第19話
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職員室に駆け付けた香苗が、東原先生に事情を説明する時間は最短で済んだ。
「特別顧問、実は――」
「よい。皆まで言うな」
香苗が説明しようとすると、東原先生は手で遮った。
「先ほどから、くそ忌々しい青春の臭いに頭がぐらついていた所だ……!」
こういう事に関しての東原先生の悟る能力はお釈迦様に肩をならべ、嗅覚はお釈迦様を超えている。救いの無さではぶっちぎりだ。
お釈迦様の垂らした救いの糸すら、天国へ登ろうとはせず、逆に釈迦を地獄に引きずり込むために全力で引っ張って、綱引きになれば勝ってしまうかもしれない淑女なのだ。
職員室を抜け出して東原先生と共に校内の駐車場へ足早に向かっていると、厳島先生を誘導していた保羽リコが慌てて合流してきた。
「香苗! すぐに気付かれる!」
「百も承知よ。――特別顧問っ」
「乗りなさい、二人とも。かっとばす」
東原先生は自信満々にそう答えた。
2トーンカラーの軽自動車に三人は乗り込んだ。エンジンがかかる前に、良くないものを感じた保羽リコと香苗はシートベルトを締める。と同時に、凄まじい物音が校舎から聞こえて来た。ほぼ間違いない。厳島先生がドアをはね開けた音だろう。
保羽リコが声を荒げた。
「東原先生、急いで! 厳島先生がもうそこまで――」
「黙っていなさい、保羽。舌を噛むわよ」
シフトレバーの操作とほぼ同時に、東原先生がアクセルを踏み込んだ。背もたれに身体が沈むほどの勢いだ。
軽自動車の発進音とは思えない発進音と共に、車は学校を飛び出した。
あと一歩まで迫っていた厳島先生を、見る見る内に引き離す。
軽自動車のあまりの勢いに、厳島先生は立ち尽くしているようにも見えた。
「ぬはははははっ! 徒歩通勤が裏目に出たわね、厳島先生!!」
東原先生はすごく楽しそうだったが、バックミラーをチラ見した瞬間、その楽しげな顔が凍り付いた。何事かと香苗が後ろを見ると、厳島先生が走って追いかけて来ている。
香苗はあんぐりと口を開けた。
全力だと人間はこれほどまでに速く走れるものなのか。
相手が車だと言うのに、諦めようとは思わないのか。
ただでさえ恐ろしい厳島先生の形相が、ものすごい事になっていた。
香苗や保羽リコの焦りより、東原先生の動揺は激しい。
「馬鹿な、そんな馬鹿な……一度信号で止まったとはいえ、車に追いつけるはずが」
ぶつぶつとそう呟く東原先生へと、保羽リコが声を張り上げる。
「先生、はやく! もっとスピード上げて!!」
ターミネートされる。保羽リコと香苗は真剣にそう思った。
東原先生の強運によって信号は青ばかりだが、それは厳島先生にとっても同じこと。赤信号に捕まった瞬間に追いつかれてしまうかもしれない。
だが、東原先生の顔は、「我に秘策あり」とそう語っていた。
それなのに、東原先生の操る軽自動車が右折を繰り返している。まるで街中を迷路のようにさ迷う動きだ。
香苗は東原先生の糸が分からず、呼びかけた。
「特別顧問っ、なぜこの角を曲がるんです!? これでは駅に近づけな――」
「後ろを良く見なさい、小林」
焦る香苗とは対照的に、東原先生の声は落ち着いている。言われた通りに後ろを見ると、厳島先生が数名の警察官に羽交い絞めにされていた。
いつのまにやら、東原先生は警官がいる場所を法定速度ギリギリで横切っていたのだ。厳島先生は街中を五分ほど出歩くだけで、最低一度は職務質問にあうほど人相が悪い。そんな凶相が何かを必死で追いかけている様を目撃して、黙って見逃す警察屋さん達ではない。
東原先生の機転だった。
