02
黒い影に囲まれている。殺意が空間を満たし、今にも破裂しそうだった。
鋼の鈍い光に囲まれている。害意が全方位から突き刺さり、頭がどうにかなりそうだった。
天空の細い三日月が嗤っている。体が重い、頭上から降り注ぐ光に質量が搭載されたかのようだった。
流転する影、廻る鋼、嘲る月。どれもこれもが現実感がなく、ふわふわとした意識に無理やりねじ込まれているような、異常な存在感を放っていた。
それら全てをぼんやりと眺めていれば、取り囲む鋼の一つが唐突に、目の前に迫る。それが人を殺せる刃だと気付いた時には遅かった。
迫る、迫る、迫る。
おぞましさを覚えるほどの遅さで迫る刃は、どうしてか微塵も動かない身体についに到達する。
突き刺さる。
絶叫する。
血反吐を吐く。
肩口に燃えるような痛みが走っていた。
喉を震わせて叫ぶ。やめてくれ、待ってくれ!
悲鳴が届いたのか否か、取り囲む鋼の列が唐突に乱れる。殺意がしぼむように消え、月が雲にかくれて居なくなる。
尚も乱れた刃の向こう側、誰かの白い手が伸びてくる。
それは、助けようとしているようにも、助けを求めているようにも見えた。
誰だと、見る。
見てしまった。
そこに居たのは――――。
「――――あぁあぁぁぁっ!?」
絶叫を上げて、エドワードは目を覚ました。
最初に視界に映ったのは白い天井。
それは自宅の事務所の薄汚れた寝室とは違い、慌てて周囲を見回せば、清潔感のある白い小部屋のベッドに寝そべっていることを理解する。まるで病院のような造りを前に、すぐに思い出した。
川に落ち、流されることで黒尽くめ達から逃れたエドワードは、下流の方で死にそうになりながらもなんとか上陸し、その足で知り合いの医療院に駆け込んだのだ。
例にもれず入り組んだトゥリエスの路地はエドワードのなけなしの体力を根こそぎ奪い取り、医療院の門扉を叩いた時には既に意識を消失させていた。もし留守であれば、そのまま野垂れ死んでいただろう。
こうして生きているということは、慈悲深いとは言えない知り合いが僅かばかりの親切心で助けてくれたのだろう、とエドワードは息を吐いて安堵する。
そういえば、何か夢を見ていたような気がしたエドワードだが、既に記憶には霧がかかっており、思い出せそうにない。
思い出せないならいいか、と嘆息していると、ちょうど小部屋のドアが開く。続けて、短く切った黒髪の女性が胡乱げな目をしながら入ってきた。
とても整った顔立ちをしており、その容貌は間違いなく美女であろうが、よれよれの白衣にその下の清潔感のない服装がすべてを台無しにしていた。これではただのだらしない女である。
「ずいぶん元気な叫び声ね、エド。死にかけだった姿は演技かしら」
開口一番、皮肉めいた言葉をエドワードに投げかけ、女性はベッドの傍の椅子に腰かける。表情には呆れのみが浮かんでいて、心配する素振りも雰囲気も皆無だ。
そんな彼女に、エドワードは苦笑いを浮かべて首を振った。
「肩に穴あけてまでか? そんな演技派になった覚えはないぞ、ザラ」
女医ザラは、そんなエドワードの軽口に鼻を鳴らして流すと、ベッド脇の小机から書類を取り上げる。カルテのようなものらしく、それを見ながら、エドワードを懐疑的な目で一瞥した。
「それで? どんな派手な喧嘩をしたら死にかけのまま、医療時間外のウチに来る羽目になるのかしら。全身打撲に右上腕の裂傷、左肩には大きな穴、ねぇ。……日和見大好きのあなたにしては大怪我よ、コレ」
「俺じゃなくても大怪我だよ、んなもん。それに、自分からやったんじゃない、巻き込まれたんだ」
心外だ、と言わんばかりに首を振ってため息を吐くと、何があったのかを簡潔に話す。ただし、王家が関係することは省いて。
王家などという特級の面倒ごとを、ザラが嫌がる性格であるのはエドワードの知るところであるし、彼も彼女を深入りさせるつもりはないからだ。
怪我した患者と治療する医者、二人はその程度の関係だ。友人でもなく知り合い止まりであるのがその証拠だろう。
とにかく、どう考えてもいきなり襲われた、ということを強調して話終えれば、エドワードはもう用はない、とばかりにベッドから降りて立ち上がる。
「ちょっと」
