第18話
13
森田君の足音が遠ざかって行くと、ヨロズ先輩もやや冷静さを取り戻した。もどかしいような、いじらしいような。
思えば訳の分からない事をやっている。
部屋に一人取り残され、ヨロズ先輩はチョコの像を見た。『このチョコを、我がチョコと思う、三日月の、欠けたるとこしか、無しと思えば』。
ふと、ヨロズ先輩の脳裏に短歌がよぎった。
あの世で、藤原道長もぽかんとしているだろう。
生瀬さんの制作してくれたあの精巧な型を使い、優秀な料理部のレクチャーを何週間も受けていながら、どうしてこんなオドロオドロしい造形のチョコが出来上がって来るのか、ヨロズ先輩自身も良く分からなかった。料理部の面々も憔悴しきってはいたが、「会長、これならなんとか……」とゴーサインを出してくれた。
森田君に早く食べて貰いたい。
あと少しだ。
そして、その後は――
(その後は、どうすべきなのだろう……?)
ふと考えて、ヨロズ先輩は固まった。思考は細かな水滴となって煙のように纏わり、掴む事も、見定める事もできない。手探れども、心は霧中だった。
「……?」
うつむけていた顔を、ヨロズ先輩は上げた。
部屋の外で騒がしい足音がする。
「銀野会長! お逃げくださいっ、敵襲です!!」
戸がノックも無しに開け放たれ、スタント部部長が鋭い声を上げた。ヨロズ先輩が戸から顔を出すと、廊下の先に人影が見える。負のオーラを漂わせ、のっそりと、ヨロズ先輩の方へと歩いて来る。足音は重く、地響きのようにすら聞こえた。
「東原、せんせい……?」
「会長、風紀が放った矢だ」
山下がそう言った。
そうかもしれない、とヨロズ先輩も頷いた。風紀の香苗ならばそれくらいの機転は利かせるだろう。あるいは、保羽リコの直感的な判断かもしれない。
火のついた人間爆薬である東原先生を、風紀委員会は放り投げてきたのだ。
「カイチョウ、チョコ、ペロペロ……マスト、ダーイ……!」
東原先生が低い声で言っている。さほど大きい声でもないのに、不気味なほど良く通る声だった。狙いはチョコらしい。ヨロズ先輩の近くには、大きなチョコの塊がある。ヨロズ先輩が立ち向かおうとすると、スタント部が制止した。
「銀野会長、戦ってはいけない。この場はチョコを抱えて逃げるべきです!」
「けれど……」
「ゆかれよ、会長。友の望み、叶えて見せねば男子の恥」
山下は静かに言い切った。
研ぎ澄まされた決意の一声だ。東原先生へと立ち向かう山下の腹積もりは、ヨロズ先輩にキャリーカートの取っ手を握らせた。
「わかりました。中庭を通って退避します」
「殿は我らが務めます。銀野会長、こちらへお早く」
スタント部が手招きし、ヨロズ先輩を先に行かせた。
そして、ヨロズ先輩への追撃を断ち切らんと、山下とスタント部は中庭で待ち構える。ヨロズ先輩が校舎のどこかに隠れるまで、足止めが必要だった。
「来るぞ、山下くん……」
部長が言うと、スタント部の面々が身構えた。いずれの顔も強張っている。山下も同じだ。迫りくる東原先生の威圧感は、逃げ出したくなるほど禍々しい。
「なんだなんだ?」
「ケンカか?」
「スタント部と、あれは山下か? 東原先生もいるぞ」
中庭外縁の廊下には野次馬が集まっていた。昇降口が風紀委員会に封鎖されているためか、生徒たちが行き場を失くしてやってきているのだろう。
二階廊下にも観衆が居る。
(どうする……?)
じっとりとした首元の汗を拭い、山下は逡巡した。
服を脱いで走り出す程度では、今の東原先生の注意は引けないだろう。だが真正面からぶつかれば、山下もスタント部も無事では済まない。
(どうすれば……?)