「……くくくっ、くははっ。詰めが甘かったわね、厳島先生っ。恨むなら自らの顔面を恨みなさい! ぬほほっ、のーっほっほっほっ!」
してやったりと東原先生はハンドルを叩いている。普段は理性を吹っ飛ばして直情的に行動しかけるくせに、時折こうして知将っぽい事もやってのける。風紀の暗黒面の体現者だけあって、実に深淵にして不可解な人間性を持っているらしい。
香苗は目を白黒とさせ、感心したものかどうか少し迷った
しかし東原先生の奇妙な高笑いは、すぐさま途絶える事になった。
「あのぅ、特別顧問。さっきからスマホが滅茶苦茶ぬーぬー言ってますけど……」
おそるおそる、後部座席にいた香苗がそう指摘した。
ダッシュボードの上に置かれた東原先生のスマホが、カタカタと小刻みに震えている。どう考えても厳島先生からの着信である。
マナーモードですら、憤怒と凶相が伝わって来るのだから不思議なものだ。スマホがビビッて体を震わせている、と言われてもしっくりくる。
東原先生は顔をうつむけたまま、何やらぼそぼそと声を漏らした。
「………は、……ない。…ぶ、ク………スと…………が…い……」
「え?」
「……私は、悪くない。全部、クリスマスと恋人どもが悪い……」
スピードメーターの針よりも遥かに、東原先生は何らかの制限速度を振り切っている。核戦争一歩手前の最後通牒ですら、もうちょっとマシな文句になるはずだ。
そうこうしている内に駅前に近づき、保羽リコが大声を上げた。
「見つけたっ! あれです、あのバス!」
「リコ、二人の姿は!?」
「見える! あのコートに後姿、間違いない! 清太よ」
よしっ、と香苗はガッツポーズした。
駅前でバスを捉えた。香苗が確認すると、保羽リコの言う通り、たしかに森田君とヨロズ先輩の後姿も見える。香苗は東原先生にお願いし、逃がすものかとぴったりと追跡し、2トーンカラーの軽自動車は湖までバスに食らいついた
あとちょっとで届く――
そう保羽リコが思った途端、東原先生の車がのろのろし始めた。
ついには、側道に寄せて止まってしまった。
「と、特別顧問!? どうしたんですか!?」
「……給油するの……忘れてた……」
「香苗、走る!」
「あいよ。特別顧問はここで待機を!」
香苗はそう指示するなり、車外へと飛び出した保羽リコの後を追いかけた。
ここまで来て逃がしてたまるか。
街路灯に照らされて濁る息を吐き出しながら、二人は走った。夜風が鋭く身を切り、雪が降っていないのが不思議に思えるほどだ。
湖手前のバス停から降りた二つの人影が、茂みへと入って行くのが見える。
後姿だが、着ている服で丸わかりだ。ヨロズ先輩と森田君に違いなかろう。
保羽リコと香苗は、ついに二人に追いついた。
「逃走劇はそこまでよ!」
「観念なさい! 清太、そして銀野ヨロズ!」
香苗と保羽リコが現場に踏み込んで呼びかけると、森田君とヨロズ先輩は足を止めた。
そして、振り返った。
「なっ!?」
保羽リコは目を剥いた。
香苗もたじろいぎ、震える指で二人をさした。
「……な、なんで、なんでここに――」
「生瀬がっ!?」
保羽リコが驚愕の声を出した。
振り返った森田君とヨロズ先輩……と思っていた人物は、生瀬さんとその兄だった。服装は森田君とヨロズ先輩が身に付けていたそれと同じものだ。生瀬さんは森田君のコートを、その兄はヨロズ先輩のコートを着てカツラまでかぶっていた。
何時の間にか、すり替わっていたのだ。
香苗は気付いた。
間違いない、変人共の襲撃の時だ。
「そうかっ……あの時の違和感はっ、あの時、銀野会長に感じた違和感はこれか!」
今さらながら香苗はピンときた。
保羽リコが訝しんでいる。
「どういうこと、香苗?」
「最近の銀野会長はずっと薄着で、コートなんて着て居なかった。昼間もそう。なのに、今晩だけロングコートのいで立ちだったのは、このためだったんだ!」
