第6話
5
松崎さんは会計である。
影は薄い。
クラスメイトや先生にも、よく名前を忘れられてしまう。
忘れられずとも、よく名前を間違われる。
「まつがき」「まつまえ」「まつみや」「またざき」「まえがき」
それらの名字が自分を差していると気付くまで、すこし時間が必要だった。「ま」から始まる名前の間違いなら、まだ良い方だ。
「たなか」と呼ばれた事すらある。
嫌がらせの類なら対処のしようもあるが、素で間違われるのだ。
中学でもそうだった。
どうにも存在感が薄いらしく、名前を憶えてもらえない。中学時代も生徒会に入っており、その経験を買われてヨロズ先輩に会計として指名されたというのに。
敵地に潜伏する情報工作員でもあるまいに、これほど多数の名字で呼ばれるのは自分くらいだろう、と松崎さんは思う。悲しい事に松崎さんは慣れてしまっていたが、相手はそれが気まずいらしく、いつも平謝りされてしまう。
「会計の子」
最近では、そう呼ばれる事の方が多い。
一皮むけたいと焦るあまり、松崎さんは正月にイメチェンを決行した。色白眼鏡から一転、黒ギャルだ。ヨロズ先輩も副会長も森田君も、しかし驚いたのは初めだけ。教師たちやクラスメイトに物珍しがられたのも、ほんの数日。
影の薄さは変わらない。
一年前に通っていた女子中学校でなら、先生が泡を噴いて倒れるレベルなのに。
だが、致し方ない。
そもそも、ここは日戸梅高校なのだ。
常軌を逸した奇人・変人・変態がわんさと居る。少々肌の色やお化粧を変えて、コンタクトにした程度で、存在感を出せるほど甘い高校ではない。
気づけばいつもの日常だった。
世間の荒波にちゃんと揉まれ、世間知らずと影の薄さを克服したいと、両親を説得して共学の日戸梅高校に入ったというのに、これではいけない。
そう思えども松崎さんに手立ては無く、生徒会の日常業務に精をだした。
「おや、会計の。何か用かな?」
「はい。この前のお話、良い感じに進んでますので、その報告を、と」
「本当かい? それはよかった」
穴掘り同好会の会長は振り返り、スコップを動かし続ける仲間たちに呼びかけた。校庭の隅に掘られた真新しい大穴へと、せっせと土を戻す手を会員たちは止める。部への昇格が認められるかもしれない、という報告に、四人の同好会員は笑みを浮かべていた。
「……あれ? 四人?」
松崎さんは気付いた。同好会員は三名のはず。しかし、小柄な女生徒がその中に混じっている。松崎さんも知っている女生徒だ。
「なま、せ、さん……?」
「どうも」
「どうして、ここに?」
「穴掘りの仕方を、教わろうと思って。手ほどきを受けてるんです」
「そう、なんですか」
どのような事情かは理解しかねたが、松崎さんはまじまじと見た。
懸命に穴を掘っていたのだろう。ジャージ姿には土汚れが目立ち、生瀬さんの鼻頭には土がついていた。生瀬さんはお辞儀して、またスコップを動かし始める。
生瀬さんの横顔は、とても凛々しかった。
「いいものですねぇ」
「土にまみれる女の子ほど、美しい者はない」
「ええ、会長。まったく」
同好会の面々はそう頷き合っていたが、同好会長が生瀬さんの肩を叩いた。
「生瀬くん、それまでだ。休んでおきなさい。まだ、慣れていないのだから」
「で、でも」
「休むのも、立派な鍛錬だよ。あとは見て覚えなさい」
「……はい、会長」
少し離れた樹の下に、生瀬さんは腰を下ろした。
ストップウォッチを押して猛烈な速度で穴を掘り始める同好会の面々を、タオルで汗を拭きながら生瀬さんは真剣に見ている。
生瀬さんの腕は震えていた。
筋肉疲労のようだ。松崎さんは手を差し出した。
「あの、生瀬さん。手、いいですか?」
「え?」
「マッサージしないと、筋肉痛が酷くなりますから」
「あ、そう、ですね」
「手、貸してください。やります」
「ありがとうございます」
生瀬さんの手を取って、松崎さんはゆっくりと揉みほぐした。
「同好会に、入られたんですか?」
「いえ。そういう訳では……ところで、生徒会の用事、ですか?」
「ええ、まぁ。半分は、そうです」
「半分、ですか?」
「この前、穴掘りの大会があったらしくて。彼ら、結構いい成績をおさめたんです。その、彼らは同好会で、活動費も支給されませんから。来年に向けて、少しでも活動費が出るように、部への昇格を、と。先生方を説いて回ってるんです」
「……すごいですね」
「いえ、そんな。なんていうか、いいじゃないですか、ああいう背中。私は穴掘りの事は良く分からないんですけど、頑張ってる人の背中は応援したくて」
「そうですよね。一生懸命な人の背中って、良いですよね、松崎さん」
遠くを見るような目で、生瀬さんはそう言った。
「あ、あのっ、私の名前、分かるんですか?」
「……松崎かよ子さん、ですよね。生徒会の会計の」
「覚えてくれてるんですか?」
「もちろん」
