第5話




     4



「勝利っ……!」


 それは何という心地よい言葉であろうか。と、保羽リコは噛み締めた。


「勝利……っ!」

「うーん、まあ、限りなく引き分けだったけどね」

「勝利!」

「……うん、あのね、嬉しいのは分かったから――」

「勝利っ!」

「……」

「しょう――」

「うるさいっ!」

「むぅ……」


 香苗に叱られ、保羽リコはふくれっ面をした。


「いつまでも余韻に浸ってないの。勝って兜の緒をしめろ。過去の勝利よりも目先の勝負。もうすぐバレンタインよ、リコ」

「……そうね……」


 香苗に指摘され、保羽リコは机に突っ伏した。

 気が重い。もうすぐバレンタインだ。風紀委員会室にある『粛清あるのみ』という達筆を見て、保羽リコはため息をついた。

 バレンタイン当日の日戸梅高校には、懸案事項がある。


『もうすぐバレンタインな訳だ。いまいましい青春の一大イベントなわけだ。その日までずっとワクワクドキドキして、当日、下足ロッカーをあけたりなんかして、きゃってなるわけだ。義理チョコだからとか言いながら、気恥ずかしくて本命チョコなのにそう言っちゃったりするわけだ。相手もそれを何となく察してるのに、今一歩踏み出せなくてもどかしくなるわけだ。別に意中の相手でも無かったのに、チョコもらっちゃって、意識し始めちゃったりする奴も居るわけだ。中には、それが好きなあの子からのチョコだったりする奴もいるわけだ。忌々しい恋人どもが、この清く美しい学び舎で、チョコを受け渡して永遠の愛を誓ったりするわけだ……ふふふっ、くくっ、なあ、思わないか?』


 東原先生の声は、怨嗟によって粘ついていた。


『……そんなヤツラには地獄すら生ぬるい……と』


 以上が、全校朝礼の檀上でぶちかまされた東原先生の演説である。ある生徒は不安と恐怖に沈み、ある生徒はしきりに頷いていた。バレンタインで羽目を外しすぎないように、という注意喚起のはずだったのだが、話しが脱線した。


 単なる脱線事故とは思えず、テロ準備の疑いが浮上したのだ。


「まあ、特別顧問をどうやって封じるか、よね」

「チョコを上げるっていうのは? 東原先生に」

「自分がもらえても他人の幸せは許せないタイプでしょう、特別顧問は」

「うーん……たしかに」


 今回は風紀委員会そのものが、内部に爆弾を抱えているのだ。


「余裕そうね、リコ」

「友チョコとか、風紀の子達にあげる分はまぁ、東原先生も目くじら立てないだろうし。清太には、家に帰ってから渡せばいいし」

「危機感、大丈夫?」

「わかってる。去年の惨劇をもう一度繰り返す訳には行かないから」


 去年、東原先生はテロ対策研究部に働きかけて学校をチョコまみれにしたのだ。テロ対策研究部は、「近年危機感を増すテロリズムへの対策を研究する部活」という事に表向きはなっている。実際は、過激な悪戯を仕掛けて大衆を混乱の中に叩き落とす事を至上の喜びとしている、性格破綻者の寄り合い所帯である。


 そんな訳の分からない部活でも、部費が支給されるのが日戸梅高校の「変人ホイホイ」のゆえんとも言える。「避難訓練の時間が劇的に短縮された」や「校外で本校生徒が非常事態に冷静に対応して警察に表彰された」やらと、一定の効果がみとめられているのだ。


