第11話




「飴? 今の箇所のどこに飴があったんですかねぇ……」

「え? わからないんですか?」


 こんな簡単な事も?

 あなた、今どこで何を見ているんですか?


 という顔で椅子の部員に見られ、森田君はたじろいだ。


「舐めて良い地面を清潔にしておくために、女王様はきっちりアルコール消毒をしているんですよ。ほら、この漂ってくる匂いが分かりませんか? それにほら、あそこ。女王様が踏んでいた床、アルコールのせいで少し変色してしまっています」

「た、たしかに、色変わってますね」

「女王様の上履きを良く見てください。とてもピカピカでしょう? 普段学校で使うのとは違う清潔な上履きを用意して、我々がお腹を壊したりしないようにしてくれているんです。やれやれ、そんな事も分からないなんて、あなたはマゾ失格ですね」

「は、はぁ……」


 失格の方が良い。

 そんな世界一受けたくない検定試験など、合格したくない。


「まったく。一年の森田さん、でしたか?」

「はい、そうです」

「いけませんよ、生徒会の書記ともあろうものが、そんな浅慮では。あなた、もしかして、サディストと女王様を一緒くたに考えていませんか?」

「ち、違うんですか?」

「当たり前です」


 椅子の部員は断言した。


「女王様は恵みを与えてくださるもの。他人に害を加えて自己を満足させ、ただ奪うだけの浅ましいサディストなどとは、比べる事すら失礼なのです」

(訓練され過ぎだろう、この人たち……)


 如奧先輩の危険性をひしひしと森田君は感じた。


「それと、言っておきますが、生瀬様のような将来性のある御方ならともかく、私は他人を――それも男を背中に乗っけて喜ぶほど変態ではないので、あしからず」

「だったら、別に僕は床に座るのでも構いませんが……」


 あきらかに上級生っぽい人を椅子代わりというのは、森田君は気が引けた。ぱっと見は眼鏡をかけた理知的な女生徒で、プライドが高そうなのだ。なにより、森田君が座れば二人で一人の人間椅子に座ることになってしまう。


「まったく、森田さん。あなたは分かっていませんね」

「な、なにがでしょうか?」

「私は野郎を背中に乗っけて喜ぶ変態ではないと言いましたが、そういう私の趣向を知り尽くした女王様にそう命じられ、屈辱を感じながらも野郎を背中に乗せねばならない、というシチュエーションは大好物なのです。そこのところ、お間違いなきよう」

(……輪をかけたド変態じゃないか、この人……)


 森田君はさらにドン引きした。


 配下の者たちでさえ、強烈な哲学の香りを放っている。いかに日戸梅高校であっても、これはただ事ではない。

 部員でこれなら、部長はどんな化け物なのか。


「森田君、座ってあげないと……」


 と生瀬さんが耳打ちしてくる。


「私も初めはね、罪悪感で押しつぶされそうだったけれど、なんていうのか、座っている内にね、こう、連帯感っていうのかな……。椅子の人との信頼感みたいなものが芽生え始めてね、これはその、見た目のインパクトほど酷いモノじゃないなぁって、そう思えるようになってきたから。何事も、触れもせずに遠ざけちゃだめだな、って」


 生瀬さんがなにやら、とんでもない事を口走っている。

 如奧先輩によって軽く洗脳でもされているのか。


「だから、ね? 座ってみよ、森田君」

「……う、うん」


 変人の戯言なら真に受けたりはしない森田君でも、しかし生瀬さんの言う事には弱かった。天使に囁かれては、敬虔なる信徒として従うしかない。


 椅子一つでいつまでも戸惑っている場合ではないのだ。

 ここに来た目的は別にあるのだから。


 世間話や自己紹介もそこそこに、森田君は本題に入った。

 ヨロズ先輩の名前は巧みに伏せるよう、森田君は言葉を選んだ。


 ヨロズ先輩は中々の見栄っ張りだ。築き上げた学校社会での地位や名誉を大切にしている。「山中に埋めて」だの「湖に沈めて」だの「ビルから突き飛ばして」だの、そんな生徒会長としてあるまじき行為を、一般生徒に知られる訳にはいかないのだ。


 如奧先輩に要点をかいつまんで話すと、当然の疑問が返って来た。


「どうしてそんな事をしたいのかしら?」

「…………」

「ねぇ? どうしてかしら?」


 如奧先輩は柔らかい声だった。


 だが、その目を見れば分かる。その声すらも、豚の心に踏み入ってピンヒールで踏みつけようとするような、泰然とした女王様っぷりであることが。


「……が、…………ですか?」

「なーに? 聞こえないわ」

「理由が、必要なんですか?」

「…………」

「トランクケースに詰められて運ばれたい、そう欲するのに理由が必要なんですか?」


 森田君のまっすぐすぎる眼差しとハキハキとした声に、如奧先輩は驚いたような顔をして、そのあと心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。


「……いいえ。あなたの言う通り。必要ないわ、理由なんて」

「でしょう?」


 森田君は自信満々に言い切った。


 こういう手合いに対して動揺してはいけないと、今までの経験で体に染みついていた。基本的に、やるか、やられるかの領域なのだ。


「それで、女王様。協力して頂けるんでしょうか?」

「もちろん。エリちゃんの頼みですもの」


 如奧先輩は初めからそのつもりだったようだ。

 先ほどのやり取りも、森田君を試しただけらしい。


「なかなか素敵なお知合いね、エリちゃん」

「あの、如奧先輩。森田君は、その……」

「大丈夫よ、エリちゃん。彼を取ったりしないわ。女王はただ与えるのみ、ですもの」

「いや、取るって……森田君は私のものじゃないですから」

「……あらあら、そうなの。ふふっ……」


 わたわたと否定した生瀬さんを、如奧先輩は微笑ましそうに見つめた。


「それにしても――」


 と、如奧先輩は森田君に向き直った。


「あなた、不思議な人ね。なかなかの修羅場をくぐりぬけて来たのかしら? ふふふっ、まったく、ドMの分際でその自信と落ち着き、大したものだわ」

「は、はい? ドM?」


 思わず森田君は聞き返してしまう。

 如奧先輩は口に手を当てて驚き、にっこりと微笑んだ。


「あら、自覚が無かったの? 一目見ただけでピンと来てしまったわ。あなた、頭の天辺からつま先に至るまで、完全にドMのオーラが放たれているのよ?」

「ど、どどどっ、ドMじゃないですよ、ボクは!」


 声をどもらせながら森田君は立ち上がった。


「いきなり、な、何を言って……ねぇ、生瀬さん?」

「え!?」

「……え?」

「いやっ……あ、う、うんっ。そう、だね。森田君は、普通、だよねっ!」

(あ、あれ? 生瀬さんに目を逸らされたぞ……)


 森田君は愕然とした。


 とても気まずげに生瀬さんがあたふたしているのだ。

 山下になら何を言われても、森田君はそこそこ平静を保つことが出来るようになってきた。しかし、生瀬さんのその反応は平気ではいられない。


 常識のリトマス試験紙が反応しているのだ。


(……あ、ボクって……もう相当、そっち側なんだ……)


 まだまだ余裕で引き返せると思っていた森田君は、自分がかなり奥深くまで踏み込んでしまっていて、しかも自覚すら持てて居なかった事に気付いた。



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