当然ですよ、と生瀬さんは頷いた。日ごろが日ごろだけに、ちゃんと名前を呼ばれるだけで、松崎さんは笑みがこぼれた。
それも、フルネームを覚えて貰っている。
「松崎さん、お正月明けに肌が小麦色になってて、びっくりしました」
「は、はい」
「かなり印象が変わりましたね」
「あの、ちょっとでも存在感をアピールしようかな、って。海外旅行してたので、その時に、こんがり焼いちゃおうって。お化粧とかも、それに合わせて」
「そうなんですか」
「……変、ですか?」
「いいえ。前の松崎さんも、今の松崎さんも、素敵ですよ」
生瀬さんはごく自然な口調だった。
照れ臭くて、頭を掻きながら松崎さんはうつむいた。
「私、生徒会ではすっごく影が薄いし。あまり表に出るほうじゃなくて。そういうのは、銀野会長や副会長が全部してて。サポートは森田君がやるし……会計の仕事って、先生と生徒会とのパイプ役って感じで。……ほら、会長と副会長って、とっても優秀じゃないですか。森田君も、広報誌とか広報活動とか、すっごく頑張ってて」
「そう、ですね、森田君……がんばってますよね、とても」
「この前、映研や色んな部活を巻き込んで、なんかカッコいいPR動画撮っちゃうし……私なんて、居てもいなくても良いっていうか……」
「そんな事ないです」
生瀬さんはやんわりと首を振ったが、言葉は確信に満ちていた。
「松崎さんが先生たちを説得しないと、部活動とかに配分できるお金だって限られてくるじゃないですか。部活動だって、お金なしで活動はできないし。日戸梅高校に色んな部活があるのだって、松崎さんの力が大きいからですよ」
これほど柔らかく、優しい声で断言されてしまっては、松崎さんに反論の余地はない。温かくて大きなモノに包まれ、松崎さんは安堵のため息をついた。
「私は松崎さんが会計でよかったな、って思ってます。私がそう思っているという事は、銀野会長や副会長や、森田君だって、そう思っています。そもそも、銀野会長が選んだ人なんですから。松崎さん、もっと自信を持って良いと思います」
「な、生瀬さん……」
女神だ天使だと大げさな噂が流れているが、なるほどだ。
話しやすいというのか。何でも聞いてくれるというのか。そこに居る事を認めてくれる、というのか。圧倒的母性、というのか。それほど親しくなかったというのに、知己を得たように、松崎さんはすらすらと話しをしていた。
「実は最近、料理部の人に、トリュフチョコレートの作り方を指南してもらってて。もうすぐバレンタインじゃないですか。生徒会名義のチョコを配って、生徒の皆さんにPRしようかなって、私は考えてたんですけど――……生瀬さん?」
「は、はい?」
ぼやっとした目をしていた生瀬さんは、あわてて頭を下げた。
「あの、ごめんなさい、松崎さん。話の途中で、少し、考え事をしてしまって。……そうですね、バレンタイン、なんですよね、もうすぐ……」
生瀬さんの横顔には、物悲しく、けれど透き通るような美しさがあった。その口ぶりは、陽を浴びるだけで潰えゆく霜の花のよう。
はかなく、淡い、想いの色が見て取れた。
(……ま、まさか、この感じ……恋バナ!?)
松崎さんはかぎ取った。
バレンタインという言葉で上の空になる。間違いないだろう。
目立つ風貌や突飛な言動をしている訳ではないのに、男女学年問わず慕われている。いわば地味系女子の星とも呼べるのが、生瀬さんだ。
松崎さんは自らの胸に手を当て、身を乗り出した。
「相談に乗りますよ。私でよければ」
「え?」
「生瀬さんも、なにか、悩みとか、あるんじゃないかなって」
「……えっと、その、でも……少し、言いにくい事で」
「何でも言って。私、口だけは堅いし。副会長にも、そこは良く褒められてて。というか、お話するお友達もそんなに居ないから!」
悲しい事をさらりと言いつつも、松崎さんは距離を詰めた。
「なにか差し障るなら、ぼやかした感じでも、ぜんぜん構わないしっ。あの、生瀬さんの考えてる事、私も分かるっていうか」
「わかり、ますか?」
「はいっ。それに……親しい人よりも見知らぬ他人の方が、大事な話もしやすい事って、あると思うから。や、私自身に経験がある訳じゃないから、良いアドバイスとかは出来ないかもだけど、話すだけでも軽くなる事ってあるはずだから」
「ありがとうございます、松崎さん」
ぎこちなくも懸命な松崎さんの言葉が通じたのか、生瀬さんは軽く頭を下げた。少し考えるような素振りをして、生瀬さんはふうっと息を吐く。
そして落ち着いた口振りで切り出した。
「……実は、色々あって……」
「うん」
「ある人を、地面の下に埋めてあげたいなって、思ってるんです」
(………………………………え……?)
松崎さんは耳を疑った。
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