第二章
第8話
6
手作りチョコレートは、凝りさえしなければ難しくない。
板チョコを買って来て、刻んで、湯煎して、成形して、終わりである。生チョコやトリュフにするなら、生クリームを温めて、刻んだチョコと混ぜればいい。テクニックも必要ではあるが、経験者の補助さえあれば何の問題も無い。真心を込めて作る事に意味があり、ショコラティエを目指すのではないのだから。
料理下手なヨロズ先輩でも同じ事だ、と料理部も高をくくっていた。板チョコを刻み、流血し、生クリームを温め、火柱が立ち上るまでは。
「かいちょおおおおっ!?」
「火を切って、火を!」
「なんで生クリーム温めるだけで火柱が!?」
ここのところ、家庭科調理室は騒乱が絶えなかった。
眉目秀麗、学業優秀、スポーツ万能。全生徒および教師から絶大な信頼を集める、完璧超人の生徒会長。の、はずなのだが、一体どういう事なのか……
「……ご、ごめんなさい……」
「――っ!」
しょんぼりと肩を落とすヨロズ先輩を見やり、料理部の面々ははっとした。自分たちも最初はひどいものだった。ここまでひどくは無かったけれど、一歩ずつ前進していったのだ。ヨロズ先輩はかなり後ろからスタートしただけ。
そう考えるなり、料理部の面々は明るい声を出した。
「爆発はっ、爆発はしなくなりましたから! ねっ?」
「そうっ、そうですよ、部長の言う通り!」
「人類にとっては小さな一歩でも、銀野会長にとっては大きな一歩だから!」
薄幸そうな部長にあわせ、二名の部員が懸命に相槌を打つ。慰めの嵐がヨロズ先輩をかえって浅瀬へと追い込み、より深く座礁させた。
「ごめんなさい、ほんとうに……下手で……」
「ぎ、銀野会長は料理が下手とかじゃないんですよ。そうっ、危険なんです!」
「チョコレートを刻むだけでそれは、むしろすごいですよ!」
「ええ、今まで見た事ないくらい斬新です!」
必死にフォローしようと気を急くあまり、まったくフォローになって居ない料理部のフォローが、情け容赦なくヨロズ先輩をタコ殴りにする。
それでも、ヨロズ先輩は小さく頭を下げた。
「……あの、こんな不甲斐ない身で、こんな事を皆さんに言うのは、あれなのだけれど……レフリーストップをかけられるまで、私はやるつもりです」
「……ぎ、銀野会長……そこまで……」
ヨロズ先輩の静かな闘志に、部長は少し涙ぐんでいた。
料理に最終ラウンドはない。
十二ラウンド、ずっとボコボコにされて何度ダウンを食らおうと、十三ラウンド目に「美味い」と言わせれば勝ちなのだ。それが料理という孤独なリングの上にある、たった一つのルールだ。立とうとさえすれば、立ちさえすれば試合は続く。
部員たちも目元を拭い、ぐっと頷いていた。
「わっかりました! 我ら料理部、地獄の果てまでお供します!」
「意地でも作らせて見せますよ、ね? 部長」
「ここまで来て、やめられないわ。料理部の名が廃ります」
料理部は威勢よくそう言ったが、材料が尽きたらしく、本日はお開きとなった。手早く片づけをして料理部を後にしたヨロズ先輩は、すぐに足を止めた。
廊下の壁から背を離し、立ち塞がる人影があったのだ。
「ほ、保羽さん……」
保羽リコと向かい合い、ヨロズ先輩は両手を背後に回した。
その仕草の意味を、保羽リコは感じ取った。
(指の傷、見られたくないのか……)
尋常ではなく料理を苦手とするヨロズ先輩の事だ、すぐに諦めるだろう。と保羽リコはたかをくくっていた。
しかし連日頑張っている姿を、保羽リコは見ている。
いけ好かない相手ではあるが、健気な姿勢だ。