「治療魔術で怪我は全部治ってるんだろ? なら、わざわざここで寝てる必要もない」
制止しようとするザラに、エドワードは壁にかかっている己の浅葱色のジャケットを手に取りながら言う。事実、傷は治療を施す魔術の効果によって跡形もなく消えていた。これは傷に対して有効な式を描けなければできない、高度な技術があるという証左でもある。
相変わらずの腕に感心しつつ、案の定ジャケットに穴が開いている、と眉をひそめていると、ザラは首を振って「そうじゃないわ」と否定した。
「なんだよ」
「お金払ってないじゃない。何をさらっと帰ろうとしてるの」
「…………」
全然心配していない、医者にあるまじき態度に思わず閉口するエドワードに、ザラは美しい顔に笑顔を咲かせてさらに言う。
見惚れるような微笑みだが、守銭奴の気配は全く隠しきれていなかった。
「営業時間外の治療だから、費用は三割増しね」
「おい待て」
「あら、拒否するの? 別にいいわよ、それでも。あなたが寝ている間に
「医者が
「正当な報酬を払え、といってるだけじゃない」
いけしゃあしゃあと言ってのける美女は、ぐいと掌を迫らせる。エドワードは頬を引くつかせて財布を取り出さざるを得なかった。
✻
ずいぶんと中身の軽くなった
街の雑踏は、つい昨日エドワードが殺されかけたのが嘘であるかのように平和そのものに感じられる。傷が跡形もなく消えているのも相俟って、実は夢であったのではないか、とすら錯覚させられそうだった。
エドワードには、どことなく現実感がなかった。
ただのドライブの最中に、目の前で人が死に、そしてあからさまな犯罪集団に襲われて命を奪われそうになる。
芝居劇を見ているかのような、そんな遠い世界の出来事にさえ感じられていた。
しかし。
ジャケットの左肩に開いた穴に触れる。
それは紛れもなく、昨日の出来事が事実である証左だ。首を狙い、心臓を狙った刃は、すべて本物であったということ。昨日は生き残ることに夢中で気づけなかった事実を、改めて認識した。
そう思えば、背筋をゾクリとした悪寒が駆け巡る。
非現実が現実に変えられる。なんとはなしに進めていた足が止まり、一歩も動けなくなった。
死が、近距離を
トラウマが記憶の奥底から顔を出した。かつて経験した、おぞましいほど近くにやってきていた死を思い出す。
『■■■』の、顔が、腕が、掌が――――
「あの」
「っ」
後ろから声をかけられ、ハッと現実に引き戻された。幻覚は消え去り、雑踏の足音が近くにやってくる。
滲む汗を拭いながら振り返れば、黒いロング丈のコートを羽織った、小豆色の長い髪の女が心配そうにエドワードを見つめていた。その後ろには同じ髪色の男が同じようにしている。
声をかけたのは女性のようで、顔色の悪いエドワードの顔を薔薇色の瞳で覗き込んで、心配げに眉をひそめている。
「大丈夫? ずいぶん、気分が悪そうだけど」
「……ああ、ご心配なく。ちょっとした……そう、二日酔いだ」
無理に笑みを浮かべて首を振れば、女性はそれ以上言葉を重ねるのも野暮だと思ったのか、「そうですか」と顔を離して頷く。
そのまま立ち去ろうとするエドワードを、隣の男性が「ああ、そうだ」と思い出したように声を上げて引き留めた。
「少しお聞きしたいことがあるんですが、いいですか?」
「……どうぞ」
正直、未だ気分のよろしくないエドワードはさっさとしてくれ、という気持ちだったが、最低限の礼節をわきまえてそれを抑えておく。
そんなエドワードの様子も知らず、物腰柔らかな男性は懐から紙を取り出し、それを広げてエドワードに見せる。それは地図のようで、一点に赤い丸が記されていた。
その丸を指さし、
「ここなんですが、どう行けばいいか教えていただけませんか? この街には初めて来たのですが、思った以上に入り組んでいて……」
と、困ったように笑う男性に、エドワードもよそ者だったかと理解する。この街は、初めてやってきた者にはなかなか厳しい構造をしている。行きたい場所に丸一日かけて行けなかった、なんて話もざらだ。
それなら仕方ないと、少ないながらも存在する親切心を動員して地図を覗き込めば。
「ん?」
「どうかしましたか?」
「……いや、そこは俺の事務所なんだが」
