第56話二人妻(1)

男は新しく都と定められた平城京において、写経所つまり東大寺を造るために必要となる写経一般の事務を取り扱う仕事についていた。


写経所のいう仕事は、一見、ただ書き写すという単純な作業所と思われているが、なかなか多岐にわたる「事務」がある。

まず、写すべき経典の目録を作成する、もし手元に移すべき経典がなければ諸寺から借りてこなくてはならない。

また、写経所にて保管している経典に対しても、諸寺や貴族から借り受け希望が来る。

経典目録の作成や成果品の管理、経典貸借管理も厳密に行わなければならない。

それに、当然、写経に関わる墨・筆・紙等の必需品の手配と在庫管理、紙を貼継ぐ糊、お経の軸、紐、机の管理等、細々と写経そのもの以外にも、たくさんの手配が必要となる。


男の家系は先祖代々、この写経に関する職に就いていたし、今回の男の写経所勤務も、父が長年勤めてきた信頼が故、円滑に職を引き続けることができた。

また、男もこの仕事が、好きであり、懸命に努め、上司の信頼もかなり厚くなっていた。


「なかなか、父上の指導もあるのかな、丁寧な仕事ぶりは、写経所としても助かる」

上司は、久しぶりに、男を自邸に誘った。

男としても、上司に誘われた意図はわかっていた。

つまり、上司の娘との「縁談」なのである。

すんなり決まれば、男の将来も、確実なものとなる。

写経所の仲間からも、男の両親からも、縁談の確定は至極当然と思われていた。


しかし、男は、なかなか、縁談に踏み切れないものがある。

写経所に入る以前から、ずっと長く過ごしてきた女のことである。

その女自体は、戦乱から来る飢饉で、子供のころ両親を亡くし、男の家に拾われた。

男とは、ほぼ兄妹のようにして育ち、今は目と目で話が出来る。

父に許しを願い、男自身の使用人として、寝所も数年前から毎日同じ、抱き合って眠ってきた。

しかし、その女が、男の「縁談話」が噂で聞こえてきたと同時に、姿を消してしまったのである。

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