森田君とヨロズ先輩に見栄をきった手前、引く訳にはいかない。さりとて、引いて駄目だからと言って無理押しすれば、風紀の暗黒面がもたらす無限のパワーによって粉砕されてしまう。押して駄目、引いても駄目。
ならば横にずらすしかない。
「東原先生、あれをご覧に!!」
大声を上げながら、山下は二階廊下の窓をびしっと指さした。一組のカップルが山下達を見物しながら、ぴったりと身を寄せ合っていたのだ。
「やーん、東原センセーこわーい、たっくーん」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ、俺がついて……ん?」
甘ったるい声を出していた青春の一コマは、東原先生の双眸が自分たちを凝視している事に気付いたらしく、言葉を途切れさせた。
「……イチャイチャ……ツブス……」
いちゃつくバカップルへと東原先生の鼻先が向いた。ずしんずしんと、何故かよく響く足音と共に、東原先生は階段に消える。
山下の目論見通りだった。
「あらあら、見事なものね。山下くん」
「――っ!」
解きかけた兜の緒を、山下は締め直した。
一難去ってまた一難。二つの人影が新たに中庭に現れたのだ。
「如奧先輩……それに、アイロニング部か……」
山下は目細め、ぐっと腹に力を込めた。
嫌なタイミングで手強い連中がやってきたものだ。
生瀬さんの目的の為に、如奧先輩たちはヨロズ先輩を潰しに来たのだろう。迎え撃とうとしたスタント部の四名を、しかし山下は手で制した。
「スタント部、下がっていてくれ。あの人とは、俺が一人で決着をつける」
「だが山下くん、彼女は……」
「任せてくれ」
スタント部部長を渋い一言で引き下がらせ、山下は如奧先輩と対峙した。
一度は完全に屈した相手への再戦。
山下は颯爽としていた。男の意地と言えばそう見えるし、マゾがお仕置きを独り占めしようとしている、と言えばそう見える。
如奧先輩は後者と捉えたのだろう。たおやかに口元に手を当て、いじらしい幼子を愛でるように微笑んでいる。
佇む如奧先輩の横に、椅子の人の姿は見えない。
ヒールを履いては居ないが、長くまかれた鞭を手に持っていた。如奧先輩の背後にはアイロンを持つ人影も一つ見える。
アイロニング部とのコンビとは、めずらしい。二対一になるかと山下は思ったが、アイロニング部はアイロンを掛けるのに忙しそうだ。山下相手なら、如奧先輩に加勢する必要すらない、と判断しているのだろう。
「書記の子とエリちゃんの狭間で、あなたはどっち付かずね」
「いけませんか?」
「いいえ。だらしのない子、好きよ。躾をしてあげられるもの」
言うが早いが、如奧先輩の腕が動いた。
牛を追うための鞭だ。先端は音速をこえ、空気を破裂させている。
通常、女王様はバラ鞭や馬上鞭を使う。短い鞭の方が、使い勝手が良いからだ。如奧先輩があえて牛追い鞭を使う理由は、その圧倒的な音だ。
SMプレイは結果ではなく、過程にこそ意味がある。
音響と視覚が大切なのは、映画もSMも同じ。鞭が音を弾けさせるたび、樹々の木の葉が一枚、また一枚と落ち葉になっていく。
「なんという鞭捌き!」
「あれほど長い鞭をまるで指先のようにっ」
「巻きつけば蛇、打てば鉄拳、空を裂くは火薬のようだ!」
「そう易々とは扱えないはずだぞ、あのムチは!」
リアクションと言う名の解説を、スタント部の面々がしてくれるおかげだろう。見物している聴衆たちは「へぇ、そうなんだ」と頷き合っている。
鞭のうねりを見つめつつも、山下は泰然としていた。
「如奧先輩、その技は、もう俺には通じない」
「あら、そうかしら?」
ドMにとっては絶対不可避の鞭。
自ら山下は近づき、鞭を浴びた。浴び続けた。圧倒的なご褒美の嵐に対して、しかし山下はにこりともしない。声もあげない。口からヨダレも垂らさない。