「!?」
保羽リコは愕然とした。
まんまと謀られたのだ。
「生瀬孝也、裏切ったわねっ!」
保羽リコが噛みつくも、生瀬孝也は平然と肩をすくめて見せた。
「裏切ったとは失礼な」
「なんですって!?」
「そういう事は、味方だった者に言うべきセリフだよ。風紀委員長」
寒空の下でも相変わらず、生瀬孝也は涼しい顔だった。
「はい?」
「言ったはずだ。僕は常に、僕の料理をより理解しようとしてくれる者の味方だと」
「……? それは、どういう……?」
保羽リコが首を傾げると、生瀬さんが一歩前に踏み出した。
「森田君たちの邪魔は、させません!」
生瀬さんの強い声が響き、香苗ははっとした。
「……な、生瀬ちゃん? ――っ!? あ、あなた、あなたまさか……?」
感づいた香苗が声を震わせると、生瀬さんは暗くうつむいた。
「ふふっ、うふふふっ……」
生瀬さんは笑った。
それは悲しくて、辛くて、切なくて、苦しくて、かなりヤケクソ気味の笑い方だった。
保羽リコが案ずるように問いかけてしまうほどだ。
「……生瀬? いったい、何をしたの……?」
「…………それほど大した事じゃないですよ……リコ先輩が一週間、兄さんの料理に付き合うというのなら……わたしは二週間っ、毎晩気絶する覚悟を決めなければならなかった――それだけの話ですからっ……!!」
生瀬さんの壮絶な告白に、保羽リコは打ちのめされた。
この結果を生み出したもの。
紛れもなく、それは覚悟の差であったのだ。
「で、でも、生瀬。一体どうやって、生瀬孝也が風紀についたと?」
「森田君です。森田君が言ってくれたんです」
「清太が?」
「風紀委員会は私を狙ってくるかもしれない。もしそうなるとしたら、おそらく刺客として差し向けられるのは兄さんだろう、って。危うく兄さんのケーキに引っかかる所でしたけど、その忠告を思い出して、難を逃れる事が出来ました」
生瀬さんはそう答えた。
「それで、逆に生瀬孝也を抱き込んで変わり身をさせたのね? 生瀬ちゃん」
香苗がそう言うと、生瀬さんは頷いた。
「はい」
「DIY部……そうだったのね……気付くべきだったわ。パシャ子ちゃんが戦線離脱したのも、生瀬ちゃん、あなたの仕業ね……?」
「それは銀野会長の指示です」
「山下君とアイロニング部をワザと捕らえさせて、こちらを油断させたのも?」
「…………」
生瀬さんは肯定とも否定ともつかない沈黙で答えた。
すると、保羽リコが当然の疑問を口にする。
「でも、なら清太たちはどこに?」
「……そうか、水場か……くっ……」
思い至った香苗が頭を抱えながらそう言った。
「リコ、目的は水場だったのよ!」
「水場? 清太たちの狙いは池か湖じゃ?」
「そう思い込まされていたの。銀野会長たちが池や湖を執拗にチェックしていたから、私らは二人の狙いが、その何れかだと何時の間にか思い込んでいた。学校で入れ替わったという事は、二人の狙いはおそらく初めから――」
「……プール?」
保羽リコの言葉を確かめる様に、香苗はスマホを耳に当てた。
「もしもし、厳島先生ですか? 風紀の小林です。はい、すいません。すぐに東原先生を連れて戻ります。本当にごめんなさい。あとで説教は存分に……はい、はい、車で警察署に拾いにいきます。あの、それでお聞きしたいんですが、今日、銀野会長から学校のプールの使用許可を求められませんでしたか? ……はい……そうですか」
香苗の応答を耳にして、保羽リコはその顔を覗き込んだ。
「香苗、確定?」
「うん」
「……ふぅ……」
「許可申請のチェックを怠るなんて。まんまと出し抜かれたわ……」
保羽リコと香苗は来た道を急いで戻り、路肩の軽自動車へと走り寄った。
