第3話
3
「はふぅ……」
生瀬さんは大きくため息をついた。
少し前に覚悟を決めたというのに、さっそく壁にぶち当たってしまった。今までは壁ですらなかったものが、急に壁になってしまっている。
(……め、目が……あわせられない……)
今朝もそうだった。
おはようと言って、逃げるように席についてしまった。
お昼休み、森田君が話しかけて来てくれたというのに、そそくさと立ち去ってしまった。不自然だろう。なにせ森田君が思い詰めたように、「ボク、何かしたかな?」と尋ねて来たのだから。
どんな顔をして、何を話せばいいのか。
森田君の瞳を見るだけで、頭の中が白くなってしまう。今まで森田君と当たり前に出来ていた事をしようとするだけで、とても怖くて、逃げ出してしまった。
(……森田君、すごく不安そうにしてた……)
申し訳なく思う反面、少し心躍る気もして、生瀬さんはぶんぶんと首を振った。両のほっぺをぺちんと叩き、邪念をぱっぱと追い払う。
「あの、如奧先輩、こういう場合どうしたら?」
「鞭の先端がぶれるのは、いつも手元が頼りない時よ、エリちゃん。エリちゃんがどうしたいのか、どうなりたいのか、しっかり見つめればいいの」
「私は、私は森田君と……」
『相思相埋』になりたい。
両手でぐっと握り拳を作る生瀬さんの肩を、立ち上がった如奧先輩が微笑ましそうに撫でた。異国の血が混ざった端正な顔立ちと、丁寧に結った栗色の髪は、淑女そのもの。如奧先輩の優しい指使いが、生瀬さんの肩から力みを抜いていく。
「エリちゃん。考え方を少し立ち止まらせましょう」
やんわりとした声で如奧先輩にうながされ、生瀬さんは顔を上げた。四つん這いになった眼鏡の椅子の人にちょこんと腰かけ、女王様研究部の机へと生瀬さんはノートを広げていたのだが、そのノートを如奧先輩が閉じてしまったのだ。
「立ち止まる、ですか?」
「ええ。エリちゃんは、彼を埋めてあげたいのよね?」
「はい。森田君が、そう望んでいましたから」
「なら、彼にとってその行為がどういうものか、まず知っておくべきだわ」
「……っていうと?」
「どの程度、それを欲しているのか。どのように欲しているのか。それは彼にとって手を握るような行為なのか、それとも、もっと神聖なものなのか。それを知らずに、ただ相手が好きだと言っていたから、という理由だけで与えてはいけないわ」
生瀬さんははっとなった。
相手の立場に立って物事を考える。あらゆる事の基本と言ってもいい。いつもなら、ごく自然に出来ている事が、ちっともできない。
「最適のタイミングで、最適の量を与える。マゾというのは、なかなかに繊細なの。とにかく力を込めて鞭打てば喜ぶというわけではないのよ」
如奧先輩の言葉を、生瀬さんは手早くメモした。
これが恋愛の駆け引きというモノなのかと、ふむふむと熱心にノートへと書き込んでいく。多少問題があったとすれば、それは恋愛のテクニックではなく変態のテクニックであった事だが、愛する事は大なり小なり変態性を帯びるものでもある。
「斥候が必要ね。山下くん、出来るかしら?」
「無論だ」
窓辺から背を離し、山下が静かに頷いた。
生瀬さんのクラスメイトであり、森田君の親友だ。整った目鼻立ちに、学力テストでは上位に食い込む優れた頭脳。高校一年生とは思えない、研ぎ澄まされた武人のごとき物腰。恵まれたその全てを台無しにする、特殊な性癖を持つ少年だ。
「エリちゃんを焚きつけた責任、取ってもらわないとね」
「わかった。行ってこよう」
女王様研究部を出て、山下は生徒会役員室へと向かった。
だが、森田君はそこにはおらず、ヨロズ先輩と会計の一年生がいる。彼女たちが言うには、おやつを買いに食堂へ行ったらしい。食堂へ向かっていると、踊り場で森田君と出会った。揚げ物の良い香りが、階下の森田君から漂ってくる。
紙に包まれたコロッケを数個、森田君は手にしていた。
一人分にしては多い。
