第2話




     2



 もうすぐ二月十四日。

 バレンタインだ。

 森田君はそわそわしていた。


 ヨロズ先輩とは、今はもう恋人同士ではない。

 とはいえ、期待していなかったと言えば嘘になる。もちろん、ヨロズ先輩の性格を知る森田君としては、一筋縄でいくとは思っていない。


 クリスマスイブに、極寒の水に沈めて欲しいと言ってくるのがヨロズ先輩だ。プールサイドで嬉しそうにコンクリートをこねるのが、森田君の想い人なのだ。

 ヨロズ先輩から貰えるなら、どんなチョコだって嬉しい。


 もらえなくても、仕方ないと森田君は思っていた。

 チョコは天に任せ、今はただ、ヨロズ先輩のお願いに集中しよう、と。バレンタインがどうなろうと動揺しまい、と日夜座禅を組んで心頭を滅却していた。


 ただ――


「私そっくりのチョコを作って、それを森田君に食べて貰うのはどうかしら?」


 などと、朝の挨拶が済んだ途端に切り出されれば、さしもの森田君も面食らう。廊下に人目が無い事を確認し、森田君は頷いた。


「えっと……それを、バレンタインの日に?」

「ええ。木の葉を隠すなら森の中、と言うから」


 チョコを隠すならバレンタインで、という事らしい。森田君としては嬉しいような、悲しいような、非常に判別し辛い提案でもあった。


「つまり、等身大のチョコの像を作る、ですか」

「どうかしら?」

「いいアイデアだと思います。それなら、ちゃんと食べられますよ」

「問題は、どう作るかなのだけれど……」

「そうですね」

「チョコを削るか、あるいは型に流すか」

「チョコの塊を削って像にするのは、等身大だと、重くなりすぎると思います。溶かしたチョコを型に流し込んで、中は空洞の像を作った方が、軽くて運びやすくなるはずです」

「奈良や鎌倉の大仏と同じ作り方ね?」

「はい。使うチョコレートの量も少なくて済みます。試作を重ねる事になると思うので、使う材料は、なるべく量が少ない方が良いはずですから」

「彫像の心得はあるから、あとはシリコンの型取りね」

「生瀬さんに当たってみます。美術部の協力が得られれば、心強いはずですから」

「ええ、おねがい、森田君」

「二人で作れば、何とかなりますよ。ボクも多少の心得はありますから」

「それなのだけれど……」


 ヨロズ先輩が言いよどみ、森田君は首を傾げた。


「なんでしょう?」

「私一人で作るから、チョコは。試作も、森田君は手伝わなく良い」

「……えっと……」

「料理部の方々にも、昨日の内に、話を通しておいたから」


 ヨロズ先輩はそう言って、自らの手をぎゅっと握っていた。何かに対して強い不安を抱いているらしい。森田君はすぐに思い至った。


「……大丈夫、ですか?」

「?」

「先輩ってその、料理は苦手だったような……」

「がんばるから」

「そう……ですか。わかりました」


 森田君は頷いた。

 ヨロズ先輩の手作りチョコが食べられる。色々と頭の痛くなる事を乗り越える必要はあるが、その一点だけで森田君のやる気は高まっていった。


「そのアイデアで進めるとなると、なるべく、色々な準備を手早くしていく必要がありますね。バレンタインデーは風紀も忙しいはずですから、間に合わせないと」

「そうね。狙い目ね」

「はい。あの、あくまで学校で行うなら、ですが」

「設定があるから。消毒液の匂いがする部屋だと、雰囲気が出ると思う」

「…………」


 いつも、なんだかんだでズブズブになって居る気がする設定だが、それでも、ヨロズ先輩がそう言うのなら森田君は何とかしたい。


「ではまた、森田君。後で」

「はい。またあとで」


 やはりヨロズ先輩は、以前ほど目を合せてくれない。妙に、よそよそしいというのか。ヨロズ先輩との距離を、森田君は感じるような気がした。


(いつもの先輩なら、もっと遠慮なく踏み込んで来てくれるのに……)


 やや寂しさを感じつつ、森田君が曲がり角を曲がると、ばったり出会った。

 柔和な顔立ちをした、清楚で小柄な女の子。

 クラス委員長の生瀬さんだ。


 どんな奇人・変人・変態に対しても礼節ある対応を忘れない、慈悲深き天使として名が通っている。森田君の馬鹿なお願いに何度も手を貸してくれたばかりか、助言や協力者の仲介までしてくれ、時には身を挺してくれた事もある。

 天の御使いとして、森田君の信仰は日々深さを増していた。


「生瀬さん、おはよう」

「も、森田君……」

「いまから教室だよね? 一緒にいこ――」

「わ、わたし、用事があるから!」

「……あ、あれ? なませ、さん……?」


 すたすたと立ち去っていく生瀬さんの後ろ姿を、森田君はぽかんと見やった。急ぎの用があるのだろう、と頭で理解しようとしても、心の空っ風が邪魔をする。


 森田君は気を取り直し、休み時間のたびに生瀬さんの姿を探した。しかし、森田君と目があうだけで生瀬さんは顔を強張らせ、目をそらし、声をかける勇気すら森田君から奪った。他のクラスメイトとは普通に接し、談笑している生瀬さんの姿が拍車をかける。


