第2話
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「ヨロズさん、送っていきます」
バレンタインの夜、森田君がそう申し出るも、ヨロズ先輩は首を横に振った。
「大丈夫よ、清太君。一人で大丈夫だから」
ヨロズ先輩はそう言うと、軽くお辞儀して帰っていく。
街路灯に照らされるヨロズ先輩の後姿が見えなくなるまで、森田君は家の前の道路に立って見送り、自分の部屋に戻って一人になった途端グッと手を握りしめた。
「先輩と……いちゃいちゃ出来るかも知れないっ!」
森田君渾身のガッツポーズだった。
学校の役員室で別れた時は、互いに冷静さを欠いていた。
喧嘩別れに近かった。
そのヨロズ先輩がどうして、いきなり普通デートをしたいなどと言ってきてくれたのか、森田君には分からない。
だが、間違いなく吉兆だった。
喜ばしいこと以外の何ものでもない。
「先輩と、たくさんお話して、えっと、色んなものみたり、聞いたり。普通の事で良いって、先輩は言ってたし。あ、先輩じゃなくて、ヨロズさんって言わないと。ヨロズさん、ヨロズさん。二人の時は、先輩じゃなくてヨロズさんだ」
独り言を言いながら、森田君は頬がにやけた。
本人が目の前にいる訳でもないのに、ヨロズ先輩の名前を呼ぶだけで全身がくすぐったい。じんわりと温かさが染みていくような、そんな不思議な感覚がする。
幸せと言うのは堪えようがない。
翌日になっても、森田君は笑顔が止まらなかった。
ヨロズ先輩と話し「普通デートは遊園地で」という運びになると、森田君は授業すら耳に入って来なくなる。そんなお昼休みの事だった。
購買部の自販機でジュースを買ったその帰り、渡り廊下で呼び止められた。
「あ、清太くん。ちょうど良かった」
森田君が振り向くと、小柄な女生徒が立っている。
柔らかい笑みと仕草がとてもよく似合う、森田君にとっては信仰の対象ですらある、女神のような一年生。クラス委員長である生瀬さんだった。
渡り廊下の寒さゆえか、胸の前で両手を重ねる生瀬さんは頬がほんのりと赤い。
「どうしたの、エリちゃん?」
「副会長さんがね、清太くんを呼んでるの。私と一緒にきて、って」
何の用事で、と森田君は尋ねる必要も無かった。
バレンタインの当日、副会長には多大な迷惑をかけてしまった。やむを得ない事情とはいえ生瀬さんと掃除用具ロッカーに入ることになり、第二新聞部のパシャ子の追撃を、副会長が何とかしてくれたのだ。あの後、副会長は本当に胃腸がやられたそうだ。
清く正しい学び舎の象徴である生徒会役員室において、不可抗力であるとはいえ森田君と生瀬さんは、いかがわしいと思われても不思議ではない行為をしてしまった。副会長の尽力と情けが無ければ、森田君の社会生命は終わっていたろう。
生瀬さんに先導されて生徒会役員室へと向かうと、副会長が一人で待っていた。人払いは済ませてあるらしく、ヨロズ先輩や書記の松崎さんの姿はない。
椅子に腰かけて背筋をぴんと伸ばし、テキパキと書類仕事をしていた副会長が手を止めて、森田君と生瀬さんを見た。
部屋に入るなり、森田君は頭を下げた。
ヨロズ先輩との一件で浮かれてしまい、礼と謝罪が遅れてしまったのだ。
「副会長。昨日は本当に助かりました」
「私も、その、助かりました」
森田君に続いて生瀬さんも深々と頭を下げる。
すると、険しい顔の副会長は七三の前髪を指先でなぞり、腕を組んで頷いた。
「ん……二人とも、ほどほどに、な」
「あの、すいません、副会長」
生瀬さんが小さく手を挙げて続けた。
