第三巻
第一章
第1話
1
「高層ビルから私を突き飛ばして欲しい」
大好きな人にそう頼まれれば、何とかしようとするのが森田清太という男だ。
山中に穴を掘って女の子を埋めたり、コンクリートで足を固めて水に沈めたりと、高校一年生で出会うにしては珍しい困難の数々を、森田君は乗り越えてきたのだ。
そんな中で得られた教訓が一つ。
最初は絶対不可能に思えても、やれば結構何とかなる。
なにより、ヨロズ先輩にちゃんと自分を見てもらうために、森田君はしっかりと存在をアピールしていこうと心に決めたのだ。
拒絶されてしまわないよう、程よい感じで。
どうすればよいだろう?
「地上二十メートルで時速七十キロ近く、三十メートルで時速八十キロ以上になります。着地時はそれほどの速さになりますよ、先輩」
「つまり四十メートルでは時速百キロになるのね、森田君」
「はい。消防法上の定義としては、三十一メートルを超える建築物が『高層』らしいので、最低でも時速八十キロでの着地に耐えないといけません」
「八十キロ……」
「建築法上では六十メートルを超えると『超高層』の建物です。飛び降りる建物の高さは三十メートルから六十メートルを想定する、という事になります」
などという会話でヨロズ先輩をリードすれば良いのだろうか?
………………
…………
(……何かを猛烈に間違っている気がする……)
今さらながら森田君はそう思った。
だが、その事に関しては追々考えて行けばよい。
ヨロズ先輩は海外旅行中だ。
具体的な行動はヨロズ先輩が帰って来てからだ。
それよりも今、森田君にはやらねばならない事がある。
コンクリート・イヴにお世話になった人や、迷惑をかけた人が沢山いるのだ。
生瀬さん、副会長、山下などにお礼をしつつ、森田君は年末とお正月を過ごした。そんな折、風紀委員長補佐の香苗に呼び止められた。
「そういやさ、生瀬ちゃんの事、助けてあげなよ。今、えらい目にあってるから」
「……どういう事ですか?」
香苗に教えられ、イヴの裏で何があったのかを森田君は知った。
森田君の同級生である生瀬さんが、正月早々、その兄である生瀬孝也の毒牙にかかっているらしい。生瀬さんは身を切るような手法で、森田君に協力していたのだ。
生瀬さんは恩人である前に、森田君の信仰する天使である。
その窮地を捨て置けるはずがなかった。
「だ、ダメだよ、森田君!」
生瀬さんの返答はきっぱりしていた。森田君は昼前に生瀬宅を訪ね、開口一番に身代わりを申し出たものの、生瀬さんはすんなり首を縦には振ってくれなかった。
それはそうだろう。
生瀬さんはそういう女の子だ。
柔軟さと慈愛に満ちた人で、物腰も顔立ちも穏やかだが、心には鋼の軸を持っている。他人を犠牲にして自分が助かるくらいなら、容赦なく自らを切るだろう。
だが、生瀬さんは若干やつれており、顔色も優れない。
些細な変化ではあったが、森田君は見逃さない。
森田君も譲る気はなかった。
「どうして、生瀬さん?」
「だって、ぜんぶ、私が勝手にやったことで――」
「けれど、生瀬さんは気絶するくらい虫が苦手でしょ。ボクも得意って訳じゃないけど、生瀬さんよりは耐えられるはずだし。まかせてくれないかな?」
「……森田君……」
「生瀬さんがそうであるように、そうしないとボクの気が済まないんだ」
森田君が一心に断言すると、生瀬さんは戸惑いつつもリビングへと招き入れてくれた。玄関先で追い返されるかと焦っていたので、森田君はほっとした。
「ふむ。エリの為につくった一皿だったんだが……」
エプロン姿の生瀬孝也が少し残念そうに言った。
すらりとした身体つきの高校二年生だ。穏やかな物腰や優しげな顔立ちだけなら、妹と近しい物がある。だが、その内側は似て非なるものだ。
生瀬さんが祝福の象徴なら、生瀬孝也は厄災の象徴である。
「ボクが代わりに食べては、ダメですか?」
「たしか、森田清太くん、だったね?」
「は、はい。生瀬先輩」
「紛らわしいから孝也で良いよ」
「はい、孝也さん」
「まぁ、食べて感想を聞かせてくれるなら誰でもいい、か……」
ふむっと顎に指をあてて数秒考え、生瀬孝也はそう言った。
出来上がったばかりの一品と、森田君は対面した。
白アリのリゾット……らしい。
以前料理部で見た、スズメバチの姿盛りに比べれば、見た目のインパクトはマシだ。料理された後であるし、動いていないと言うのは心理的にありがたい。
毎度毎度、どこからこんな食材を仕入れてくるのかと尋ねてみると、「世の中には、色んな人がいるんだよ」と生瀬孝也は答えた。
彼なりのツテがあるそうだ。
「さあ、召し上がれ」
「い、いただきます!」
うながされるまま、森田君は意を決して一口いった。
こういうのは、ためらえばためらうほど、疑念と恐怖が強くなる。
行くなら一気に行くべきなのだ。
ぐっと目をつぶっていた森田君は、かっと目を見開いた。
(……あれ? けっこう、いける……? いや、むしろうまいぞ、これ!!)
