第五巻
第一章
第1話
1
「あなたと普通のデートがしたい」
想い人からそう言われれば、森田君でなくとも小躍りして喜ぶだろう。
森田君はバレンタインのその晩、嬉しすぎてなかなか眠れなかった。
色々とあってヨロズ先輩からのバレンタイン・チョコレートには結局ありつけなかったが、普通デートの前には些細な事とさえ思えた。
「人を地面の下に埋める必要性があるって気づいたの!」
と生瀬さんにカミングアウトされ、バレンタイン当日に森田君は下半身を地面に埋められたりもして、困惑と共にドキドキしたが、森田君にとってはそれも些細な事だ。
風紀委員会とは違う何者かの邪魔が入ったり、生徒会役員室で副会長に多大な迷惑をかけたり、ヨロズ先輩と口論になったりしたが、全て些細な事だ。
その他にも、バレンタイン当日は本当に色々な出来事に見舞われたが、ヨロズ先輩から「普通のデートがしたい」という一言が聞けただけで、森田君の疲れはふっ飛んだ。
好きな人とのデート。
普通のデート。
山中に穴を掘るのでも、コンクリートをこねるのでも、高層ビルの下見をするのでも、人体をバラバラに切り刻むイメージトレーニングをするのでもない。
悲惨すぎる『設定』なるものも、ない。
過酷な肉体労働ではない。道行く人の目を気にする事もない。人体模型を研究したり、寒中水泳をしたり、家の庭に穴を掘ったりしなくていい。
警察屋さんに怯える事もない。
誰かを騙したり、誰かの意表を突いたり、良心の呵責に苛まれながら気絶させたりする必要もない。何の変哲もない、高校生らしい、清く正しいデートなのだ。
ヨロズ先輩とは、今までが今までだ。
(……どこでデートすれば良いだろうか?)
と森田君は悩んだ。
ヨロズ先輩は言っていた。「普通の事を二人でしましょう」と。ショッピングでも、映画館でも、それこそ自宅でDVDを見る事でも、なんでも良いと。
ならば遊園地デートなどはどうだろうかと、森田君は思った。
定番中の定番だ。
好きな人と遊園地へ行く、それは森田君の憧れでもある。
「――というわけで、遊園地で、というのは、どうでしょうか?」
森田君はバレンタインの次の日、学校でヨロズ先輩にそう打診した。
ヨロズ先輩は綺麗な顎のラインに指を当てて考えている。思案顔をするだけで、ヨロズ先輩からは知性がにじみ出ていた。
涼やかな美しさが引き立っている。
日戸梅高校の生徒会長にして、完璧超人のクールビューティー、それがヨロズ先輩だ。常軌を逸した思考力と行動力を兼ね備えている、高嶺の花でもある。
「ええ、いきましょう。遊園地に。……来週、もりたく――」
とヨロズ先輩は言いかけて、朝の生徒会役員室には二人だけだと気付いたらしい。
「……せ、清太君の、来週の予定は大丈夫かしら?」
ヨロズ先輩は恥ずかしそうに目を伏しながら、そう尋ねた。
ヨロズ先輩の声は、どこかぎこちない。
その艶やかな口元に、ぐっと力を込めている。
二人きりの時は名前で呼び合う。バレンタインの時にそう取り決めをしていたが、ヨロズ先輩に「清太君」と呼ばれると、森田君の胸は早鐘を打ち始めた。
「は、はい。大丈夫です。よ、ヨロズ、さんも……大丈夫ですか?」
互いに名前で呼び合う事に慣れておらず、森田君の返答もたどたどしかった。
二人の間に漂う奇妙な空気に、森田君もヨロズ先輩も、二人して額の汗を拭ってしまう。
「え、ええ。大丈夫よ」
「では、来週の休日に、遊園地に行きましょう」
妙な気恥ずかしさを森田君が堪えながらそう言うと、ヨロズ先輩はお辞儀した。
「はい。その、よろしくおねがいします」
ヨロズ先輩のその返答を聞くだけで、その日一日、森田君はトキメキが止まらなかった。授業の内容もほとんど上の空で、先生から叱責されても身が入らない。
友人たちも怪訝な顔をしていたが、些細な事だ。
来週の遊園地デートを想像するだけで、森田君の頬は緩んだ。
入場ゲートをくぐるだけで、きっと、幸せな気持ちに包まれるだろう。
激しいものよりも、コーヒーカップやメリーゴーランドなどに乗りたいなと森田君は思っているが、すこし子供っぽいだろうか? ヨロズ先輩はどうだろう?