生徒会役員たち全員の分なのだろう。
「森田、すこし良いか?」
「どうしたの、山下」
「尋ねたい事がある」
「珍しいね、山下が質問なんて」
「うむ。実は今度、地面の下に埋まってみようかと思っていてな」
「そうなんだ」
とんだ質問を出会い頭にぶつけたというのに、森田君は平然としている。まるで天気の話題でも扱うかのよう。森田君の様子に、山下は目を光らせた。
「委員長から聞いたのだが……」
「生瀬さんから?」
「ああ。森田は得意だそうだな」
「得意、ってほどじゃ」
「そうなのか?」
「結構、難しいから」
「ほう」
感心したように山下は頷いた。難易度が分かるという事は詳しいという事だ。詳しくない者は、それが難しいかどうかすら分からない。
なにより、森田君の口振りはとても落ち着いていた。
「穴掘りって、上級者になると頭脳勝負らしいんだけど、初心者の内は習うより慣れろ、らしいから。あ、そうだ。穴掘り同好会っていうのがあるから、紹介しようか? 穴を掘る事に関してなら、ボクに聞くより、ずっと良いアドバイスをしてくれると思うよ。埋まる事に関してなら、ボクに聞いてくれた方が良いけど」
「……む? うむ、助かる」
「手、貸そうか? 一人じゃ埋まれないでしょ」
「いや、いい。まず、話を聞きたかっただけだ」
「そっか。人手が必要なら、いつでも言って。一人じゃ危ないから、さ。いつも山下には協力してもらってるし、たまには、山下の役に立ちたいから」
「その言葉だけで十分だ、森田。では、な」
「え? もう、いいの?」
「ああ。長話では、コロッケが冷めてしまう」
「あ、うん。そだね。じゃあ、なにかあったら、また相談して」
「わかった。助かる」
収穫の成果は上々と言った所だろう。
森田君と別れ、山下は女王様研究部の戸を開けた。
「あれは、かなり手馴れていると見た。専門の部活動まで紹介されたからな。森田にとっては日常生活の一部というのか、息を吸うかの如く、というのか。いわば、普通でありながら特別なもの。俺にとっての脱衣のようなものなのだろう」
「そう……では積極的に攻めるべきかしらね、エリちゃん」
「いや、待ってほしい」
如奧先輩を山下が手で制すると、部室の皆が顔を見合わせた。
「どうしたの? 山下くん」
首を傾げる生瀬さんに、山下は静かに頷いた。
「森田は土に埋められる事を至上の喜びとしているはず」
「ええ、そうね」
「にもかかわらず、土下座を愛好し、寒中の水に沈み、高層ビルから突き飛ばされたいと相談し、トランクケースに詰めて運ばれたいと願っていた。そうだな?」
「それが、どうかしたの、山下くん?」
「うむ……」
山下は静かに頷き、顎に手を当てて思案顔になった。
「……我々は、何かを間違っているのではないだろうか?」
「と言うと?」
「大きな勘違いをしている気がするのだ」
「かんちがい……?」
「うむ」
聞き返した如奧先輩が黙るほど、山下のうなずきは確信に満ちている。
驚くべき事に、山下は冴えているようであった。
間違っている事に気付けるとは、渦中に居るものに中々出来ることではない。地獄の袋小路に居る事に気付いてすらいない、生瀬さんやこの場の面々にとっては、またとない一筋の光だった。
暗雲から差し込んだ一筋の光が、次々と皆の目を晴らしていく。
「生瀬様、女王様。今の彼の洞察、一理あると思われます」
生瀬さんの腰元で、人間椅子となって居た眼鏡の女生徒がそう言った。
「たしかに、そうね。そうかもしれないわ、エリちゃん」
「それじゃあ、山下くんはどう見るの?」
生瀬さんの問いに、山下は即答した。
「もはや、ただ穴を掘って埋まるだけでは、森田ほどの男は満たされんのだろう」
「なるほど……」
生瀬さんはせっせとメモを取った。
捨てた方が良いメモだった。
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