指は切り傷だらけで、全部の指に絆創膏がはってある。腕にやけどの痕もある。料理の腕は一向に進歩をみせていない。それでも、やめない。
板チョコを刻んで湯せんして成形するだけで、どうしてそんな悲惨な事になるのかは、保羽リコにはまったく理解できなかった。
けれど、ヨロズ先輩の熱意はわかる。
森田君をこき使っていた以前とは、明らかに違う態度だ。
「なにか、用かしら? 保羽さん」
「……ほら、これ」
保羽リコはぶっきらぼうに、塗り薬を差し出した。
擦り傷の絶えなかった子供の頃から使って来たものだ。保羽リコの幼少期には、この薬にずいぶんと助けられた。効果のほどは体で試している。
「あんたに、あげる」
「これは?」
「軟膏。切り傷に良いから。火傷にも効くし。ためしてみて」
「…………」
「ほら、塗っても痛くないから。嫌がらせとかじゃないし」
自らの腕に塗って見せつつ、保羽リコは差し出す。
ヨロズ先輩はおずおずと受け取り、目を泳がせつつも小さく会釈した。
「……あ、ありがとう、保羽さん」
「あんたのためじゃないから。清太が食べるチョコは、美味しい方が良いっていう、そういうお姉ちゃんとしての配慮だから。勘違いしないでよね」
そう言って背を向け、保羽リコは逃げるように風紀委員会室へと戻った。いつもなら顔を合わせる度にいがみ合うというのに、調子っぱずれも甚だしい。ヨロズ先輩も戸惑っていたようで、保羽リコもなんだか居心地が良くなかった。
「おかえり、リコ。どうだった?」
保羽リコが席に着くと、書類の束を片付けていた香苗が顔を上げた。
「いつも通り。目立った動きはなかった。ただ――」
「ただ?」
「なかなか、可愛いとこ、あるのね」
「はい? 誰の、どこに?」
「銀野ヨロズにも、可愛いトコあるな、って」
「…………」
「ちょっと、見直したかも」
香苗の咥えていた煎餅が、机にカランっと落ちる。保羽リコがヨロズ先輩を褒めるなど、香苗にとってはちょっとした天変地異だった。
「……め、珍しいわね、あんたが銀野会長のこと褒めるなんて」
「ま、まぁ、存在が腹立つけどねっ。あんな女に清太はあげないし!」
「ふーん」
デレ始めた小姑のような事を言う保羽リコを、物珍しそうに香苗は見やった。落とした煎餅を拾ってボリボリかじりつつ、香苗はスマホを取り出す。
調べものを頼んでいた者たちから、報告が届いていた。
「ところで、リコ」
「なに?」
「色々と探ってもらった所によるとね」
「うん」
「銀野会長、どうやら自分の体を、森田清太に食べさせようとしてるっぽい」
「…………へ?」
「いやだから、体をなめさせるのか、齧らせるのか、それは分かんないけど。ともかく、森田清太に自分の体を食べて貰おうとしているらしいわ」
「……ま、また珍妙なことを……」
保羽リコは頬をひくひくとさせた。
いつも予想外の事をしでかすが、今回も意味不明だ。
「ん? ということは、あのチョコレート……まさか……」
保羽リコはぐむむっと眉間にしわを寄せていた。
「自分の身体の一部を、清太に食べさせる? チョコにまぜて? 自らのDNAを清太の中に刻み付けるために? ま、ままっ、まさか自分の身体にチョコを塗って!? それを、清太にペロペロさせようと? ……その手があったかっ!!」
「その手があったか?」
「じゃなくて! なんという狂気の沙汰を!」
「その発想に至るあんたも、だいぶアレだと思うんだけど……」
「頭おかしいとは思っていたけれど、完全に変態じゃない!」
「蛇の道は蛇って、ことば知ってる? リコ」
「おのれ、銀野ヨロズめぇ! あんな一生懸命な姿で、真剣な目で、なんという邪悪で歪んだ欲望をっ。清太を汚染するつもりねっ。なんっておぞましい女なのっ。不潔、破廉恥っ。ついつい、情にほだされる所だった!」