「バレンタインの時は、色々あってその、私が、取り乱してしまって。パシャ子ちゃんがやってきたものですから、清太くんがとっさにああして、かばってくれたんです」
「二人とも、何か間違いがあったのでは、ないのだろう?」
「はい。何も」
生瀬さんがそう言うと、副会長は「分かっている」と頷いた。
「森田が生徒会役員室でいかがわしい事をするような、そのような人間でない事は良く分かっている。第二新聞部のねつ造スクープの餌食になるまいと、ああして隠れようとしたことも理解できる。だが、他にやりようはあったはずだ」
起きてしまった事は仕方ないが、次同じ事にならないためにはどうするか、二人ともそれをしっかり考えておきなさい。と、副会長は諭すように語った。
多大な迷惑をかけられてなお、後輩を想って言葉を選ぶ。副会長のこういうところを、森田君は見習いたいなと常々思っている。
「二人とも以後は冷静さを忘れず、気を付けるように」
眼鏡をくいっと直しながら、険しい顔を崩して副会長は微笑んだ。
「――さすがに、あの時は寿命が縮んだぞ、森田」
「はい、副会長。以後気をつけます」
申し訳ないと、森田君はお辞儀した。
「すみません。これからは十分に注意します」
生瀬さんももう一度、深く頭を下げた。
「では、話は以上だ」
そう言うなり、副会長は生徒会役員の書類仕事へと舞い戻った。
「失礼しましたと」と役員室を出て廊下を歩いていると、森田君の横を歩く生瀬さんが小さく咳をした。大丈夫かと森田君が様子を見ると、生瀬さんは目をさまよわせている。
「あのね、清太くん。昨日の事、なんだけどね……その、あれは……」
生瀬さんは顔を赤らめ、指先をもじもじとさせている。
とても言い辛そうにしていた。
聞き役に徹しようとかと森田君は思っていたが、立ち止まった生瀬さんはずっと言葉を出せないようだった。
その様子を森田君は見て取り、助け舟を出すべく微笑んだ。
「言いにくい事なら、言い出しやすくなってからでも良いよ」
そう言って森田君はつけ足した。
「いきなり埋めてって言われた時は、びっくりしたけど。その、話しにくい事情なら、別に聞かなくても、ボクは手伝うから。エリちゃんの頼みなら、これからもそうするから」
声を穏やかにして森田君ははっきりと言った。
生瀬さんには恩がある。その頼みとあらば森田君は火中の栗でも拾うつもりだ。
すると、生瀬さんはためらうような仕草をしてから、強張った肩から力をぬいて、小さく頷いた。生瀬さんのその表情には、ほっとしたような安心と喜びと、どことなく哀しみも入り混じったような複雑な色が瞬いている気がして、森田君は目をぱちくりとさせた。
「ありがと、清太くん」
生瀬さんは柔く微笑んで、森田君の顔をうかがうように見た。
「清太くん、なにか、良い事あった?」
「……わかる?」
「うん。なんか、幸せそうだよ」
生瀬さんにそう言われ、森田君は自らの頬に手をやった。自分では気づかなかったが、えくぼが深い。
バレンタインの夜から、口角は上がりっぱなしだ。
「実は、来週その……遊園地でデートなんだ」
「そっか」
生瀬さんはうんうんと頷いた。
「そうなんだ。よかったね、清太くん」
生瀬さんのその言葉は祝福の音色で満たされていた。
「それでね、エリちゃん。相談、なんだけど」
「なに?」
「来週の遊園地でのデートはね、普通にするって事になってて、それでその、今までが今までだから、ボクもちょっと良く分からなくなっている部分があって」
「……つまり?」
どういうことなのか?