「東原先生、学校に至急戻りたいんですが!」
「……ガソリンが……ない……」
「香苗、近場のガソリンスタンドは!?」
「近場にあるけど、学校まで大回りになるわね」
スマホを見ながら香苗がそう言うと、保羽リコはしゃがみこんだ。バスがやってくるまでまだ時間がある。ここら辺は車通りもあまりない。
「……ぐぅっ。してやられた……」
保羽リコの悔しさに塗れたつぶやきは、夜空に虚しく溶けてゆくだけ。
もはや保羽リコたちに打つ手はなかった。
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保羽リコたちの後姿を見送り、生瀬さんはほっと胸をなでおろした。
こうして湖の畔まで、自分たち兄妹を保羽リコたちが追いかけてきたのだ。変装はかなり上手くいったらしい。
ここから学校までの距離的にも、森田君は大丈夫だろう。
今頃は、学校のプールでヨロズ先輩と二人きりのはずだ。
生瀬さんがスマホで連絡を取った限り、山下やアイロニング部とも連絡がついた。厳島先生にはほったらかしにされてしまったが、なんとか自力でロープを解いたらしい。
森田君にこの計画を聞かされた時は、上手くいくのか分からなかった。
時間もなく、生瀬さんはかなりドタバタしてしまった。
正直、変装にも生瀬さんは自信がなかった。
後姿だけではあったが、香苗の目を誤魔化せるのか、ずっと不安だった。
だがそれでも、成功だ。
生瀬さんは生瀬孝也へと、ぐっと親指を立てて見せた。
「山下くんたち、なんとか逃げ出せたみたい」
「そうかい。まあ、こうなった以上、後日風紀の取り調べにあうだろうけど、あの二人なら心配ないよ。なにせ、百戦錬磨の兵どもだからね」
「だといいんだけど……。森田君、ちゃんと出来てるかな……」
夜空を見上げながらぽつりとそう言った生瀬さんを、生瀬孝也は見遣った。
「ねぇ、エリ。本当にこれで良かったの?」
「……なんのこと? 兄さん」
心底不思議そうに首を傾げる生瀬さんに、生瀬孝也は首を横に振った。
「いや、別に。思い当たることがないんなら、良いんだよ」
「なにそれ、兄さん、へんなの」
生瀬さんはそう言って怪訝な顔をしていた。
(……エリは少し、鈍感なところがあるからなぁ)
生瀬孝也は思案した。
いつもの生瀬さんならば、風紀委員会とは敵対しないように立ち回ったはずだ。
森田君にはある程度力は貸していたのだから、バランス感覚のある生瀬さんなら、むしろ風紀の側に協力していても不思議ではない。どんな時でもなるべく公平中立を保とうとし、常に他者を尊重するのが生瀬さんの素晴らしい長所だ。
それなのに、片方の側にこれほど強く肩入れするなんて。
肩入れしたくなる人が出来たなんて…………
(その意味を、この子は少しくらい、分かっているのかな?)
「あ、兄さん、雪だよ。うわー、結構降ってきたね。積もるかな?」
無邪気に夜空を見上げる生瀬さんは、手で雪を受けて微笑んでいた。外灯を浴びて暖色を灯された細雪が、心を覆う殻のように彼女を包んでいく。
「月が見えてるのに、雪が降ってる。すっごいロマンチックだなぁ」
見た目はほのかに温かく、けれど肌触りは冷たくて。
(……はっきりと分かる時が来てしまったら……この子は、どうするのだろう……?)
体についた雪を払い落しながら、生瀬孝也は白く長い息を吐いた。
これで案外、なかなかのお兄ちゃんだった。
(――ま、今は、明日からのディナーメニューを考えよう。正月三が日は、腕によりをかけてあげないとね、ふふふふふっ……)
んでもって、どこまで行っても生瀬孝也は生瀬孝也だった。
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