甲殻類系の味がする。
プチプチとした食感と、サクサクとした食感がある。
苦みも、えぐみも無い。いつの間にやらスプーンをせっせと動かしている自分に気付き、森田君は生瀬孝也に感心した。この一皿は、まったく見事なものだ。
味付けも絶妙だ。
バターなのかハーブなのか、心地の良い風味が効いている。
料理部の面々が言っていた通り、生瀬孝也の腕が良いのだろう。どんな酷いモノかと思えば、これはなるほど、先入観を捨てるべきだと思えるほどだ。
「どうかな? 森田くん、お味の方は?」
「はい。あの、大変美味しいです。というか、好きです、ボク。これ」
「ふふふっ、それは良かった。こうした地道な積み重ねが、無知や偏見の垣根を超え、世界的な食糧危機を将来救うかもしれない訳だよ。馬鹿にできないものだろう?」
森田君はこくこくと頷いた。
変人や悪魔の類だと思っていたが、今では生瀬孝也が立派な人に見える。
(生瀬さんや料理部の人達が拒絶反応を起こしちゃうのは、きっと昆虫食研究の初期の方でトラウマを植え付けられちゃったからなんだろうなぁ……)
と森田君はふと思った。
誰だって慣れない時は失敗してしまう。悲しい事ではあるけれど、研究とはそういう側面を持っているものだ。
仕方のない事でもあるのだろう。
「だがね、森田君。すこし残念なお知らせもあるんだよ」
「なんでしょうか?」
「我が家の台所を使う事はやめてほしいと、かねがね母から言われて居てね。心置きなく使える近場のキッチンが少なくて。……友人たちの協力を得たいのだが、嘆かわしい事に、みな偏見を持つあまり非協力的だ。とても困っているんだよ」
生瀬孝也は悩ましげにそう言った。
なんとかしてあげたいな、と森田君は思った。
この研究はゆくゆく、世界の食糧危機を救う一助になるかもしれないのだ。
森田君は父親と一軒家に二人住まい。家を空ける事が多い父に代わり、台所の一切は森田君が取り仕切っている。
「あの、でしたら、僕ん家の台所を貸しましょうか?」
「も、森田君!? あのね――」
「ふむ。それはありがたい話だ!」
驚く生瀬さんを遮るように、生瀬孝也が申し出を受けた。
「ああ、もちろんエリもついて来てくれ。今日から彼は、エリの身代わりになるのだからね。せめて介抱する人が一人はいてくれないと、困ってしまう」
「か、介抱……?」
森田君が聞き返すと、生瀬孝也はにっこりと微笑んだ。
「おやおや、森田君。今、食べてもらったのは、エリ用に控えめに作った料理に決まっているじゃないか。昆虫食の深淵はもっと暗く、複雑怪奇なものだよ」
「……え?」
「いやぁ、うれしいなぁ……キミとはぜひ、長く付き合っていきたいものだ」
生瀬孝也は目を細め、森田君の肩をぽんぽんと叩いた。
飛んで火にいる夏の虫。
(……あ、あれ? なんか、思ってたのとずいぶん違う展開になりそうだぞ……ひょっとして、とんでもない人に目をつけられてしまったんじゃ……?)
背筋が凍っていく感触を森田君は感じた。
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