第26話




     18



「生瀬さん、今回もありがとう」


 森田君の屈託のない笑顔に、生瀬さんの心はかき乱された。

 生瀬さんの家まで、わざわざ森田君はお礼を言いに来てくれたのだ。


「とっても助かったよ。……ほんと、生瀬さんは天使みたい」

「あ、あのね、森田君、わたし――」

「今回は上手く行かなかったけれど、生瀬さんのせいじゃないからね。リコ姉ぇと香苗さんの実力っていうか、さすがは風紀委員会だな、って事だから」

「……」

「じゃあ、またね、生瀬さん」

「うん……またね、森田君……」

「今度、お礼するから」


 森田君は一かけらも疑っていなかった。

 とても真っ直ぐな瞳だった。


 森田君のその瞳こそが、生瀬さんの心を突き刺し、なによりも締め付けた。


「エリ、そろそろ家に入ろう。風邪をひいてしまうよ」


 兄に声をかけられ、生瀬さんは気付いた。

 軒先で立ち尽くしていたということに。


「……おもっちゃった……」

「…………」

「……うれしい、って。森田君はきっと、すごく辛い想いをしているのに。銀野会長と別れたって聞いて、わたし……銀野会長と話して、私……」


 大切な人の不幸を、心の底から喜んだ。

 大切な人の不幸せを、良いチャンスだとすら、心のどこかで思ってしまった。あやふやにして遠ざけていた自分の想いが、どす黒い欲望が、はっきりとした形になって暗く微笑みながら、自らの身体を突き動かした。


 森田君の笑みの、真剣さの、その一途さの素晴らしさを知りながら。

 森田君の努力が無に帰すと分かって居ながら。


 なすがままにした。

 与えようとせず、奪おうとした。

 してしまった。


「失敗しちゃえって、思った……」


 生瀬さんは自身の胸元に爪をたて、鷲掴みにしていた。そうしていないと、痛みと気持ち悪さで、心臓がどうにかなってしまいそうだった。


 近づこうとするほどに、胸の高鳴りが暗い色を帯び始めるなんて。

 冷たくて、粘ついて、苦くて、切なくて。


 どこかへ行ってしまえと追いやるほどに、意地悪に近づいてきて。


「……エリ……」

「……わたし、天使なんかじゃない……全然違うよ……」


 なぜ大切な人の幸せを願えないのだろう?

 なぜいつもしているように、できないのだろう?

 よりにもよって、森田君に対して、それが出来ないのだろう?


 こんなはずじゃなかった。

 こんな事をしてしまうはずでは、なかったのに。


「どうしよう……?」


 森田君を裏切りながら、それでも、彼に自分の嫌な部分を見せたくないと。そんな自分を森田君にだけは見られたくないと、怯えながら隠そうとしている……


 なんて惨めで、浅はかだろう。


 好きという気持ちはもっと愛おしいものではないのか?

 愛するという事は温もりに満ちた事ではないのか?


「……どうしよう、兄さん……」


 情けないほど、声が震えていた。


「わたし、どんどん嫌な人間になっていく……」


 小刻みにゆれる生瀬さんの肩を、手が温かく包み込んだ。

 涙と共に生瀬さんが見上げると、やさしく微笑む兄の顔が見えた。


「天使というのはね、上から見下ろすものでもなければ、下から見上げるものでもない。同じ目線で、苦しみに寄り添える者の事なんだよ。穢れを知らぬ者が尊いんじゃない。穢れと向き合えるものこそが、ほんとうに尊い者なんだ」

「…………」

「エリ……キミの最も素晴らしい長所は常に他者を尊重することで、キミの最もダメな短所は、常に他者を尊重しすぎる事だ。たまには、自分の想いに正直に生きてみなさい。たとえそれが、結果的に大切な人を傷つけてしまう事であっても」

