第19話
現れただけで緊張が走り、二月の中庭が熱くなる。
ただ前へ前へと進む導道センパイの歩は、すぐに止まった。
「アイロニング部、そこをどいてくれないか?」
「……」
「用があるのは、スタント部と山下くんなんだ」
導道センパイの口振りは平静だった。
アイロニング部部長はアイロンをかけ続けている。
一歩も退く気はないらしい。野球部のノック練習が行われる内野でアイロンをかけ続け、野球部員の再三の忠告にも関わらず退去せず、浴びせかけられた百本のノックをかわし続けた伝説を持つ。
極限の状況で、平常心を忘れず、無限の可能性を信じ、アイロンがけを行う。それが部長にとってのエクストリームアイロニングというものなのだろう。
「そうか、アイロニング部。君の信念、言葉では動かないようだね」
「…………」
竹刀を正眼に構える導道センパイに見向きもせず、アイロニング部部長はアイロンをかけ続けている。だが、両者の間には闘志の火花が散っていた。
アイロニング部は己のアイロニングを邪魔する者あらば、容赦はしない。
風紀ブラックリストの上位者であり、生半可な風紀委員相手なら、着ている服ごとアイロンをかけてしまう程の猛者でもあるのだ。
「……良い目だ、アイロニング部。本気でいこう」
竹刀の切っ先が揺れたかと思うと、目にも止まらない。
鋭く前進する導道センパイを、しかしアイロニング部は敢然と迎え撃った。
「アイロニング部、よせ!」
山下の制止は一歩遅い。一度動いたアイロンは、服のしわを伸ばしきるまで止まれない。それがアイロニング部部長の哲学だったのだ。
すれ違いざま、アイロン台ごとアイロニング部部長は崩れ落ちた。手元のアイロンは竹刀の一突きによって大きく弾き飛ばされ、地面に突き刺さっている。
スタント部の面々がざわついた。
「なんだとっ!?」
「何という正確な突き……!」
「たった一撃で、あのアイロニング部が……!?」
「なんという鋭い踏み込みだ!」
導道センパイの技術難度を、スタント部はすかさずリアクションで周囲に伝えている。初心者にも配慮した分かりやすさを心がける、悪役の鏡であった。
「……わ、我がアイロンが……ぐふっ」
もがいていたアイロニング部は、倒れ伏したまま動かなくなった。
「キミの本体がアイロンである事は、調べがついているんだよ。そしてアクション・スタント部、君たちの弱点もね。……風紀の戦訓こそが、私の力だ」
静かにそう告げると、導道センパイは竹刀を芝生の上に優しく置いた。素手のスタント部四人相手では、もはや武器すら必要ないということなのか。
この挑発行為に、スタント部は色めき立った。
「風紀の犬がっ、なめるなよ!!」
「かこめっ、向こうは一人、こちらは四人」
「ひるむなっ、所詮はナンバー3。たたんじめぇ!」
「その澄ました面、引きはがしてやるっ!!」
のりのりで悪党のセリフを吐きながら、スタント部の面々は四方から飛びかかった。鋭い四つの拳が、ただ一点に集中する。導道センパイは身じろぎすらしない。どかどかどかっとスタント部の拳を全身に受けつつ、導道センパイは直立不動だ。
スタント部四人の渾身の拳を受け、導道センパイはにかっと口をひん曲げた。
