第204話逢坂越えぬ権中納言(1)堤中納言物語
この五月の終わりになって、ようやく咲いた花橘の香りが、かの古い歌「昔の人の袖の香ぞする」そのもの、昔に愛を誓いあった人を思い出させてしまった。
何とも言えない花橘の香りは、秋の夕べのひんやりとした風にも劣らないほどの、雰囲気のある風に乗り、明るく、そして快く心の憂鬱を吹き流す。
花橘の恋人とも言われる山郭公も、ついに山から降りてこの里にも慣れたようだ。
しきりに鳴き続けている。
見上げる空には、三日月の光がほのかにさしている。
なんと人恋しい夏の夜だろうか。
こうなると、中納言は気持ちなど抑えられない。
「恋い焦がれるあの姫君のところへ」と思うけれど、「どうせ尋ねても相手にされないかもしれない」とため息をつく。
それならば、あそこの「自分に恋い焦がれる女のところへ」と思うけれど、そこには、あまり気が乗らない。
結局、何も決められず、ぼんやりとしてしまう。
そんな時に、蔵人の少将が
「宮中で管弦のお遊びが始まります」
「すぐに、参内を願います」
「帝もお待ちなのですから」
などと、きつく責め立ててくる。
中納言としては、それを言われては仕方がない。
しぶしぶと、
「牛車の用意を」と家来にお命じになる。
蔵人の少将が余計なことを、また言う。
「どうにも、これほど不機嫌なご様子なのは、今夜のお約束でもあるのですか」
「その女君の期待を裏切るとか、女君からの恨みをお気にされてのことですか?」
中納言は、蔵人の言い方が気に入らない。
中納言の言い方も、ついついきつくなる。
「こんなたいしたことのない私など、来ないからと言って恨みを持つ女などいませんよ、変なことを言わないでください」
どこまで本心なのかわからないけれど、そんな問答を交わし交わし、参内なされることになった。
既に宮中では、琴や笛があちらこちらに準備され、調子も整えられ、中納言たちの到着を待っていた。
空の三日月も、すぐに雲に隠れてしまったので、星の光の下での管弦の遊びを始めることになった。
ただ、こういう遊びに興味がない殿上人もいるようだ。
まあ、眠たそうに何度もあくびをし、仏頂面をしているのも、仕方がないことなのだろう。
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