「香苗、テロ対策研究部の動きは?」

「指示通り目を光らせてる。目立った動きはないわ」

「そう、よかった」

「今のところは、ね」

「…………」

「テロ研が生瀬孝也と接触するかも、ってあんたの読みは鋭い」

「生瀬孝也と東原先生と、テロ研が徒党を組む……か」

「警戒しとかないと」

「そうね、香苗。もしそうなったら……」

「日戸梅高校史上、最悪のスリーマンセルが出来上がる」


 頭痛をこらえる様に、香苗はこめかみを手で押さえていた。


「銀野ヨロズの動向も気になるし……」

「リコ?」

「ちょっと見て来る。敵情を」


 保羽リコは腰を浮かし、風紀委員会室を一人後にした。

 ヨロズ先輩が料理部に手ほどきを受ける事は、掴んでいる。もうすぐバレンタイン。おそらく、手作りチョコの指南を受けるのだろう。


 家庭科調理室のプレートが見え、保羽リコは足音を忍ばせた。ガラス窓に身体がうつらないよう、調理室の戸の前で屈み、保羽リコは耳を近づけた。

 引き戸越しに話し声が聞こえてくる。料理部の面々とヨロズ先輩のものだ。


「なんだか、みなさん、いつも以上に平和ね」

「あ、銀野会長、わかりますか? 実はですねぇ、近頃は孝也君も、なんだか別の事に熱心で。私たち、被害にあわないんですよ。ね? 部長」

「ええ。この前なんて、ガトーショコラをご馳走してくれて」

「ちゃんとしたもの作らせたら、ほんっと美味しいんですよ」


 思い出しただけでほっぺが落ちると、料理部の面々の声は喜々としている。

 食いしん坊三人組の料理部は、生瀬孝也の格好の餌食になりながらも、時折は良い目にもあっているらしい。性格が壊滅している生瀬孝也の事だから、飴と鞭を使い分けて彼女たちを良いようにモルモット化している、と言えなくもないが。


 保羽リコは窓に顔を寄せ、中の様子をこっそり覗いた。

 ヨロズ先輩のエプロン姿が見える。包丁一つ満足に扱えないはずだが、どんな料理でも手早く作ってしまいそうな雰囲気があった。


「それにしても、くぅ~、エプロン姿の会長、良いです!」

「銀野会長とこうしてエプロンを並べるの、初めてですね」

「ええ、そうね。よろしくおねがいします」


 薄幸そうな料理部部長の女生徒に、ヨロズ先輩がお辞儀している。


「こちらこそ、銀野会長」

「っていっても、会長は要領すっごく良いですから楽勝ですよね、部長」

「料理は手際と知識が命です。会長なら、上達はすぐですよ」

「そうそう。苦手意識なんてすぐになくなります」

「メニュー通りにやれば、そんなにひどい事にはなりませんから」


 料理部の面々はそう微笑み合い、さっそく準備に取り掛かった。

 爆発した。

 ヨロズ先輩が火にかけた鍋が、いきなり弾け飛んだ。何気ない日常生活で爆発を引き起こすのは、共産圏のお家芸であって、ここは日本である。


「ぎん……の、かいちょ、う……?」


 料理部の面々は面食らっていた。


「は、ははっ……ま、まあ、失敗は誰にでもありますから……」

「そ、そうですよ。そうやって、少しずつ上手くなっていくんです!」

「まだ、まだ初めの方ですから! ね、ね? 爆発くらいしますよ」


 しない。料理は科学の側面を持つが、理科の実験ではない。

 少なくとも爆発はしない。

 料理部の必死のフォローが、かえって絶望のにおいを煽っていた。


(まったく哀れなこと……)


 保羽リコはふっと息を吐いた。

 ローマは一日にしてならない。料理も同じだ。


 胃袋を掴む事の重要性は、男女問わず計り知れない。

 料理とは兵站である。兵站を軽視するものは、短期的勝利を得る事は出来ても、長期的な勝利を収める事はできない。


(料理は銀野ヨロズにとっての鬼門)


 以前、森田君の家に集まり、三人で昼食を作った時もそうだ。ヨロズ先輩は自身の指をさっくりと切り、とても悔しそうにしていた。

 あの時から、進歩は見受けられない。

 むしろ酷くなっている。


 リカバリー能力の高いヨロズ先輩にしては、珍しい。なんでもそつなくこなせるヨロズ先輩のようなタイプは、悪化の一途をたどる事に慣れていないのだろう。

 この分では、先は見えたも同然だ。


(勝負は、始まる前から決まってるみたいね……)


 余裕の笑みを浮かべ、保羽リコは家庭科室を後にした。




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