と先を促す生瀬さんに、森田君は言葉をまとめた。
「普通のデートって、どうすればいいのかな?」
「どうって聞かれても……困っちゃうかな」
やや気まずげな笑みを見せながら、生瀬さんは頭の後ろを掻いた。
「私、経験ないから、そういうの」
生瀬さんのその返事に、森田君は「自分もそうだな」と思った。
ヨロズ先輩と二人で出かけた事は何度かあるが、おおよそ、世間一般における「デート」とは次元が違った。少なくとも普通のデートでは、人を沈めるための池を探しながら水深を確かめたりはしない。
雑誌をめくれば済む話かもしれないが、それでは味気ない。
せっかくのヨロズ先輩との普通デートなのだから、森田君はなるべく、身近な人の意見を参考にしたかった。
(聞き方が悪かったかな……)
と、森田君は思い直す。
それならば、と一拍おいて質問を変えた。
「それじゃ、エリちゃんなら、どうしてもらったら嬉しいかな?」
「……わたし、だったら?」
「うん」
きょとんとする生瀬さんに、森田君は頷いた。
「エリちゃんは、デートの時、エスコートとか、された方がいい?」
「ううん」
生瀬さんはやんわりと首を横に振った。
「私だったら、清太くんとお話ししながら決めたいな。どこで何しようかとか、何時にあつまろうかとか、どんなものが食べたいとか、そういうこと話すのも楽しいと思うから」
そこまで言ってから、生瀬さんはふと気づいたような顔をした。
「清太くんも、相手の人と話し合って、決めたらいいんじゃないかな?」
生瀬さんにそう言われ、森田君は頷いた。
「うん、そうだね。ありがとう、エリちゃん」
「どういたしまして。……あ、じゃ、私、美術室に行くから」
バイバイっと軽やかに手を振って、生瀬さんは階段を下りて行った。
森田君は一人になって、自分の教室へ向かおうと歩き出し、空き教室の前を通りすぎる。すると「森田」といきなり声をかけられた。
森田君が見ると、柱の影に人影がいた。
森田君と同じ高校一年生にしては、妙な落ち着きのある男子生徒だ。
「山下……」
森田君はそう言って、またお礼を失念していた事に気付いた。
クラスでも随一のイケメンにして、脱衣に人生を賭けている変わり者。日戸梅高校風紀委員会のブラックリストのトップページに名前がある一年生、それが山下だ。
森田君の友人でもあり、多少、森田君の事を買い被っているきらいがある。バレンタインの時も二つ返事で、山下はヨロズ先輩の助けになってくれた。
「バレンタインの時は、ありがとう。ほんと、助かったよ」
「友の頼みだ、あの程度、なんてことはない」
「ヨロズさ――銀野先輩も、改めてお礼がしたいって言ってた」
「いや、礼には及ばない。すべて俺が俺の意思でやっていること。なにより、バレンタインでは燃えた。正々センパイとの勝負には、邪魔が入ってしまったが……」
あごに手を当てる山下は残念そうだった。
中庭で風紀のナンバー3と一勝負繰り広げ、厳島先生に連行されたという噂は、森田君の耳にも入っている。二月の寒風の中で二人とも素っ裸になったらしい。
結果的にヨロズ先輩は保羽リコと香苗に追撃され、副会長と松崎さんの助力で窮地を脱したようではあったが、副会長が駆けつける時間を生んだ山下の功績はかなりのものだ。
普段の言動から単なる変態とクラスメイトには思われがちだが、時折するどい一言で森田君に道を示し、またある時は身を挺して庇ってくれる。
残念な事に変態には違いないのだが、何かと頼りになる男だ。
「ところで、どうした、森田?」
「どうって?」
「今日は朝から、いつもと様子が違う。また何か、俺の助けが必要な事か?」
山下にそう聞かれ、森田君は首を振った。
ヨロズ先輩からの頼まれごとには今まで散々、影ながら山下に付き合ってもらってきた。山下に窮地を救ってもらった事は一度や二度ではない。
けれど、今回ばかりは山下の力は必要ないだろう。
そう森田君は確信していた。
「いやいや、違うよ。今回は、普通の……その、デート、だから」
「……普通?」
首を傾げる山下へと、森田君はしっかりと頷いた。
「うん。何の代わり映えも無い、普通の事しかしないし」
「ふむ……」
眉根を寄せて考え込む山下の様子に、森田君は小首を傾げた。
「どうしたの? 山下?」
「つかぬことをたずねるが、俺の浅薄な感性では、お前の感性についていけない。だから、かみ砕いて説明してほしいのだが――それはこれまた、どんなプレイなのだ?」
真剣な眼差しでそう尋ねる山下に、森田君は目を瞬かせた。
プレイもへったくれもない。言葉を額面通りに受け取ってもらわないと困る。
森田君はぶんぶんと手を横に振った。
「いやだから、遊園地に、おでかけするだけ」
「それだけ?」
「それだけ」
森田君が重ねて頷くと、山下は腕を組んで深く頷いた。
「……なるほど。いや、森田。皆まで言うな。お前の真意は、よく分かった」
「そ、そう? なにか勘違いされてるっぽいけど……」
「そんな事はない。ばっちり伝わった」
山下はそう言うなり、何か得心したように立ち去っていく。山下のその後ろ姿に森田君は妙な胸騒ぎを覚えたが、すぐに思いなおした。
今回は誰に気兼ねする事のない、正真正銘の普通デートなのだ。
風紀の出る幕はない。
入る余地はない。
ならば山下に頼る事もないだろう。
森田君はそう思っていた。
水面下でのドタバタを、露程も知らずに……
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