滝行に挑む修験者の如く、山下は精神を統一していた。鋭い音と共に鞭が身体を襲うたび、山下の雑念は消え、一つの真理が見えて来る。
「やはり、この鞭は……俺の求めるものではない」
「あらあら、その割には、随分おとなしく鞭打たれ続けて――」
如奧先輩の言葉が途切れた。
細長い鞭がぴんと張ってしまっている。
音速で動く鞭の先端を、山下は掴み取っていたのだ。
この忍耐と動体視力をスポーツに活かせば、一角の人間になれるだろうと悔やまれてならないほどの妙技であった。
女王様の行動をマゾが封じるなど、ありえない。
さらなるご褒美をもらうための、誘いの反抗ではない。山下の眼差しは、己の中の欲望をあくまで追おうとする、理想の炎に燃えていた。
「これは、いったい……?」
「如奧先輩、俺はゴミと冷たく見下されたいのです。キモイと避けられたいのです。だが、あなたに鞭打たれるたびに、心が温かく包まれていく気がする。その鞭をまともに浴びれば、皮膚は裂け、ひどいミミズ腫れができるはず。だが、肌の露出した部分を狙わず、服の堅い部分を貴女は狙っている。あなたの攻めは、かがり火のようだ。それを求める者には、あなたは女神となれるでしょう。だがそれを望まない者もいる……」
新たなる悟りを得て、山下はかっと目を見開いた。
「そう、愛とは変幻自在。その温もりですら、万能ではない!!」
「……素晴らしいわね、あなた。ドMの分際で……見事だわ」
如奧先輩の手から鞭が滑り落ちた。
いったいどこで、どう勝負がついたのか、一般人には良く分からないだろう。だが、勝負は明らかに決していた。王は民に認められて、初めて王として在れるもの。マゾを満たせなかった時点で、女王様は女王様ではいられないのだ。
内なるマゾを見極めた山下に、絶対不可避の鞭は通じなかった。
「あなたは優しすぎるのですよ、如奧先輩……それでは、俺の心は縛れない」
「そう、そうね……感嘆を生まぬ愚かしさとはつまるところ、研ぎ澄まされていないだけ。どうやら、わたしも、まだまだだったようね……」
「女王さま、どうやら新手がきます」
眼鏡の椅子の人が報告した。いつの間にやら、如奧先輩の傍に控えている。
今回、椅子の人は間者働きをしていたらしい。
「風紀の新手が来るそうよ、山下くん」
「ふむ?」
「一時休戦しましょう。彼をそちらに貸すわ、どうかしら?」
アイロニング部部長を手の平で指し示し、如奧先輩はそう申し出た。
生瀬さん陣営にとっても、森田君陣営にとっても、風紀の追撃は面倒だ。如奧先輩の申し出は山下としても有難い。
森田君に任せろと見栄をきった以上、山下も全力を尽くすつもりだ。この中庭で風紀を食い止められるなら、戦力は多い方が良い。
「風紀の手の者か……よかろう」
如奧先輩の申し出に、山下は頷いた。
ヨロズ先輩が潜伏する時間を稼ぐ必要がある。山下がアイコンタクトを送ると、スタント部の面々も頷いている。山下と同じ判断らしい。
「女王さま、そろそろ部室に」
「ええ、分かったわ。では、またね、山下くん」
如奧先輩と椅子の人はお辞儀して、あっさりと引き上げていく。
中庭から二人が居なくなって、間もなくだった。
「あまたの規則を力に変えて、貫け風紀の三か条!! 強きを挫き弱きを救う!! 風紀委員会ナンバー3、正々導道、ただいま見参!!」
土曜の午後五時頃に聞こえてきそうな名乗りと共に、二階校舎の窓からとうっと人影が降り立った。ぴんと伸びた凛々しい背筋に、鋭い眼光。
手には竹刀を持っている。
燃え滾る意志の光を全身から放つ、剣道部のエースにして風紀委員会ナンバー3。正々導道センパイ、その人であった。
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