、そんな彼を放っておけなかったのだろう。エドワードもそれについていくと決心し、それを快諾したロイドと共に、国境で陣を敷くガロンツァールの軍の門戸を叩いたのだ。

 ツァール魔術高等学院の生徒ということ、つまり優秀な魔術師であるということと確かな身分の証明が後押しとなって即戦力に採用され、二人は本格的に紛争に参加することとなった。

 これはその一場面であり、紛争に参加していた最後の瞬間ともいえる。

 きっかけは実に些細なことで、指揮官の作戦ミスとも言えるし、敵国の指揮官が優秀であったとも言える。森の奥深くに釣り出された二人の所属する小隊は、気づけば敵軍に包囲され、対抗レジストの余地なく無数の魔術の雨に晒された。

 魔術師として防御の魔術をどうにか繰り出した二人だが、それでも護れたのは自分の身だけ。周りの仲間は炎の槍に穿たれ、岩の砲弾に圧し潰された。

 巻き上がる砂煙に紛れてどうにか包囲網から逃げ出したのが、今の走っている状況である。端的にいうと、絶望的な状況だった。

 軍属といえど、あくまで一時的措置。正式な訓練を受けたわけでもなく、一般人よりは長く戦場にいたというだけ。しかも魔術師とくれば身体的に様々な点で劣る軍人に敵うわけもなく、背後から追いかけてくる足音はどんどん近づいてくる。

 夜の林という条件下のおかげで完全に捕捉されてはいないものの、それも時間の問題。それがわかっているからこそ、横のロイドの顔色はどんどん悪くなり、真っ青なままエドワードの方を向く。

「くそ、くそっ! どうする、どうしようロイド!」

「わからない、わかんねえよ! 魔術でやるったって限界がある、戦うのは論外だ!」

「だが、このままじゃ!」

「わかってる! ちくしょう、どうすれば……!」

 錯乱気味にエドワードが叫べば、ロイドも負けじと叫んで言い返す。平時の余裕はもう二人にはなく、居るのは刻々と迫る死の恐怖におびえる子供二人だった。

 荒い息を吐き、会話を交わすことすら忘れて走り抜ける彼らだが、不意に、ロイドが足を止めてエドワードに向き直る。

 その顔は蒼白で、恐怖にぶるぶると震えていた。

「……生き残る方法が、一つだけある」

「ほ、ほんとうか!?」

「ああ……でも、生き残れるのはお前だけだ」

「……は?」

 ぽつりとこぼした言葉に思わずエドワードが縋りつくも、続けて放たれた言葉に硬直する。

 頼む、やめてくれ。今のエドワードは、結末を知るが故に懇願する。しかし、これはただの、起きてしまった過去の再生リピート。いくら願っても覆されることはない。

 ロイドは震える手で背中から杖を抜き、エドワードに背中を向けて構える。そして、震える声で呼びかける。

「頼む、行ってくれ。俺の決意を鈍らせるな」

「だが、そんなこと……っ!」

 震える背中に縋るような視線を向けるも、ロイドの決意は変わらない。ぎり、と歯を食いしばって、恐怖に震える身体を抑えつけて叫ぶ。

「行けっ!」

「ッ!」

 鋭い声に弾かれるようにして、エドワードは背中を向けて走り出す。

 友を失うことと死への恐怖を天秤にかけて、自分を優先させたのだ。それが情けなくて、目から涙がこぼれ落ちる。ちくしょう、ちくしょう、と悔恨の言葉が零れた。

 それでも、それでも最後の勇気で振り返って――絶句した。それが、いけなかった。

 敵軍に囲まれるロイド。こちらへと走ろうとしている一部の敵軍。そして、天に浮かび上がる巨大な魔術式。見たことのある、第二級禁止魔術の式の一つ。自らの命を条件に、式の範囲内のすべてを殺す――『全滅結界サクリファイス』。

 やめろと叫んだのか、待ってくれと叫んだのかわからなかった。

 直後、強烈な閃光が網膜を灼き、鼓膜を貫く爆音が全身を叩く。吹き飛ばされそうな圧を必死の思いで耐え、やがて光に目が順応して目の前の惨状が視界に入った。

 式の直下にあった全ての生物――植物、木々すらも消滅し、ロイドを囲んでいた敵軍は影も形もなくなっていた。当然、こちらを追いかけようとしていたやつらも消え去っている。閃光の中に消し飛ばされてしまったのだ。

 しかし、一つだけ消えなかったものがある。

 目の前にゴロリ、と転がる、ソレだ。

 見るな、やめろ。懇願してももう遅い。

 こちらへと伸ばされるように五指を開いた手と腕。その根へと視線を動かせば、あるべき胴体はなくなっていた。腕だけがぽつんと落ちている。

 探してはならない。そう思いながらも、探すことはやめられなかった。

 視線を巡らし、何もなくなった大地の中央にあるソレに、丸いナニカに自然と視線が吸い寄せられる。

 癖のある赤毛。

 虚空を見つめる碧眼。

 愛嬌のある、泣きぼくろ――

「あ、あ、あぁ……」

 光を失ったロイドの目が、首が、こちらをぼんやりと見ている。

 青春時代を共にした親友が、戦場を駆け抜けた戦友が、死をもってして守ってくれた恩人が――無残な骸を晒していた。

 腕と頭だけしか残らなかった友の姿に、心の中の何かが切れた音がした。

 振り返り、訳のわからないことを喚きながら走り出す。脳裏には無残な死骸が何度も反芻されていた。

 そこに悲しみはなく、尊敬の念もなく、あったのはただ、「ああはなりたくない」という死への恐怖のみ。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 拒絶の念を吐きながら、走って走って走って――髪も真っ白になったころ、エドワードはトゥリエスの路地裏に倒れていた。


 それが、トラウマの顛末。

 顔も名前すらも忘れようとして蓋をした記憶の一部。

 それを今、思い出したエドワードは――笑みを浮かべた。

 真っ白になって倒れる自分に背を向けて、呟く。

「じゃあな、ロイド」

 それは、決別の言葉。

 過去に、トラウマに、親友に。

 もう逃げだしたりはしない。それどころか、もう出会うことすらないだろう。

 そう願い、そう思い、エドワードはゆっくりと意識を覚醒させていった。

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