「――なっ!?」
スタント部の面々は大きく目を見開き、驚嘆の声を上げた。
これはもはや、覚醒したヒーローの無双シーンそのもの。登場した時の口上といい、導道センパイはスタント部の弱点を知り尽くしているのだろう。
言うまでも無いが、このシチュエーションはスタント部の大好物だった。
「ば、馬鹿なっ!?」
悪役が言ったら敗北が確定するセリフ第一位だった。スタント部の口から飛び出たその瞬間、勝負は決する。風紀の戦訓こそが、導道センパイの力だった。
一人、また一人と、スタント部は散っていく。
吹っ飛ばされて地面や池に突っ込むスタント部の面々は、活き活きとしていた。事の成り行きを見守っている聴衆から、惜しみない拍手と歓声が飛ぶほどだ。
「……見事だ、スタント部の諸君。己が流儀に眠るがいい!」
「ばかなっ、ばかなぁああああ!!」
スタント部部長は突進した。
そして当然、見事な返り討ちにあった。導道センパイの鉄拳を浴びるや否や、吹っ飛ばされて樹に激突し、スタント部部長は頭から地面に落ちる。本当に首の骨やら背骨やらが大丈夫なのかと、心配になるほどのエビぞりだった。
導道センパイはたった一人で、アイロニング部とスタント部を撃破してしまった。スタント部を相手に激しく動いていたが、まったく息を乱していない。
有言実行。まさしく、風紀の戦訓を己が力としていた。
あっという間だ。
残すは山下一人になってしまった。
「さぁ、そこまでだぞ、山下くん! 大人しくお縄につけ!」
「聞けぬ注文だ」
「無益な争いは本望ではない」
「そちらが風紀を背負うように、こちらも友の願いを背負っている!」
「……ならば……しかたないな」
「くるがいい、風紀っ!」
かっと目を見開いて山下は吼え、瞬き一つの間に衣服を脱ぎ捨てた。身に着けていた上下の学生服だけが、風に流されて横にスライドしたとしか思えないほど、スムーズな脱ぎっぷり。飽くなき変態性によって磨かれたそれは、もはや空蝉の術に近い。生まれる時代さえ違えば、そこそこ名の通った忍者になったかもしれない。
風紀に対する最大級の挑発行為であり、山下の脱衣は磨きがかかっていた。
しかし、導道センパイは取り乱さない。
臨戦態勢の山下を、導道センパイは冷静に手で制した。
「あいや、またれよ!!」
「……?」
「そうか、全てを捨てて戦うか。山下くん、やはり漢だな、君はっ!」
「む?」
「よかろう! 君がそうくるならば、こちらはこうするのみ!!」
「――っ!?」
千切れた衣服の切れ端が、二月の寒空に舞い散った。
さしもの山下も大きく目を見開く。
聴衆も含めて、中庭に居た者は皆、呆気にとられた。
山下は全裸に見えるパン一だが、導道センパイは全裸に見える全裸だった。つまり一糸まとわぬ、すっぽんぽん。辛うじて身に着けているのは靴下のみ。男子生徒のどよめきと、女子生徒の悲鳴が聞こえてくる。
ただし、悲鳴には黄色いものも多い。
山下も導道センパイも、ほんとうに悲しい限りだが、イケメンだった。神様が与える肉体でポカをやったとしか思えないものの、二人の男が真っ裸でポージングを取っているだけだと言うのに、否応なく場の空気は引き締まる。
(この男……できる……!!)
