第27話




     18



 手の平の上でハンカチの包みを解くと、乾いた笑い声が出た。

 チョコのかけらが、白い布きれの上に乗っている。


 せめてこれを、森田君に食べて貰おうとしただけだったのに。

 気付くと、口喧嘩になってしまった。

 あんな風に森田君と言い合うなんて、思いもよらない。


 森田君が生瀬さんを押し倒している姿を見た時の、その感情の名をヨロズ先輩は知らなかった。ただただ、思考は果てどなく散漫だった。


(私は、何をやっているんだろう……?)


 ヨロズ先輩は額に手を当て、目を瞑って息を深く吐き出した。

 森田君に酷い事をいっぱい言ってしまった。

 とても冷たい口調だった。森田君を傷つけるために、困らせるために、追いつめるために、苦しめるために、言葉を使ってしまった。最低の使い方だった。


 どこが好きなのか?

 好きだと思っているのか?

 好きという事は、どういうことなのだろう?


 生瀬さんの言う通りだ。


(……生瀬さんが、清太くん、って呼んでいた……)


 やはり、なにかあったのだ。生徒会役員室で、二人の仲が進むような事が。

 森田君は戻ってこない。

 メールも電話も無い。


 行動しなければならないのに、その一歩が踏み出せない。どうやって踏み出せばいいのか、なぜ踏み出そうとしているのか。

 そうして、どうなるのか。どうしたいのか。

 ヨロズ先輩にはまるで分らず、ずっと上の空だった。


「銀野、どうしたのですか? もう日も暮れていますよ」


 戸から顔を覗かせて声をかけたのは、厳島先生だった。

 役員室の鍵を職員室へと返していない。不審に思って、見に来たのだろう。厳島先生は電気をつけ、ヨロズ先輩の近くまで歩み寄り、椅子に腰を下ろした。


「どうしました?」


 厳島先生にたずねられても、ヨロズ先輩はどう言えば良いのか分からなかった。ただただ、分からない。暖房器具の音だけが、役員室をしばらく満たした。


「先生、私……私、分からないんです」

「…………」

「ずっと簡単だったのに、急に、わからなくなって……簡単な事が、できなくなって。どうしたらいいのか、どうしたのか、それが私にも分からないんです、先生……」


 ヨロズ先輩が吐露すると、厳島先生は黙った。

 何かを思い出すように、厳島先生は虚空を見上げている。


「今日、中庭で裸になった二人の男子生徒が居ました。二月の屋外です。馬鹿な事をしていると、はた目にはそう見えるでしょう。私は教師の職務として、二人を指導室へと連れていき、事情を聞きました。なぜそんな事をしたのかと」

「……」

「彼らは、なんと答えたと思いますか?」

「わ、わかりません……」

「正解です、銀野」

「え?」

「分からないから脱ぐのだと、一人は言っていました。もう一人は、それこそが公平であると己の信念が告げたからだ、と。……彼らは非常識ですが、戦士でした」


 厳島先生の声は静かだった。

 恐ろしい顔立ちのなかで、その二つの瞳だけは石清水よりも澄んでいた。


「……銀野。どうしたら良いのか分からない、という事で悩み過ぎると、どうしたいのかまで、分からなくなってしまうんですよ」

「で、でもっ、先生……だったら、もうどうしようもないじゃないですか。だって、分からないんです。どうすればいいのかも、どうしたいのかも、……これがどういう気持ちなのかっ、自分の気持ち一つすら。……届けようがないじゃないですか、こんな想いじゃ……届かない想いなんて、虚しいだけではないですかっ」

「銀野……」


 厳島先生の恐ろしげな顔が、いっそう厳しさを増した。


「そういう事は、ちゃんと届けようとしてから言いなさい。あがいて、もがいて、無様に苦しんで。もっともっと、散々に笑って笑われて。そこまでやってから言いなさい。そこまでしなければならないほどに、想い焦がれてから言いなさい」

「…………」

「それほど苦しそうに、それほど戸惑いながら、そこまで悩んでいる貴方の想いは、その身一つ焦がす事すら出来そうにないほど、か弱いものなのですか?」

「…………厳島先生、私、いってきます!」


 深く染みこんで行く厳島先生の言葉を内燃に、ヨロズ先輩は立ち上がった。居ても立ってもいられずに役員室から飛び出して、脇目もふらず足早に歩きだした。「役員室の後片付けはやっておきます」という、厳島先生の掛け声を背にして。


