第22話
香苗と保羽リコを先に行かせ、東原先生は厳島先生と対峙した。
「通して頂けませんか? 厳島先生」
「お仕事が残っています。どこへ行くつもりですか?」
「飲み物を買いに自販機まで行こうかと」
「そう言って帰ってきませんでしたね、先刻も」
「…………」
もはや言葉は意味を成さない。
そう悟る否や、東原先生は窓から飛び出した。二階廊下からの跳躍だったが全く怖じる事無く、見事に着地し、裏門を駆け抜けた。並の先輩教師ならば意表を突き、これで引き離せたろう。だが、東原先生はその背後に凄まじい威圧を感じた。
着地の重い音が聞こえる。
かくも大人げの無いこの動きに、厳島先生は食らいついてきたのだ。
(におうっ、におうわっ!)
東原先生の鼻は『青春のにおい』をとらえていた。
追いつくのが先か、追いつかれるのが先か。
東原先生は腹をくくり、イヌ科イヌ属に匹敵しかねないほどの嗅覚を頼りに、『青春のにおい』の痕跡をたどった。
(んっ!? しかし、このにおいは……)
東原先生は勘付いた。
自らの追っているにおいの正体に。
(ということは、つまり……!!)
洞察した途端、東原先生はにおいの追跡を止め、大きく弧を描くように道を選んでUターンし、学校へと引き返した。二車線道路を横切り、そこで足を止める。
そして厳島先生へと、東原先生はにやりと微笑みかけた。
厳島先生も気付いたのだろう。慌てて踏みとどまっていた。
東原先生の術中はすでに厳島先生を飲み込んでいる。
一見、二車線の道路を挟んだだけ。
だがここ数日、そこには警官が立ち、交通違反に目を光らせていた。それだけで、この二車線道路は、真冬の運河よりも冷たく二人を隔ててしまうのだ。
「…………」
厳島先生の眼光が鋭く東原先生を射抜くが、東原先生は涼しい顔だった。
東原先生は勝ち誇ってすらいた。
引けば見逃し、進めば職質。
知将、東原先生の策であったのだ。
もはや趨勢は決したと、厳島先生に背を向けて東原先生は悠然と歩き始めた。
スマホを取り出し、香苗たちに連絡を入れる。
あのトランクケースを引く人影の通り道には、青春の甘いにおいが感じられない、と。むしろ青春の暗黒面に近いオーラを強く感じたほどで、獲物はイヴの時と同じく、陽動を仕掛けようとしているに違いない。東原先生の嗅覚と洞察は鋭かった。
(小林なら気付くはず……)
東原先生は己の嗅覚を頼りに、つま先を日戸梅高校へと向けた。
校門は目の前。
すぐに集結してくる風紀委員たちに加勢すれば、東原先生の血も涙もない力の前に、吐き気のする青春劇場は脆くも砕け散る事だろう。
青き春など学生共には相応しくない。
草木一本生えぬ、干上がり、ひび割れた青春の荒野こそ相応しい。
その光景を脳裏に浮かべ、東原先生は暗く微笑んだ。
「そこのあなた!!」
「ちょっと待ちなさい!」
警官の声が背後から聞こえ、東原先生は目をつぶって首を振った。
哀れなものだ、先輩教師の使命感というものは……
諸行無常を感じ取り、東原先生は小さな祈りを捧げた。進み出でて自ら警察に捕まるとは、その心意気、天晴れではあるが少々愚直がすぎる。
「ふふっ、はっはっは! 勝負あった……――なっ!?」
背後でダンっと踏みしめる音がして、東原先生は振り返った。
目に飛び込んできたその光景に、東原先生は驚きを隠せない。
「ば、馬鹿な!?」
厳島先生を警察官が捕まえていなかったのだ。それもそのはず、東原先生の目前に居たのは、いつもの厳島先生ではなかった。
「厳島先生ッ、それは、まさかそれは――!!」
震える指先で東原先生が指し示すその先に居る人物。
それは、プロレスラーの如く覆面をした教師だった。
普通ならスーツ姿に覆面なんて格好で街中を出歩けば、そちらのほうが怪しい。だが、厳島先生にとって、この覆面姿は効果的であった。
そのガタイの良さから、本職のレスラーにしか見えないのだ。
警官も職質ではなく、単に声をかけただけだったらしい。
「これをつけて歩く事は、この顔に産んでくれた両親へ顔向けが出来ない事と同じ。この顔で今まで歩んできた己が人生へ泥を塗る事と同じっ。だが、しかし!」
厳島先生はゆっくりと歩み寄りながら、決意の言葉を口にしていた。正義のヒーロー以外の何ものでもなかった。