顔を見合わせる男女と、それを見るエドワード。赤い丸はどう見てもデフト探偵事務所を囲んでいた。
場所は変わり、デフト探偵事務所。
あいも変わらず使った形跡の少ない客用のソファに二人を座らせると、エドワードはお茶を二つ差し出して向かいに座りなおす。
そうして人心地ついたところで、エドワードは営業スマイルを浮かべた。
「それで、当事務所にはなんの御用で?」
「なかなかの化けっぷりね……」
さきほどまでの態度から一転した丁寧を装う物腰に、女性――否、よく見れば少女――が思わず、といった調子でぼやいた。それを咎めたのか、隣の男性が肘で彼女の脇を小突いて黙らせる。
そのやり取りを見ない振りしつつ先を促すと、男性は首を振って「残念ながら客ではないんですよ」と前置きして続ける。
「我々はこういう者です」
と、二人は懐から名前と紋章が刻まれたプレートを取り出し、机に置いてエドワードに見せる。
刻まれた名前はカレン・ブリストルとマイルズ・ブリストル。兄妹か、と彼は納得する。道理でよく似ている。
しかし、名前の横にある、交差する剣を背景とした大木を象った紋章は、エドワードが見たことのないものだった。よく見れば、二人のコートの胸にも同じ紋章が刺繍されている。
プレートの紋章の下には文字が刻まれており、それは『アカシャ特殊殲滅部隊』という物騒な十文字である。勿論、これも聞いたことがない。
が、プレートを手に取って裏返せば、エドワードは驚きに目を見開くことになる。
そこにはガロンツァール防衛大臣――ダリル・ペラーズの名が刻まれていたのだ。それはつまり、特殊殲滅部隊とやらが大臣直属のものであるという証拠である。
無論、これらが本物であればの話だが、嘘を騙る意味がないと思い、エドワードはとりあえず信じることにした。なにより、先日のティムの話が脳裏を掠めていたからだ。
「……大臣直属の部隊の方が、それこそ何の御用なんだ? うちはいたって普通の、万年依頼者不足の零細事務所なんだが」
「いや、あなたの経営する事務所に文句があるわけではないのよ。私たちが訪ねた理由は、あなたよ」
「俺?」
少女カレンがエドワードの疑問に答えれば、ますますの疑問が彼の頭を占める。
防衛大臣といえば、国内の治安維持及び国境防衛だ。そんな人物の関係者が訪ねる理由があるとすれば、まさかテロリストや売国奴だが、そんなものになった覚えもない。
もしや知らぬ場でそういった代物に仕立て上げられたのでは、と思考が明後日に向き始めたところで、はたと、身近でつい最近の大事件を思い出した。よくよく考えれば、思い当たる節があるではないか。
「昨日のアレか……」
「ええ、そうです。正確には、あなたが巻き込まれた強盗殺人事件について」
「なるほど。だが、どうしてその事件に俺が関わっていると知ったんだ? 俺は……まあ色々あって通報してないが」
面倒ごとにこれ以上巻き込まれたくなくて自分から通報しなかったことに、若干後ろめたさを覚えつつ問えば、男性マイルズは苦笑しながら「お忘れですか」と言った。
「あなたのスクーターが現場に残されていました。魔力認証システムも生きていたので、ちょっと調べればわかることですよ」
「ああ、それもそうだ……って、俺のスクーター!」
言われて納得し、思い出してうなだれるエドワード。すっかりスクーターの存在を忘れていたらしい。
仮にも数年を共にした愛機であったが、命の危機を前に忘却の彼方と<ミル通り>へと置き去りにされていたようだ。
目に見えて落ち込むエドワードにマイルズは「あとで届けさせますよ」と苦笑しつつ、「事件について知っていることを詳しくお願いします」と促す。
それに否を唱える理由もないエドワードは、素直に何が起きたのかを仔細に述べ、質問にも可能な限りで答える。エドワードは嘘をつくことなく、また真新しい情報を与えられることもなくその質疑応答は簡潔に終わった。
そこで話は終わりかと思いきや、マイルズは丁寧な物腰はそのまま、唐突に雰囲気を剣呑なソレへとがらりと変えた。
まるで話はこれからだ、と言わんばかりの空気に、エドワードも抜きかけた力を引き締め、何だ、と目で問う。
それに、マイルズは翡翠色の瞳で見つめ返し、重々しく口を開いた。
