第16話




「すみません!!」


 警察屋さんの横手から、少女の声が飛び込んできた。


「トランクケースを見かけませんでしたか!? 赤色のトランクなんですっ。大きさはこれくらいで、すこし古びてて、キャスターがついてるんです。そのトランクには……その、なんていうか、すごく大切な……大切な人が!!」


 普段からは考えられないほどの早口だ。その少女は焦っていた。顔は上気し、とても不安げな瞳と物腰だ。

 それでも、哀れなほどに一所懸命だった。


 まじまじと少女を見ていた警察屋さんが、おやっと気付いた。


「キミは、この前、清太君が寒中水泳をやっていた時の」

「へ? あ、あの時のっ、警察の」

「もしかして、キミの探しているトランクって、あれの事?」


 と警察屋さんが振り向いて指を差そうとして、目を丸くした。いつの間にか、トランクケースの横に森田君が突っ立っているのである。


「あ、あれ? 清太……くん?」

「森田君!!」


 警察屋さんの横をすりぬけ、生瀬さんは森田君に飛びついた。生瀬さんに抱き付かれ、森田君は困惑した。生瀬さんは目に涙まで溜めていたのだ。


「ど、どうしたの、生瀬さん!?」

「よかったぁ、よかったぁっ……」

「な、生瀬さん……?」

「探していたのよ、あなたのこと。電話にも出ないから」


 戸惑う森田君に、後からやってきた如奧先輩が声をかけた。


「エリちゃんがひどく取り乱して。落ち着けるのに手間取ってしまったのよ」

「ごめんね、ごめんね森田君。わたし、私のせいで……」


 事態が次々に変わる、混迷した現場だ。

 山下と警察屋さんも、戸惑っているようだった。


「えっと……清太君、これはどういう事かな?」

「その、二人とはぐれてしまって。すごく心配をかけてしまったみたいで。でも、もう大丈夫です……利守さんは今日、リコ姉ぇと待ち合わせじゃ?」

「おっと。そうだね。いけない、いけない」


 警察屋さんは時計を見て、顔をしかめている。


「じゃ、失礼するよ」


 問題は無いと見たのか、警察屋さんは足早に立ち去った。


 如奧先輩や山下から話を聞き、森田君は事態を整理した。第二新聞部の追撃を振り切る過程で、厄介な事になってしまったらしい。

 森田君は頭を抱えた。まさかトランクの中で熟睡してしまうとは。


「では、私達もお暇させてもらうわね。予定外の事で、色々と立て込んでしまったから。エリちゃんも走り回って、この通りだから」

「はい、そうですね」


 如奧先輩がしきりに気遣っていた。生瀬さんの顔色は優れない。このままでは心労がたたってしまうだろう。森田君としても、続行するつもりはなかった。


 山下の目撃証言から、おおよその事情は掴めた。

 生瀬さんと如奧先輩には、ずいぶんと負担を掛けてしまったようだ。


「二人とも、今日はありがとうございます」


 謝り続ける生瀬さんを、如奧先輩と一緒になだめ、森田君は頭を下げた。如奧先輩に生瀬さんを託し、二人の背中を森田君は見送り、本日は解散だ。


 裏路地に、山下と二人きりになった。


「山下、助かったよ」

「俺は何もしてない。通りがかっただけだ」

「でも、山下が居なければ、もっと大変な事になっていたかもしれない。あと、利守さんからかばってくれたし。ありがとう」

「やめてくれ、森田。そんな高みから、見下さないでくれ……」

「み、見おろす? あの、ちょっと――」

「俺は自分が恥ずかしいっ」


 まさか山下が羞恥心なんぞを持っているとは。

 と、森田君は面食らった。


「や、山下?」

「……自分の不甲斐なさが、許せない……」

「ど、どうしたの?」


 いつにない山下の暗い顔に、森田君は戸惑った。


「見下ろすも何も、ボクは高い所になんて――」

「いる! 森田、お前は遥かな高みに居るんだ! 降り注ぐようなお前のその輝きはまさしく、太陽だ……俺には眩しすぎる……!」

「え、えっと。いや、そんな大げさな――」

「服の脱ぎ方が分からなくなった、なんてちっぽけな事で俺が悩んでいる間に、森田っ……お前はっ、お前はトランクケースに詰められて、寝てるんだぞ!! 俺の悩んでいる事なんて、お前の進んでいる高みと比べれば、あまりに情けない!」

「…………」


 山下のかつてない正論であった。

 なんだか無性に申し訳なくて、森田君は正座した。


「クリスマス・イヴの時、小林先輩に言われた。常識に寄りかからねば、立つ瀬の無いほど非常識とは身薄いモノ。心に突き刺さった。俺が今まで心血を注いだそれは、その程度のモノだったのに、森田、お前はっ……お前はすごすぎる……」