 自分が何をしたかったのか。

 何を求めているのか。

 今もってヨロズ先輩には、手ごたえは感じられない。先は常に霧深く、陽の光も届かぬ道だ。けれど、見失っていた道しるべが、うっすらと見える気がした。


 行くしかない。自分はそこへ、向かいたい。

 森田君の家へと、その一心がヨロズ先輩の足を衝き動かした。


「あの、森田君」


 呼び鈴を押してほどなく、顔を出した森田君へとヨロズ先輩は呼びかけた。

 ヨロズ先輩が言葉を紡ぐよりも先に、森田君が頭を下げた。


「ごめんなさい、先輩。誤解させるような真似をしました。ボクも、不用心というか、詰めの甘い部分が沢山あったと思います。それは、ほんとうにごめんなさい」

「……わ、私もっ。ごめんなさい。その、心無い言い方をしてしまって」

「このために、わざわざ、ここまで?」

「それも、あるけど、それだけじゃなくて……」


 言いよどむ口元を、ヨロズ先輩は引き締めた。


「森田君、なんでも言ってほしいって。言われないと分からないから、って、言っていたから……。森田君に、言いたいことがあるの」

「はい。なんですか?」

「クリスマスの後、森田君は、私が、保羽さんの前でだけは清太君と呼ぶと……でもよくよく考えれば、私の事なんて、先輩としか呼んでくれていないわ」

「…………」

「それって変だと思う」

「そ、そう、ですね……えっと、銀野、さん……?」

「私は清太君って呼ぶ。プライベートでは。清太君も……そうしてほしい」

「はい。では、その……ヨロズ、さん」

「……もう、一回……」

「え?」

「もう一回、呼んで欲しい。よ、よく聞こえなかったから」

「……ヨロズさん……」

「…………」

「…………」


 互いを呼ぶその言葉の響きだけで、互いに言葉を失くしてしまう。いやに身体が火照り、頬が熱くて仕方なく、ヨロズ先輩は目をちっとも合わせられなかった。


「そ、それでその、ヨロズさん。それが、用件、だったんですか?」

「いいえ、違うわ。これはその、序の口で。もっと大事な事が……」


 恥ずかしすぎる沈黙をこじ開けるように、森田君もヨロズ先輩もあたふたとして、なんの意味があるのかちっとも分からない身振り手振りを交えた。


「な、なんでしょう?」

「切り刻んで食べてもらう、その次、したいことがあるの」

「そういえば、まだ聞いていませんでしたね。次は、何を?」

「次は――……」


『私の体をドロドロに溶かして排水溝に流して欲しい』

 喉元まで出かかったその言葉を飲み込み、ヨロズ先輩は両足に力をこめた。全校生徒の前で演説する時だって、これほど緊張したりはしない。


 それなのに――

 たった一人の前で、足がすくんでしまう。

 森田君の目を見るだけで、頭の中が白くなっていく。

 用意していたはずの言葉が、出てこない。たった一言を発しようとするだけで、こんなにも力が必要だなんて。


 けれど、もう迷わない。

 引かない。

 回り道はしない。


「つ、次は……普通の、デートが、したい……」

「……え?」

「私は、清太君と、普通のデートがしたいの……!」


 ヨロズ先輩は言い切った。


「お、お買い物とか……遊園地、とか……喫茶店とか図書館とか、ショッピングモールとか、そういう所に二人で行ってみたい。人を山中に埋めたりとか、コンクリートで固めて湖に沈めたりとか、高層ビルから突き飛ばすとか、そういうのじゃなくて。映画館とか公園とかプールとか、べつにお出かけしなくても、家で一緒にブルーレイを見たり、ご飯をつくったり。そういうのを二人で計画を立てて、してみたい……」


 たった一言を発するだけで、あとは言葉がすらすらと出てきた。今まで苦しくせき止めていたものが、何だったのかと思えるほど、あっけなく。


 想いに形を与えていくかのように、吐き出した息が街灯に照らされて色づいた。震えていた声は、紡ぎ出せば出す程に、揺るぎないものになっていく。

 ヨロズ先輩は不安げに、けれど、まっすぐに森田君を見つめた。


「……えっと……その……ヨロズ、さん……」


 森田君はしばし口をぱくぱくとさせ、目を泳がせている。

 ヨロズ先輩ははっとなった。


 いつもいつも、自分の事ばかり森田君に押し付けてしまっている。自分の想いと考えばかりが膨らんで、それだけで一杯いっぱいになってしまって。ただ自分の望みしか見ずに、手を差し伸べてもらう事になれ切ってしまっている。

 ヨロズ先輩は果敢に、今までとは違う一歩を踏み込んだ。


「森田く――清太君のしたいことは、いいの?」

「え?」

「いつも、私のお願いを優先してくれるから……」

「ボクもっ! その、あのっ」


 自らの声の大きさに戸惑ったのか、森田君は口ごもっていた。


「ぼ、ボクも、ヨロズさんと、普通なデート、したかったです」

「そ、そうなの?」

「はい! ……あの、いつものアレも、初めは正直面食らっていて、嫌では無かったですけど。やっぱり、遊園地とか、二人で行きたかったです」

「……なら、そう言ってくれれば……」

「そんな普通なので、大丈夫なのかな、って……不安で……」

「…………」


 森田君も同じように悩んでいたのかと思うと、ヨロズ先輩は力が抜けた。二人して同じような事で悩んでいながら、突飛な行為に依存していたのか。

 ホウレンソウですべて片が付く事なのに。


 生徒会の業務としてなら、迷いもせずに処理できる事案であったはずなのに。そんな簡単な事がこれほど難しいなんて、と、ヨロズ先輩は呆気にとられた。


 信じたり、驚いたり、決めつけたり。

 疑ったり、怖がったり。

 安心したり。

 ままならず、もどかしく、嫌になるほど心が忙しない。


 それでも、胸の奥の杯にとくとくと、熱い上酒が注がれていくような。それがヨロズ先輩は心地よく、二月の夜風の中でも身体は不思議と温かかった。


「あの、ヨロズさん……よ、よろしくおねがいします」

「こ、こちらこそ、清太君」


 ずいぶん遠回りをした二人は、ぎこちなくお辞儀し合った。

 急がば回れというけれど、近所のコンビニの自動ドアをくぐるために地球を一周してきたような、微笑ましくも呆れてしまう道のりだった。





           第四巻 END

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