「……兄さん……」

「正々堂々と戦ったのなら……少なくともエリがそう行動したのなら、傷つけたにしろ、傷ついたにしろ、結果がどうであっても真っ直ぐに歩いて行けるものなんだ。自分の行動というものはね、なによりも自分への担保になるんだよ。自分の想いなのだから、それが良かろうと悪かろうと、もっと胸をはって受け止めなくちゃ」


 生瀬孝也の言葉は柔らかく、とても落ち着いていた。


(……向き合っていなかったんだ……)


 生瀬さんははたと気付いた。


 自らの身体を衝き動かしたその力は、まぎれもなく激しかった。

 激しく強い想いだったのだ。自らでも御せぬほどに。


 どうすればいいかなんて、分からない。だからといって、どうしたいかから目を逸らしてはいけない。自らを見つめる恐ろしさは、きっと避けて通れない。


(……わたしは、どうしたいの?)


 打てば響く。

 生瀬さんは自らの手でごしごしと涙を拭いた。


「大丈夫。僕が男の子の心を射止められる虫スイーツの作り方を伝授――」

「それは必要ないから」

「…………そ、そう……」


 あまりに鋭くバッサリと切り捨てられ、生瀬孝也ですらたじろいだ。


(銀野会長の事が森田君は本当に好きだ……)


 その森田君の一途すぎる目を、自分に向けさせることは容易ではない。ただでさえ、恋愛経験に乏しいのだ。


 思い返してみれば、誰かの目を自分に向けさせたいだなんて強く願ったのは、幼稚園以来だ。淡い想いを抱き、なりふり構わず必死に先生の気を引こうとしたあの幼さ。自身の経験を探って出て来るのは、その程度だ。


 高度な駆け引きや策略、アプローチの仕方など、まったく分からない。

 独力では不可能だ。


 生瀬さんは自らの非力をみとめ、頼りになりそうな人を思い描いた。


 一般的な感性をもつ級友たちでは、力不足と言わざるを得ないだろう。森田君はかなり特殊な状況をくぐり抜けてきた人なのだから。

 それでも、ヨロズ先輩を想い続けようとする人なのだから。


(並大抵のアプローチじゃ、きっとダメだ……)


 生瀬さんは直感していた。


 ――欲しいと思えば与えなさい。

 如奧先輩が言っていた言葉を、生瀬さんは強く思い返した。


 翌日から、すぐさま行動に移す。


 今、生瀬さんに必要な助言者は、常識から遠い場所で生きている者たちだ。独特の世界観を持ち、その意志は強固で、理解不能でありながら、頼り甲斐を感じさせる強者ども。生瀬さんが知る限り、最高峰の人材たちに声をかける。


 選び抜かれた四名の軍師たちは、二つ返事で美術室に集ってくれた。

 その四名の中には当然、生瀬さんのクラスメイトの姿もあった。


「ねぇ、山下くん」

「なんだ、委員長?」

「どうかな? 今の私、ちゃんとパンツ穿けてるかな?」


 生瀬さんの目には、まだ戸惑いがあった。苦しみがあった。心細さがあった。だがそれ以上に、地を這ってでも進もうとする者の輝きがあった。かつて美術室で書きかけの絵を前にうつむいていた、鳥籠の中のノーパン天使の目では無かった。