 山下は山下なりに、思い悩んでいたらしい。


 そういえば手を貸してもらうばかりで、山下に手を貸した事が無かったと、森田君は思い至った。山下なら深刻に悩まないだろう、なんて思っていたのだ。

 そんなわけがない。


 山下だって思春期の少年だ。

 常日頃から脱衣の修練を欠かさず、軽蔑される事に無上の喜びを感じ、変態の屁理屈を時に哲学へと高めてしまうドMなだけで、ちゃんとした人間なのだ。


 森田君は深く恥じた。

 突飛なところもあるけれど、山下は大切な友人だ。


「付き合うよ、山下」

「……森田……」

「いつも、相談に乗ってくれているしさ。その、山下の悩みに助言とかは多分できないけど、傍に居ることくらいなら、ボクにだって出来るから」

「しかし、これは俺の――」

「一人で抱えられる問題なんてさ、たぶん、そんなにないんだよ。迷惑かけるとか、これは俺の問題だからとか、今までの自分とか、一人でちゃんとしないととか、そういう自覚に強く縛られすぎるとさ、自分を良くない感じで追い込んでしまうと思う」


 かつて自らもそうであったように、と森田君は続けた。


「選択肢なんて選べて一つか二つなんだから、増やすだけ増やしてさ、そこから好きなのを選べばいいんじゃないかな。色んな人に色んな事を教えてもらって、そうやって心の鍵は作っていくもんだって……山下、言ってたじゃないか」

「……そうか、そうだったな。すまない……恩に着る」

「いや、山下が言ってくれた言葉だから」

「帰ってくるものなんだな。良くも悪くも。自分の言葉というものは」


 山下は決心した目をしていた。


「実はこれから、人を訪ねようと思う。ついて来てくれるか?」

「もちろん」


 森田君は頷き、山下の後ろに続く。

 駅へ向かって山下は歩いた。


 駐輪場の裏手だ。建物が取り壊された後の、空き地なのか。建物に囲まれて居ながら、不思議と日当たりは良い。商店街から揚げ物の匂いが漂ってくる。

 残された礎石の上に、人影があった。


 皺くちゃのおじいさんだ。

 座禅を組んで瞑目していた。


 地域の人からそこそこ親しまれているのか、おじいさんの足元に、花や食べ物のお供え物がなされている。

 つるつるとした頭や服装から、地蔵のようでもあった。


「紹介しよう、森田。我が師だ」

「お師匠さん、が、居たんだ……山下に……」

「あらゆる道に先達がいるものだ、森田」

「えっと、この方は、何をしている人なの?」

「師にたずねると、以前こう返された。人には色彩を持つ者がいるが、長年の修練の果て、色彩の呪縛からは解き放たれた、と。……実に深い言葉だった」


 つまり定年退職し、今は無職らしい。

 なかなか変わったおじいさんのようだ。


 類は友を呼ぶ、と言うやつであろう。そしてこの二人とこうして一緒にいる以上、自分も呼ばれた友であり類である、と森田君は気付いた。


「お久しぶりです、師よ」

「…………」


 ひざまずいた山下に、おじいさんは何の反応も示さなかった。

 だが山下は、そんな事を気にも留めずに続けた。


「気付きました、師匠。俺は自分の思い上がりに」

「…………」

「ほんとうのマゾプレイは、他者と他者との繋がりの中にあるはずなのに、俺はっ……おれは、上手くできないんです……気付いているのに、どう体現していけばよいのか」

「…………」

「心技と体を、どう結び付ければよいのか」

「…………」

「いったい、どうしたら……?」

「……青いな……」


 空を見上げておじいさんはぽつりと口を開いた。

 常識的に考えると、山下の未熟を指したのだろう。だが、このおじいさん単純に「空が青いね」って言っただけじゃないか、とも森田君は思った。


 青空と言っても電線にまみれている。

 油や香辛料、野菜やら肉やら魚やらの入り混じった、不可解なにおいが漂っている。自転車のベルや商店街のBGM、それに室外機。


 時折、電車の騒音も聞こえて来る。

 厳かな雰囲気が圧倒的に足りないのだ。


「……師匠?」

「比べて濁らぬぞ、空は」

「それはどういう?」

「まことのプレイというものは、常に己の内にあるものだ」


 渋く深い声で、おじいさんはそう言った。


 そりゃそうですよ、そんなものがよそ様にあったら大迷惑ですもん――と森田君は正直思ってしまったが、口には出さなかった。山下とおじいさんがせっかく師弟のやり取りっぽい事をしているのだから、水を差すのは悪いだろう。


「ありがとうございます、師よ……」

「……え?」


 森田君は思わず声を出したが、山下とおじいさんは静かに頷き合っていた。彼らは彼らなりに、得心がいく心のやり取りを果たしていたらしい。


「大切な何かを、掴めたような気がします」


(今ので、何かつかめたんだ……)


 掴まなくてもよい何かを山下は掴んだらしい。

 振り向いた山下の顔は、さっぱりとしていた。


「森田、お前のおかげだ」

「……そ、そう? 自分でも申し訳ないくらい、何もしてなかった気が――」

「そんな事は無い」


 山下は首を振った。


「お前に背中を押されなければ、俺はちっぽけな面目一つ捨てる事ができず、師匠と顔を合わせる勇気も持てず、こうして言葉を頂くことも出来なかったろう」

「そうなんだ……いつのまにか押してたんだ、ボク。山下の背中」


 ちっとも気付かなかったと、森田君は額の汗をぬぐった。


 人間性の崖っぷちに居る山下の背中など下手に押したら、真っ逆さまになりかねない。森田君は自分の言動に注意しようと心に決めた。


「森田、お前はいつも、俺の背中を押してくれていたさ」


 山下は晴れ晴れとしている。

 山下が納得しているらしいので、それなら良いかと森田君は思った。



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