第9話
7
「生瀬さん、またお願いがあるんだけど、いいかな?」
「……えっと……」
「? 都合、悪いかな?」
「ううん……わかった。何でも言って。ただ、ね」
続く言葉を言いよどむも、生瀬さんは意を決した。
「バレンタインの日まで、なんだけど。私も色々と用事があって、今までみたいには、手は貸せなくて。……それで、ね。わたしもね、森田君にお願いがあるの」
「うん。何でも言って」
森田君は満面の笑みで即答した。
「バレンタインの日に、時間が欲しいの。いいかな?」
「もちろん。いつでもいいよ」
「その時がきたら、声をかけるから」
「わかった。ボクに出来る事なら、なんでもするから」
森田君は二つ返事だった。
「……うん。ありがとう、森田君。それで、森田君のお願いって?」
「実はね、生瀬さん――」
ヨロズ先輩の粘土像作りと、型を取るのを手伝って欲しい。
森田君にそう頼まれ、生瀬さんは引き受けた。
ヨロズ先輩と二人きり、美術室での作業となる。
「銀野会長、全身の像ではチョコの使用量が多すぎる上に、手間がかかりすぎます。胸像をチョコで作り、胸から下は発泡スチロールを成形するなどした方が、現実的です。バレンタインまでに完成させるなら、あまり日もありませんから」
「わかりました。そうします」
「樹脂の型は何度か試しに使用したいとの事なので、頭部は顔と後頭部の二つに分けて、粘土像に樹脂を薄く塗ってマスクを取ります。樹脂の型の内側にチョコを塗って、型を剥がせば、顔と後頭部の二つのパーツが出来ますから、あとはそれを――」
「くっつけて、細部を整えれば良いのね?」
「はい。美術の先生から頂いた意見を加味した、以上が私の提案です」
「その提案通りにします」
「塗るチョコの厚みに関しては、チョコの像の強度を考えて、試行錯誤してください。薄すぎると型を外すだけで、おそらく破損しますから。チョコの溶かし方や固め方も、それなりにテクニックが必要になって来るはずです」
「わかりました。テンパリングは料理部に補助を受けます」
「そうですね。そうしてください」
「ありがとう、生瀬さん。頼りにしているわ」
「いつもの事ですから。……では始めましょう、銀野会長」
美術室での彫像の作成は、つつがなく進む。何でもできると噂のヨロズ先輩は、うわさに違わぬようであった。手に迷いがない。鏡と写真を見ながら、見事な粘土像をヨロズ先輩は作り上げていく。
完成する前から、良い出来になると生瀬さんは思った。
シリコン樹脂で型を取るために、粘土で像を作るのだ。
「すごいですね、銀野会長」
「子供の頃、手習いをした事があって」
「そうなんですか。今は、やめてしまったんですか?」
「真似をするのは得意でも、発想をするのは、あまり得意ではなくて」
「けれど、すべての創造は真似から始まると思います」
「……そうね。そうだと、心強いわね」
「ゼロから一を生み出す事だけを、創造だって決めつけちゃうと、創造っていうすごく豊かで美しくて普遍的なものが、途端にちっぽけで狭量なものに思えてしまう、っていうか。えっと、上手く言えないんですけど。一になる沢山のかけらを見つけ出して、つなぎ合わせて、そうして一を生み出すのだって、立派な創造だと思うんです。無から有を生み出すように見えても、よく目を凝らせば無は無ではないかもしれない。小さな有の欠片が散らばっていて、その欠片を拾い集めて形にするのが芸術だ……って、あの、これ、美術の先生の受け売りなんですけど。過去と繋がらずに生まれるものなんて、ないんですから」
「根気強い人でないと、続けられないわね。それだけ情熱のある人でないと」
「そうですね。熱意が、一番の才能かもですね」
「ふふっ、生瀬さん、孔子のような事をいうのね」
「こうし? ろんご、とかの人、でしたか?」
「ええ。大昔の思想家よ。孔子が年を取って一番嘆いた事は、記憶力が衰えた事でも、死期が近づく事でも、世の中が良くならない事でもなくて、学問への自らの情熱が薄れた事だったらしいわ。好きで在り続けると言う事は、本当に力強い事だから」
ヨロズ先輩は羨望の声音でそう語り、遠くを見た。
身近な人の背中を思い浮かべているようだと、生瀬さんには思えた。