ヨロズ先輩はクールビューティーで、スリルを求めるタイプでもある。
刺激の強い絶叫系の乗り物や、お化け屋敷の方が良いだろうか?
お昼はどんなものが良いだろうか?
いやいや、そこも含めて二人で決めるのだ。その場で、その時の気分で。一人がエスコートするよりも、二人で話しあいながら、色々と見て回るのだ。
それがデートの醍醐味ではないか。
二人でいれば、それぞれ違う事に気付けるのだから。そうやって特別な人と、普通の事を普通に積み重ねる事で、仲は深まっていくのだ。
(たとえば――)
と、森田君は思い描いた。
二人で観覧車に乗って「綺麗な景色ね、清太君」などと言うヨロズ先輩の横顔に見惚れたり、見惚れている内にヨロズ先輩といつの間にか見つめ合ったりしてしまうのだ。
そうなってしまうかもしれないのだ。
森田君とて男だ。
「景色よりもヨロズさんの方が綺麗です」くらいは言ってみせる。
そう思いを馳せるだけで、森田君の胸は高鳴りっぱなしだった。
幸せで満たされていた。
明るい未来と、微笑ましい期待に満ち足りていた。
そう――
遊園地での普通デートが、始まるまでは……
「……はぁ……はぁ……!」
森田君の息は、荒かった。
吐く息は白く濁り、虚空へ消えては、また吐き出されて白くなる。
その間隔はひどく短い。
寒い。冷たい。
森田君は小さな身体を縮ませ、自身の二の腕をさすっていた。
普通デート。
そう、普通デートのはずだった。
「はあっ、はぁっ……!」
森田君の胸の高鳴りは止まらない。
動悸が苦しい。
寒さが全身を激しく刺してくる。
なにせ、森田君の肌は大きく露出していた。雑誌を読み込んで精一杯してきたお洒落な着こなしのほとんどは、すでに森田君の肌を離れている。
(普通デートって、こんななのか……?)
そんなはずはないだろうと思いながらも、森田君は自問した。
自問せざるを得なかった。
そもそも、普通の定義とは、なんだろうか?
(なぜこうなった?)
どうしてこうなった?
分からない。
森田君には一切分からなかった。
ただ、事実だけが厳然とここにある。
遊園地の公衆トイレ裏手の茂みで、ヨロズ先輩に服をひんむかれてパンツ一丁にされ、森田君はたった一人で放置されていた。ジェットコースターの音と共に、遠くのほうから聞こえてくる楽しげな喧騒が、この意味不明な状況の意味不明さに拍車をかけてくる。
(こ、凍えてしまう……!!)
二月の風が身に染みて、森田君はさらに縮み込んだ。
必死で肩をさすって摩擦熱を得ようとするも、熱は次々と外気に奪われていく。熱が奪われていくその感覚と、状況の不可解さが相まって、森田君は頭がくらくらした。何をどう好意的に解釈しようとしても、意味が分からなかった。
置かれている状況も、ヨロズ先輩の考えも、自分の今の気持ちすら、何一つ。
訳が分からない。
極度に追いつめられた人間は哲学にすがろうとするという。
(普通って何だ?)
単純にして難解な問い掛けを森田君はしたが、自答に惑う。
正常のただ中では異常は異常だが、異常のただ中では正常が異常となる。
何が正しくて、悪いのか。
この世の出来事は一皮むけば、あやふやだ。
この半年で嫌というほど森田君が学んできた事だ。
諸行無常、諸法無我。常なるモノなど羊頭狗肉。
すべては千変万化する。
ただ一つ確かな事があるとすれば――
森田君は、ヨロズ先輩との遊園地デートの真っ最中だったという事だけだった。
それなのに、なぜ?
(なぜ、こんなことになっているのか……?)
どこにこうなる原因があったのか?
果てしのないその謎を探らずにはいられない。
すがった哲学がさほど役に立たない事を理解した人間は、しかたなく自らの過去をたどり始めるという。
森田君は己の記憶を、バレンタインの夜までさかのぼった。
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