「あなたを訪ねた理由は、もちろん事件の内容について詳しく聞くためでもありますが、本題は別にあります。あなたの、命にかかわることです」
「命だと? どういうことだ? まさか、あの連中がまた俺を襲いにくる、っていうのか?」
怪訝な顔で冗談めかして問えば、その通りだといわんばかりに目の前の二人は真剣な顔で頷いた。
思わず面食らって黙り込めば、カレンがプレートを再び見せて言う。
「私たちアカシャ特殊殲滅部隊は、ある指令を基にして常に動いているの。それが、昨日の事件を引き起こした組織――
コラプスゲート。
これもまたエドワードが聞いたことない単語であり、そんなよく分からない組織を追うために設立された部隊だとカレンは言っている。
そしてその組織が、昨日の事件に巻き込まれたエドワードを狙っているというのだ。
正直に言って、あまりにも自分とかかわりのない、天上からやってきた情報の数々に、思わず疑問を問うてしまう。
「組織だと? 昨日の連中は、そんな、国が動くほどの大それた危険グループだっていうのか?」
「ええ、そうよ。自分たちの犯行を目撃した一般人を皆殺しにするくらいにはね」
さらりと言ってのけた、皆殺し、という言葉に、再び口を閉ざすことになるエドワード。
彼女がそう言うからには過去にあった事例であり、それはつまり、マイルズの言葉の裏付けになる。明確な命の危機だった。
さらに、悪いことに所持品たるスクーターを現場に残してきている。よもや、と思い、エドワードはマイルズに尋ねた。
「命にかかわる、ということは、つまり、俺が襲撃される可能性があるということか?」
「ええ。あなたのスクーターには、入念に調べられた形跡がありました。そこから、私たちはあなたのもとへ来たのです」
思わず、エドワードは頭を抱える。これで命の危機は確定されたようなものだ。
ようやく逃れたと思えた死が、またしても近づいてくる。まるで死神の足音が聞こえてくるようだった。
そんな、当然ながら沈むエドワードに、マイルズは「安心してください」と笑みを浮かべる。
「本題が、まだでしたね。我々はあなたを護るために来たのです」
「とはいっても、あなたを狙ってやってきた連中を捕らえたいのよね。撒き餌みたいなものよ」
柔和な笑みを浮かべたまま、マイルズは余計なことを付け足したカレンに渾身の肘打ちを叩きこんだ。
無防備な脇、肋骨の隙間に一撃をもらったカレンは、悲鳴すらあげられずに悶絶する。机に頭をこすりつけて「んううぅぅぅぅ」と苦悶の声を漏らした。
痛そうなそれを無視して、エドワードはマイルズに問う。不安になっている人間に余計に不安にさせるようなこという
「護る、と言うが、どうするつもりだ?」
「カレンをあなたにつけさせます。その間に私は
「ちょ、ちょっと! 話が違うじゃない兄さん! 兄さんがつくって言ってたのに!?」
マイルズの言葉を遮って、痛みに悶えていたカレンが悲鳴をあげて抗議した。
小豆色の髪を振り乱して兄に詰め寄るが、マイルズはじろりと翡翠の瞳を動かして彼女を視線で射抜く。
びくり、と思わず肩を跳ねさせて動きを止めたカレンに、マイルズはため息を吐いて説く。
「カレン、お前が調べごとが極端に下手なのは周知の事実でしょう。前回だってお前に任せているうちに罠まで仕掛けられて逃げられてしまいました」
「うぐっ」
「それに、余計な事を言って護衛対象を不安がらせた罰です。態度でせめて彼を安心させるように」
「はい……」
ぴしゃりと言い放った兄に、抗議することもできずにうなだれる妹。
仲がいいことだ、と他人事のように見ていたエドワードだが、ふと、疑問を覚える。
「ちょっと待ってくれ。俺の護衛、と言うが、それって四六時中傍にいる、ってことじゃないよな?」
そんな疑問に、兄妹は何を言ってるんだ、という表情を浮かべる。それを見て安堵するエドワードだが、マイルズの次の言葉で凍り付くことになる。
「当然でしょう。奴らはいつ襲ってくるかわかりませんからね」
「……冗談だろ?」
本来なら文句も言えない立場であるが、それでもエドワードはガックリとうなだれた。
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