第15話




「さっき怒鳴り声のような物が聞こえたけれど、いったいどうし――ん?」

「こんにちは」

「ああ、こんにちは……キミは、山下君、だったかな?」


 そう言って表情を和らげたのは、見知った警察屋さんだ。

 今は私服姿だった。非番の日なのだろうか。


「はい」


 山下は頷いた。

 森田君の寒中水泳に付き合った時以来だ。


 朗らかな笑みを絶やさない好青年であり、保羽リコの兄でもある。

 尋問が巧みで、敵に回すと厄介な人だった。


『キミたち』と声を掛けられなかったという事は、山下の背中が上手く陰になり、森田君の姿は見えていなかったのだろう。と、山下は判断した。


 裏路地へと深く入って来られると面倒だ。

 警察屋さんをトランクに近づけすぎないよう、山下は前に出る。


 山下の思惑通り、警察屋さんは足を止めた。


「ところで、そのトランクは?」

「知り合いのモノなんです」

「ん? ……ああ、そのトランク」


 と、警察屋さんはぽんっと手を叩いた。

 知っているらしい。


「もしかして、清太君の? 近くにいるの?」

「ええ」


 そりゃもう近くに居る。

 目と鼻の先だ。


 だがそんな真実を言う訳にはいかない。相手は森田君の知り合いでも警察だ。森田君ほどの逸材を、国家権力の常識にのっとり、補導してしまいかねない。


 なにより、友の窮地を捨て置く山下ではなかった。


「キミ、大丈夫かい? 様子が変だけど」


 警察屋さんはそう言った。

 相変わらず恐ろしい洞察力だ。山下の動揺を見透かしているのか。


「……変、とは?」

「この前会った時とは、ずいぶん雰囲気が変わったようだから」

「そうですか?」

「以前は、思わず手錠を掛けたくなっ……なんというか、警察官として放っておけないオーラを出していたんだけれどね」

「……あの時は、俺はうぬぼれが過ぎる若造だったんです……」

「十分若いけどね、今の君も」


 警察屋さんが微笑ましげに言うと、がー、がーっと音がした。


「トランクの中に……スマホ?」


 警察屋さんが首を傾げている。


 着信の振動である。

 トランクの内壁の、堅い部分にスマホが当たっているのだろう。音が増幅されて聞こえてくる。殊更に大きな音だと、山下には思えた。


 その音が止まった。

 より正確には、音が変化して止まった。


 まるで、トランクの内部でスマホ自体が動いたかのように。


「おや……?」


 その異変に気付かない警察屋さんではなかった。


「音が、へんな止まり方をしなかったかな?」

「……そうでしょうか?」

「掛けてきた方が電話を止めた、なら分かるんだ。でも今聞こえた感じだと、音が止まる前にスマホが動いたような……そんな気がしてね」

「はは、まさか」

「ははっ、そうだよね。そんなの、スマホが独りでに動いて、着信を切ってしまいでもしない限り、起こるはずがないよねぇ」

「ずいぶん幻想的な考えですね」

「まったく、いい年して我ながら恥ずかしいよ。……でも、そうだな。ファンタジックな妄想を抜きにして、現実的に考えてみると、どうだろうね?」


 トランクの中に入っている人が、音の大きさに焦ってスマホを動かし、スマホの電源を切った。それがおそらく、現実だろう。


 まずい、と山下は焦った。

 表情にこそ出さないが、警察屋さんは疑いを持っている。


 良く回る山下の舌も、以前の冴えが無い。ここ最近はずっとこの調子だ。

 いつもならこの焦りすら楽しめるというのに。


(脱衣と同時に走り出すか……?)


 山下はぐっと上着に手を掛けた。そうすれば、警察屋さんをトランクから引き離す事ができるだろう。しかし、山下は踏ん切りがつかなかった。


 身体に染み込んでいたはずの動きが、ここ最近、できないのだ。日々の練習でさえ納得のいく脱衣がこなせない。掴めていた感覚が無くなり……いや、掴んだ気になって居ただけだと己の未熟さに気付き、脱衣の深淵の前に恐れ慄いてしまっているのだ。


「トランクの置き方も、ほら、変じゃないかな? こんな裏路地の上に、車輪を下にせずに側面を下に置いているなんて……ねぇ?」

「森田の、考える事なので」

「森田君が置いたんだ、こんな風に」

「はい」

「さっきも、トランクをいじっていたのは、立ててあげようとして?」

「どうしようかと」

「という事は、キミもこの状態は変だと感じている訳だよね?」

「……え、ええ」

「だったら、そのトランク、ちゃんと立ててあげればどうかな? 清太君が帰ってくるまで、時間がありそうだし。ほら、せっかくのトランクが、ねぇ?」


 そんな事をすれば、トランクの重量感がもろに出る。

 数十キロの内容物が詰まっているのだ。一目瞭然になってしまう。


 窮地を切り抜けるべく山下は考えたが、自らの頭脳にいつもの切れはなかった。まるで冷えた機関車だ。石炭をくべても窯は煌々とせず、汽笛一つあげられない。


 蒸気を生み出せなければ、車輪は回らない。

 自らのなんと非力な事かと、山下は手をぐっと握った。


「どうしたの?」

「いえ、その……」

「トランク一つ、立てるだけだよ? それとも――……」


 警察屋さんの声が深く低くなり、山下は胆を冷やした。


「トランク一つ立ててあげられない理由でも、あるのかな?」


 苦難を快楽へと変える力よ、戻って来てくれ。


 山下はそう念じたが、己の力が、いつも都合よく応えてくれるはずもない。警察屋さんの熟練した手並みの前に、山下はなす術がなかった。


 その時だった。


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