「……うん、まぁ、なんて言えばいいのかなぁ……とりあえず、おかえり」
しっくり来たわ、と香苗は頷いていた。
「ぐぬぬぬぅ、おのれ人の親切心を弄ぶとは……許すまじ、銀野ヨロズ」
「でもま、どうすんのよ?」
「……は?」
「いや、だから。今回の銀野会長のする事って、要するにバレンタインに森田清太にチョコ渡すだけでしょ。あんたの予想を、森田清太に告げ口でもする?」
「そんなことしても、きっと清太は信じない。人の悪意を疑う事を知らないから、清太は。ただでさえ、銀野ヨロズに身も心も良いようにされてるんだから……」
囚われの姫の身を案じる勇者のように、保羽リコは握った手をぷるぷると震わせていた。保羽リコにとってヨロズ先輩は、姫を手籠めにせんとする魔王であった。
「それじゃ、風紀としては、どういう嫌疑で踏み込む訳?」
「それは……」
「まあ、私や数名の子はさ、風紀の仕事抜きにしたって、あんたに協力するわよ。でも、バレンタイン当日は、生瀬孝也や特別顧問、テロ研の連中を警戒しないといけないし。風紀委員会を私的利用した、なんて事になったら、銀野会長も黙ってないわよ?」
「……なら、禁止にしましょう」
「なにを?」
「チョコの受け渡し」
「……」
「校内でのチョコの受け渡し、今年は原則禁止。そう、生徒議会に働きかけるの。要注意部活の動向が不穏で、風紀委員会として責任を取りかねるから、って」
「……なるほど。臨時法を作らせるわけか。一般生徒への良い注意喚起になるし、バレンタイン当日に何かあっても、風紀への責任追及は減らせそうね」
「責任問題が波及するかもって脅せば、生徒議会もすんなり作るでしょ」
「そうすりゃ、風紀が銀野会長にちょっかい出す正当な理由は作れる、か……でもさ、銀野会長が日戸梅高校の校舎内で動くとは限らないんじゃないの? そもそも生徒議会に働きかけても、銀野会長が邪魔してくるんじゃないかな?」
「いえ、銀野ヨロズはそんな事しないし、バレンタインは絶対に学校で動くわ」
「なんで、言い切れるの?」
「その方がスリリングで、興奮するからよ。そしてなにより、吊り橋効果を狙っているの。清太を動揺させて、緊張させて、いけない事をしている気分にさせて、そうして自分に縋らせるの。あの狡猾な女なら、必ずそうする!」
「…………」
断言する保羽リコをみやり、香苗は目を瞬かせた。
保羽リコは確信に満ちた目で、正義の炎を燃やしている。ヨロズ先輩に関する考察が正しいのかはともかく、保羽リコの勘の鋭さは折り紙付きだ
おそらく、そうなるのだろう。
「おーけー。そんじゃ、今回はバレンタインが決戦の日か」
「厳しい戦いになるわ」
「特別顧問も、ほとんど敵ね。というより、敵が多いわね、今回は……」
「この難局、必ず乗り切って見せる。この前も、そうして勝利を掴んだんだから」
「そうだったわね。よし……そんじゃ、いっちょやりますか」
「どっかいくの? 香苗」
香苗は立ち上がってグルグルと腕を回している。保羽リコが行く先を尋ねると、香苗はそれには答えず、それはそれは優しい顔でにっこりと微笑んだ。
「ちょっとね。一度、しめとかないといけない連中がいるから」
「人手、いる?」
「一人で十分よ」
香苗は指をぽきぽきと鳴らしていた。
何の事かは理解しかねたが、香苗を怒らせた阿呆が居るらしい。と保羽リコは気付き、その連中がこれからどんな目にあうのか、すこし哀れに思った。
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