第22話
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役員室の戸の前から、がたっと物音がした。森田君が近づくと、人の気配がなくなっている。森田君が役員室の戸に手をかけると、するりと開いた。
やっと出られたと森田君はほっとする反面、首を傾げる。
「……なんだったんだ?」
どうやら何者かが戸を押さえていて、出られなかったらしい。
ずいぶん長い時間、足止めを食らった。
ヨロズ先輩や山下たちに連絡が通じなかった。辛うじて副会長と松崎さんにラインを送り、ヨロズ先輩に貼り付いてもらうべく、お願いはしておいたが……
(先輩に何かあったのかも……早く行かないと)
山下やスタント部の面々がそう易々と風紀に屈するとは思えない。まだ致命的な事にはなって居ないはずだと、森田君は一歩を踏み出し、つんのめった。
いつのまにやら、学生服の裾をがっしりと掴まれていたのだ。
森田君が振り向くと、小柄な女生徒の姿がそこにある。
「な、生瀬さん……?」
「…………」
呼びかけても生瀬さんは暗くうつむいたまま、返事もしてくれない。なんだか雰囲気がいつもの生瀬さんと違う、と森田君は戸惑いを隠せなかった。
「どう、したの?」
「きて、もりたくん」
「え、いやその、いまはちょっと、用事が――」
「来て!」
有無を言わせぬと生瀬さんに手を掴まれ、抗う間もなく森田君は生徒会役員室に引っ張り込まれてしまった。やっと出られたと思ったら、再び逆戻り。
いつもの生瀬さんでは無い。
強引だ。ものすごく。
それに生瀬さんは少々、怒っているらしい。生瀬さんの目は険しく、眉間にしわを寄せている。一体どうしたのかと、森田君は目を白黒させた。
「な、なませ、さん……?」
「…………」
森田君が呼びかけるものの、生瀬さんはぶすっとした顔で黙っている。明らかに様子がおかしい。生瀬さんの顔色をうかがい、森田君はふと思い至った。
「生瀬さん、もしかして、孝也さんに何か悪いモノでも食べさせられた?」
「おかしいっ!」
「は、はい?」
いきなり強い声を出され、森田君は聞き返した。生瀬さんを怒らせるような事があっただろうかと、森田君は考えるものの、さっぱり思い当たる節が無い。
森田君は恐る恐る、たずねてみた。
「……なにが、おかしいの、生瀬さん?」
「名字っ」
「……?」
「兄さんの事は孝也って言うのに、私の事は名字で呼ぶっ……!」
「へ?」
「ふこーへーだと思う!」
「……えっと……」
「ふこーへーだとおもうっ!」
生瀬さんは二度言って、不満げな顔でそっぽを向いた。かなり大切な事らしい。生瀬さんのそんな顔など今まで見たことが無く、森田君は焦った。
名字で呼ばれるのが不満なのだから、名前で呼べば良いのだろうか? 生瀬さんの下の名を呼び捨てにするなんて、信心深い森田君には気が引けた。
では、どう呼べばよいのか?