「銀野会長。この前は、ごめんなさい。いきなり、刺々しい事を」
「いいえ。生瀬さんの言う事、身につまされたわ。自身の至らなさが、良く分かったから。前回も、そのせいで失敗してしまったし」
(違います。前回失敗したのは、私のせいなんです)
白状する言葉を、生瀬さんはどうしても出せなかった。なぜそんな事をしたのかまで、言わねばならない。
ヨロズ先輩にそれを言うのが、生瀬さんは怖かった。
ヨロズ先輩の指には、絆創膏がたくさん巻かれている。
自責と狡さの念から逃れるように、生瀬さんは口を開いた。
「……お料理、苦手なんですね」
「え、ええ」
「銀野会長に苦手な事って、無いと思っていました」
「わたしも人間よ、生瀬さん」
「サイボーグか雪女の末裔なんじゃ、って噂話、そこそこ信じてましたから、私」
「ふふっ、ひどいわ」
口に指を当てて笑うヨロズ先輩に、生瀬さんは見惚れてしまった。
これほどあどけない表情をする事もあるのか、と。
嫌いたくても嫌えない。微笑む姿を見ているだけで、ヨロズ先輩は絵になる。絵にしたいと生瀬さんは思ってしまう。
恋敵のはずなのに、敵として見なせない。
自らの甘さが、生瀬さんは恨めしかった。
「……どうしたいか、分かったんですか?」
「いえ、まだ」
「でも、そうやって、指……」
「これは……これも、そうね、どうなのかしら……」
はかなげにヨロズ先輩は微笑み、自らの指を眺めていた。ここに森田君が居れば、どんな反応をするだろうかと生瀬さんは考えて、静かなため息が出た。
「……ずるいです、銀野会長のそういうとこ」
「え?」
「なんでもありません」
それから数日、美術の先生の力も借りながら、ヨロズ先輩と共に生瀬さんはシリコンで型をとった。それなりに満足の行く出来となる。
ヨロズ先輩も納得していた。
「出来上がった型、試しに使ってみて、駄目なら、また来てください。銀野会長の粘土像は保管しておきます。改良してもう一度、シリコンの型を作りますから」
「ありがとう、生瀬さん」
「お礼なら、森田君に。あ、それと――」
ヨロズ先輩の感謝の眼差しを受け止め切れず、生瀬さんは視線を落とした。話題をそらすように、生瀬さんはシリコンの型を指さす。
「この型をつかって、なるべく、リアルにするんですよね?」
「ええ、そのつもりよ。食紅なども使って、着色もしようかと」
「……それは、考えた方が良いかもしれません」
生瀬さんが待ったをかけると、ヨロズ先輩は考えるような仕草をした。
「どういう事かしら?」
「あまりやりすぎると、良くないと思います」
「と、いうと?」
「本気で着色すると……えっと、こんな感じになるんです」
生瀬さんはスマホを取り出した。
すばやく画像を検索し、ヨロズ先輩に見せる。
精巧に作られた人間の形をしたケーキの画像と、それを解体して食べている様子の写真だ。スポンジとチョコの断面から、クリームとイチゴジャムがどろりと垂れている様は、軽くスプラッタだった。
その絵面には、なかなか、つらいものがある。
スマホを見ると、ヨロズ先輩も顔を曇らせた。
「……えぐい、わね……」
「はい。食欲が無くなるので、色はチョコのままの方が」
「わかったわ。そうします」
ヨロズ先輩に的確なアドバイスを与えつつも、生瀬さんは胸が痛んだ。
(やっぱり、銀野会長は渡すつもりなんだ……森田君に)
自分の行動は恋敵を利している。それも、遅れを取っている自分の方が。そう考えているやましい自分に生瀬さんは気付き、人知れず奥歯を噛んだ。
我慢だ。
ここは堪えなければならない。
深呼吸して、生瀬さんは自分に言い聞かせた。
我欲を暴走させた結果、前回は酷い事をしてしまった。今のヨロズ先輩と自分では、森田君への影響力の質は、まるで異なる。生瀬さんが築いてきた森田君との信頼感と、ヨロズ先輩が築いてきたそれは、まったく別物だ。
好意を安易に比べて、嫉妬して、感情のおもむくまま動いてはいけない。
相思相埋へ向けて、まずは与える――
生瀬さんは、そう決めたのだ。
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