 お昼休み、森田君は意を決した。


「生瀬さん、ご飯一緒に食べない? 話したいことがあ――」

「ごめんなさい。他の人と、食べるから」


 生瀬さんはそう言うなり、背を向けて足早に立ち去った。いつもの優しく穏やかな生瀬さんからは、ありえないほどの冷たい対応だ。


「森田、おまえ、いいんちょに何かしたのか?」

「生瀬さんがあんな態度を取るなんて、よっぽどよ、森田君」


 クラスメイトが不思議そうに聞いて来る。


「いや、心当たりが、ないんだけど……」


 だが、明らかに生瀬さんはそっけない。


(もしかして……え? 生瀬さんに、避け、られてる……?)


 そう思い至った瞬間、森田君はがたっと机に手をついた。

 足に力が入らない。

 寄る辺を失った小舟のように、森田君の頭はぐらついた。


 これもまた自らの信仰に対する試練である、などと前向きに考えられるほど、森田君は人生に慣れてもいなければ、マゾとしての研鑽を積めても居ない。


(ボク……なにか、しちゃったのか……?)


 今までの行いを森田君は振り返るも、思い当たる節は無い。

 トランクケースに詰めて運んでもらったり、コンクリートで足を固めるのを手伝ってもらったり、寒中の川に沈む時に見守ってもらったり、地面に穴を掘って埋まるのを手伝ってもらったり。生瀬さんは、いつも快く協力してくれていたはず。


 とはいえ、それはあくまで森田君の主観でしかない。

 地雷は踏めば大きな音を立てるものの、人間関係という地雷原に潜む対人地雷だけは、足を吹っ飛ばされても気付かない事がある。


 特に、思春期の心にまき散るそれは特別製だ。


「あの、副会長……」

「どうした? 森田」


 森田君が訪ねると、机仕事をしていた副会長は手を止めて顔を上げた。


「すこし、相談がありまして」

「時間がかかりそうなら、放課後を開けておくが?」

「いえ、いま少し、お時間を頂ければ」

「わかった。ここでいいか?」

「はい、ありがとうございます。副会長」


 二人きりの役員室だ。

 森田君としても都合が良かった。


「それで、相談というのは?」

「親しかった人から、なんだか最近、避けられている気がして……」

「避けられている気がする? 気のせいではなく?」

「はい。たぶん、気のせいではないと、思います」

「心当たりはあるのか?」

「いえ、それがまったく。だからなおの事、困っているというか。こっちは特に気にしてない事でも、向こうにとってはそうではない事って、結構あるじゃないですか。知らす知らず、ボクも気に障るような事とか、なんか、間違っちゃったのかなって」

「なら、聞いてみればいい」

「それは、そうなんですけど……聞きづらくて」


 気弱そうに森田君がうつむくと、副会長はふむっと腕を組んだ。

 七三に分けた副会長の髪型は、いつも通り決まっている。副会長が眼鏡に手をやりながら思案顔をすると、深謀遠慮な執事か秘書のようでもある。


「人間関係は多少なりとも駆け引きの要素はある。友達経由で探りを入れたり、回りくどい事が必要な時もあるだろう。とにかく踏み込めば深まるほど、人間関係は浅いものではない。だが、森田。やはり腹を割って話し合ってみなければ、本当の所は分からない。心と心は、常に一対一。互いに心地よい距離を探るには、試行錯誤あるのみだ」

「…………」

「案ずる以上に行動だ、森田。お前の誠実さは、きっと通じる」


 背中をポンと押されたような気がして、頭を下げて森田君は役員室を出た。

 生瀬さんは図書室か、美術室だろう。

 廊下を曲がる事数回、生瀬さんは渡り廊下で見つかった。


 森田君の姿をみとめると、生瀬さんは慌てて廊下を曲がろうとする。

 しかし森田君の掛け声は、生瀬さんのその動きにやや先んじていた。


「ま、待って、生瀬さん!」

「ど、どうしたの?」

「生瀬さん。ボク、何かしちゃったかな? 気に障るような事……」

「へ?」

「生瀬さんにはほんと、無理を聞いてもらってばっかりで、あんまり、お返しとかも出来ていないし。そういうので、不満に感じる事とかあるなら、言って欲しい。ボク、なんでもするから。今までもその、思い返すとボク、生瀬さんに我がままばかり言ってきたと思うし。生瀬さんとその、話しも出来ないっていうのは、かなりつらいっていうか……」

「ち、違うから! これは、その……違うから!」


 慌てたような表情で、生瀬さんはぶんぶんと手を振った。


「森田君のせいじゃないっていうか。いや、森田君のせいなんだけど」

「え!?」

「違くてっ。とにかく、森田君に責任はないから!」

「……ほ、ほんと?」

「うん。ほんと。ごめんね、変な態度、とっちゃって……」


 なよやかに頷く生瀬さんの瞳には、強い意思の光が見て取れる。


 ひとまず森田君は、ほっと胸をなでおろした。生瀬さんの言う事に間違いはない。それが敬虔な信徒である森田君の結論であった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る