山下は直感し、背筋の汗がブーメランパンツに流れた。
山下のように服に細工をしたわけではないだろう。
服を裂く音は激しかった。
だが、導道センパイの脱衣は凄まじく速い。衣服を引き千切るように脱ぎ捨てた。とてつもない意思の光に満ちた、鋭い眼光と全裸。
肉体は心を映す鏡という。常日頃から鍛錬を続けねばつけられない美しい筋肉を、導道センパイは晒していた。
アウトかセーフで言えば完全に危険球であるが、審判にセーフと誤審させてしまうほどの、圧倒的な自信と清々しさ。
並の覚悟で醸し出せるものではない。
ミケランジェロのダビデ像を、全裸変態の彫像と世間はみなさない。美しければ芸術になる。ポルノも神聖さを以って描かれれば名画。
かつて『神聖』という言葉でエロを包み、堅苦しい宗教的常識を掻い潜りながら十八歳未満お断りな絵を大量に画家に書かせたパトロンの遺物こそ、現代に残る芸術的な裸婦画の数々なのだ。服を着ているか着ていないか、変態か否か、パンツを穿いているか穿いていないかは、重要な問題では無い。大多数がそれを芸術と判断するか、判断しないか。違いはそれだけ。
導道センパイと山下も、一世紀後には立派な芸術かもしれない。
(この人の脱衣は、稚拙だ)
脱衣のプロである山下からすれば、導道センパイの脱衣は素人も良い所だ。脱ぎっぷりは確かに見事であったが、その手際にはいささか無駄もあった。なにより、一度捕まってしまえば言い逃れは出来ず、再び社会で脱げなくなってしまう。
(だが……)
圧倒的解放感と神々しさが、導道センパイにはあった。
脱ぎたいから脱ぐ――荒々しくも、脱衣の初心がそこにある。
まさしく捨て身だ。首元の汗を拭い、山下は息を呑んだ。
(これが、これが刹那の煌きというのか……そうか、おれは……長期的視点で脱衣を捉えすぎていた……正々センパイは迷わず、一瞬にすべてを込めている……)
好敵手に開眼を促されつつも、山下は同じ匂いをかぎ取った。なぜか風紀委員会の側に居るが、目の前の男は完全にこちら側の人物だ、と。
「しかし正々センパイ、なぜ、そんな恰好を?」
「……なぜ? 愚問だぞ、山下くん」
導道センパイは燃え滾る眼で、山下の目を射抜いた。その声には一切の羞恥も、ためらいも、後悔も、苦しさも無い。煌々と輝くは、信念だけだ。
「武器には武器っ、無手には無手、それが私の流儀だ」
「…………」
「ならば、全裸には全裸で臨むのみ!!」
導道センパイはどこまでも公明正大だった。
己に厳しく、他人に優しい。
たとえ相手がどんな悪だとしても、自らの信念に従い手段を選ぶ。それがどんな戦いであろうと、己を相手と対等に近づける。ただ一つ難点があるとすれば、導道センパイは正義感を燃やしすぎるあまり、ほぼ変態と変わらない御仁だった。
風紀を守ろうとするがあまり、一番風紀を乱している自覚もないらしい。
「…………」
「…………」
二月の寒空の下で睨み合う。
筋肉を隆起させるボディビルダーの如きポージングは、一切の乱れが無い。全裸である二人にとっては、動かない事が何よりも激しい戦いだった。
外気と隔てるものは何もない。
冷気が肌を突き刺し、体の芯まで蝕んで行く。凍て付きに抗うのは、互いの灼熱の意志のみだ。山下は脱衣への、導道センパイは正義への、熱き想い。
動かない事そのものが、意志と意志の激しいぶつかり合いなのだ。体を動かして熱を得ようなど、魂が噴き上げる聖なる炎への侮辱に等しい。
――この戦い、動いた方の負け―――
山下は直感していた。導道センパイも同じだろう。
想いで負ければ勝利はない。二人の漢は、微動だにしなかった。
ほんとうに、どうしようもない連中であった。
「この寒空の下で、何をしているのですか、あなたたちは……」
固く結ばれた中庭の緊張を、低い声が紐解いた。
山下と導道センパイの間に、いつのまにやら、厳島先生が突っ立っている。厳島先生は額に手を当てていた。
恐ろしい顔を難しげに曇らせ、どうやら呆れているらしい。
「神聖な勝負の邪魔をされては困る、先生っ」
「い、厳島先生。これは風紀活動の一環でして!」
「良いから来なさい、二人とも。このままでは風邪を引きます」
厳島先生は有無を言わせなかった。全裸の男子生徒二人は、厳島先生によって指導室へと連行されていく。勝負の成り行きを見守っていた観衆たちは、「まぁ、そりゃそうなるよね」という面持ちだ。
変態的不完全燃焼の焦げ臭さを拭い去るように、秩序の風が中庭を吹き抜けた。
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