「東原先生っ、あなたにちゃんと仕事をさせるためならばっ、私は我が人生に泥を塗り、甘んじて親不孝者の誹りを受けましょう!! さあ、覚悟なさい!」
厳島先生は言い切った。
泥など塗る必要はなく、誹りを受けるいわれなど微塵もない。
東原先生に対して減給なりなんなり、適切な処罰を与えればいいだけの話であるのに、それはしない。厳島先生の恩情は圧倒的だった。
「ぐっ……そ、そんなバカな……」
その前では、東原先生などミジンコでしかなかった。
15
悠然とした動きで空き教室に入り、周囲の安全をゆっくりと確かめ、森田君はトランクケースからヨロズ先輩を急いで出した。
赤のトランクではない。
ヨロズ先輩のお父さんの物である、紺色のトランクだ。
生瀬さんに服を貸していたので、森田君は体操着姿だった。
「先輩、急ぎましょう。リコ姉ぇたちが気付くのは時間の問題です」
「ええ、でもその前に」
「なんです?」
「まず森田君が、私にしなければならない事があるわ……」
「…………」
伏し目がちにヨロズ先輩に言われ、森田君は設定を思い出した。毎度毎度、設定はグダグダになってしまうが、それでも、まったく無視している訳でもない。
(えっと、確かボクは変質者で、先輩を昏睡させて運んだあと……)
劣情にかられる。
そして口にするのも憚られる行為を、ヨロズ先輩にするのだ。
「…………」
「…………」
気まずい沈黙を破ったのは森田君だった。
「いやそのでもっ、先輩とボクってほら、今は恋人同士って訳ではないし!」
「だからこそ…その、そのほうが、森田君の鬼畜っぷりがより際立つわ……」
「だからと言ってですね、いくら何でもそんな破廉恥な――」
とさっ、と音がした。
ヨロズ先輩が仰向けに倒れていた。
森田君は一瞬くらっと来たが、忘れてはいけないと首を振った。
ここは学校なのだ。
健全を是とする、神聖な学び舎。
放課後ではあるが、先生や生徒だってまだ居る。口に出す事すら憚られるような行為をして、もし学友にでも見られようものなら、どうなるか。そんな背徳的な事が許される場所では断じてなく、しかし許されないからこそ、燃え上がってしまう場所でもある訳で。胸の鼓動を抑えようとするほどに、森田君の動悸は激しくなっていく。
「せ、せんぱい……?」
「…………」
「……な、なんで返事してくれないんですか? 何で目をつむるんですか? そんな無防備な格好して横たわるなんて……せ、先輩! 言っておきますけどっ、ボクだって年頃の男な訳で、男は基本的に一度走り出したら止まらないケダモノなんですよ!」
「…………」
ヨロズ先輩は横たわり、目をうっすらとつむったままだった。
床に波打つ御髪、艶やかな唇と首元。
均整の取れた肢体から覗く、太もも。色々な部分の、女性的な膨らみ。
ヨロズ先輩に抱き付かれた事があるし、抱き付いた事もある。
いずれもムードもへったくれもないシチュエーションでの事だったが、それでも、ヨロズ先輩の感触は森田君の魂に刻み付けられていた。
とっても柔らかい。
ドキドキするほど温かい。
すごくすごく、良い匂いがする。
健全な男の子として、森田君だってその感触をもう一度、と思っていなかったと言えばウソになる。それ以上のことだって、そりゃ考えてしまう。
健全なのだから当然だ。
こんな不健全なシチュエーションで、健全な男子が、不健全な気持ちを抱かないなどあり得る事か? この不健全な場で健全な選択をする方が、むしろ不健全だ。そして何より、誰あろうヨロズ先輩からゴーサインが出ている。
(が、ががっ、我慢できるかぁ!!)
いかな森田君とてケダモノにならざるをえなかった。
自らの男の性に森田君は全てを委ねた。
もう後先など考えない。
計画など知った事か。
事ここに至っては、変質者の役に魂を込めるのみ。がばっと行った森田君は、べちゃっと床に突っ込んだ。するりとヨロズ先輩に交わされてしまったのだ。
(だよね、うんっ。こうなると思った!!!)
森田君は床に突っ伏し、涙をのんで受け入れた。
なぜなら設定上、ヨロズ先輩は間一髪で逃げるわけだから。予定通りと言えば予定通りだったが、嬉しさはちっとも感じなかった。
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