脳内会議に議題を出して、森田君はしばし待ち、おずおずと切り出した。
「それじゃ、その。え、エリさん……?」
「……かわいくない」
「え?」
「さんづけとか、ぜんぜん可愛くない。もっとかわいく呼んでほしいっ」
生瀬さんはぷくっと頬を膨らませている。
生瀬さんのお気に召さなかったようだ。森田君は脳内会議に再考を促した。「エリぴょん」「エリにゃん」「エリっぺ」「エリっち」「エリツィン」「エリリン」「エリーゼ」等々、脳内会議は紛糾していたが、議長の「迷ったら無難にいけ!」に森田君は従った。
「え、エリちゃん……?」
「むふぅ」
生瀬さんは大変満足げに鼻を膨らませていた。森田君がほっと胸をなでおろしたのも束の間、生瀬さんは八重咲きの笑顔をぱあっと弾けさせる。
「じゃぁ私もせいたくんって呼ぶー」
頭のネジが抜けきったようなフニャフニャの声をだしながら、森田君の胸元へと生瀬さんは崩れ込んだ。大胆かつ無計画。愛くるしい欲望のなすがまま。
かわいい、は「正義」でも「作れる」でもない。
可愛いは「力」だ。
圧倒的パワーで魂を張り飛ばされ、森田君は一切動けない。いきなりの事に生瀬さんの身体を支えきれず、押し倒されて森田君は尻もちをついた。
「せーたくーん……えへへぇっ」
「っ!?!?!?!? な、なななっ、生瀬さん!?」
生瀬さんが近い。
森田君には距離が近すぎた。
近頃はずいぶんと鍛えられてきた森田君の鋼の心臓も、一瞬で溶解していた。生瀬さんが胸元に頭をすりすりと擦りつけて来る。鼻先でお腹をくりくりとやられ、森田君はくらりとした。もはや可愛い、可愛くないの次元では無い。あらゆる心の枷と自制心をとろとろに蕩けさせる一撃に、森田君は腰が砕けそうになっていた。
ついた尻もちの痛みすら感じない。
力が上手くこめられず、顔を真っ赤にして森田君はぱくぱくと口を開け閉めするのみ。生瀬さんのなすがまま。小さな生瀬さんの体一つ、どうにもできない。
普段が普段なだけに、生瀬さんの破壊力は半端ではなかった。
止まらなかった。
誰にも止められなかった。
当たり前である。天使が暴走すれば信徒に止められるはずはないのだ。
(――っ!? 誰かが来る!?)
ばたばたとした足音が聞こえ、森田君ははっとした。一人の足音ではない。そして、ようやっと、森田君はここが生徒会役員室である事を思い出す。
吹っ飛ばされていた思考力が、危機と共に森田君にもどってきた。
(まずいっ!)
生徒会役員に見られても不味いが、一般生徒に見られるともっと不味い。清く美しい学び舎の、その統治機構の象徴たる役員室で、このような事をするなど、あってはならない。ホワイトハウスで恥知らずな真似をしたアメリカ大統領のようなものだ。
大問題になってしまう。
森田君一人の責任では済まない。
ヨロズ先輩や他の役員にも迷惑をかけてしまう。ヨロズ先輩の任命責任が生徒議会によって追及され、副会長の弁舌ですら抑えられないだろう。
「は、はなれて、なませさん!」
「やらぁ! ずっとこのままいるのー」
生瀬さんは森田君の腰に回した手を、全く緩めようとしない。愛らしいひっつき虫と化した生瀬さんは中々力強く、森田君が引っぺがそうとしても頑として動かない。こうなれば仕方がないと、森田君は生瀬さんを引き寄せて立ち上がった。
押して駄目なら引くしかない。
「な、生瀬さん、こっちにきて!」
用具ロッカーへと、何とか生瀬さんを引っ張り込んだ。森田君がロッカーのドアを閉めた途端、役員室の戸が勢いよく開いた。
ばんっという音と、踏み込む鋭い足音がした。
激しいシャッター音が連続している。
『そこまでっす! 激写っす!! ……むむ?』
『いきなりどうした? なにもないぞ、パシャ子』
『あやしいっす! 特ダネの気配がしたっす!!』
ロッカーのドア越しに、ややぼやけて声が聞こえる。
第二新聞部だ。パシャ子と部長らしい。
『ここはまずい、パシャ子。生徒会の根城だ』
『でも部長、この嗅覚が教えてくれるっす。破廉恥な匂いっす!』
『……そうか。なら、パシャ子。少し探れ。俺は先に行く。気をつけろよ』
『はいっす!』
戸の閉まる音はせず、離れていく足音は一人分だった。
パシャ子が役員室に残っている。第二新聞部の先兵だ。一眼レフのデジカメを片時も手放さず、撮って欲しくないものほど撮り、問題のない場面でも構図によって問題がある写真に仕立て上げてしまう、無駄に腕の良い少女だ。
この用具ロッカーを開けられたら、森田君の社会生命は終わる。
絶体絶命だった。
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