 天使とは、美しい花をまき散らす者の事ではない。


 時に哀れなほどに。

 時に無様なほどに。

 苦悩する者のそばで、苦悩しながら戦おうとする者。


 生瀬さんは紛れもなく、パンツをはいた天使だった。


「……ああ。良い穿きっぷりだ、委員長」


 山下は穏やかな瞳で頷いた。

 ツッコミ役が不在だったので、ほんと、どうしようもなかった。


「って言ってても、仕方ないか。結局こういうのって、森田君が振り向いてくれないと、意味のない事だし。森田君は銀野会長の事が好きだから……」

「委員長、一つ良いか?」

「なに? 山下くん」

「その程度の障害で諦めるなら、その程度の想いだったと言う事になるぞ」

「………」


 山下の言葉はどこまでも冷徹で、しかし真実の一側面を抉り出していた。


「一瞬に愛を込めるなどとは笑止千万。身を引く愛など片腹痛い。愛しているのなら、どの様な犠牲を払い破滅の底へ向かおうとも、続けられるはずなのだ」

「それは、すこしその、愚かしい考え方でもあるんじゃ……」

「その通りだ」


 山下は即座に頷き、こう付け加えた。


「だが、愚かしいものだ。想うということは。だろう?」

「……うん、そうだね」


 山下に問われ、生瀬さんは強い眼差しで頷いた。


 他に好きな人がいる人を、好きになってしまった。森田君の想いの強さを知りながら、それでも振り向かせようとする自分は、あさましい生き物だろう。


 諦めようともせず、秘め続けようともせず。森田君の望みを一番に考えようとせず、ただ己に従おうとするこの想いは、まぎれもなく愚かしいものだ。


 清らかではない。

 純粋でもない。

 賢くも無い。


 優しい者のすることでもないだろう。

 ましてや、勝機の薄い戦いに挑むなど、大ばか者だ。


「どれほどの障害があったとて、前に突き進み続けるしかない。ぶつかり、打ちのめされ、ふたたび立ち上がる。継続こそ愛。己が愛を、なにより己に対して証明する唯一の術。偽りと虚栄を剥ぎ取る方法。……委員長、それが変態の流儀だ」

「……山下くん、わたし自身は、その……どっちかっていうと、自分は変態さんではない方じゃないかなぁって思ってるんだけど……?」

「似たようなものだ、委員長。気にするな」

「に、似たようなもの……だったんだ、わたし……」


 そこはかとなく衝撃をうける生瀬さんをよそに、山下は続けた。


「森田の趣向はかなり多様だ。土下座はもちろん、寒中の水に沈む事も好んでいる。その他にも様々な噂が流れている。これは俺の直感ではあるが、その噂のほとんどは正しいものだろう。森田という男は、俺ですら到達できぬ高みに在り、日々精進を欠かさぬ男だからな。はてさて、どう攻めるべきか……」

「それは誤解だよ、山下くん」

「ほぅ? 誤解?」


 山下が首を傾げている。


 生瀬さんは知っていた。森田君の口から直に聞いていたのだ。森田君は土下座愛好家でも寒中水泳愛好家でもコンクリート愛好家でもない。


 森田君はそんな男の子ではない。

 ひたむきで、真面目で、笑顔が素敵で、一生懸命な、そう――


「森田君は埋めたい系男子なの。そして、埋められたい系男子でもあるの。トランクケースに詰められて、穴を掘って埋められたいって思ってる男の子なんだよ」

「………………」

「………………」

「………………」

「………………」


 選りすぐりの変態・変人どもですら、生瀬さんの一撃に面食らった。

 だが、そこは日戸梅高校の上位者どもである。


「……さすが、委員長。見事な洞察だ」

「うん。我が妹ながら、実に良い所を攻めようとするね。脱帽だよ」

「服のシワがぴんっと伸びた時のような、爽快さのある答えだな、生瀬の妹よ。アイロニングに通じるものを感じたぞ」

「ええ、まったく。男心が分かって来たわね、エリちゃん」


 歴戦の軍師どもは、誰ひとり生瀬さんを正してやらなかった。

 むしろ、心の底から感心しているらしい。


 そもそも、正しいだとか正しくないだとか、そういった次元で生きている連中ではなかった。覚悟を決めたら突っ走れ、荒野に道を探さずに、お前の後ろを道にしろ――日戸梅の変態ランキング上位者どもは、走り方にしか興味が無い。


 走る方向がどっちかなど、彼らにとっては大した問題ではなかったのだ。


 凶とでるか大凶とでるか。

 それとも一周回って大吉になってしまうのか。


 とにもかくにも、生瀬さんは頼る相手を盛大に間違っていたのかもしれない。





             第三巻 END


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