第20話




     21



 日戸梅高校のプールは最大二メートルほどの深さだ。


 ヨロズ先輩の身長があれば、特別にこしらえたシュノーケルで呼吸は可能なはずだ。森田君が寒中水泳で試してみた時は、なんとかなった。


 むしろプールは水の流れが無い分、やりやすい。


 何かあれば森田君が飛び込んで引き上げなければならない。ヨロズ先輩同様、水着はもちろん、森田君はラッシュガードやパーカーも着用していた。


 森田君は水泳がさほど得意ではない。

 小さい頃におぼれかけた経験があるほどだ。だが、プールに飛び込んで人一人を引き上げるのは、道具さえ揃えておけば何とかなる。


 海底人探求部の部長さんの言葉を、森田君は頭の中で一つ一つ確認していく。


 セメントや土砂、砂利、練り箱やシャベルなど、道具一式もそろえてある。水の分量や、各種の配合、小分けにして徐々に混ぜ合わせていくことなども、予習済みだ。


 ここは屋外プール。

 要注意であるのは、水温だった。


 森田君はヨロズ先輩と話し合って、危険な事柄に関しては確認済みだ。ヨロズ先輩が一度水にはいれば、たとえヨロズ先輩が続行を希望しても、森田君の判断が優先されるという取り決めも行った。低体温症になれば判断力が鈍るからだ。


 空気が澄んでいるのか、月明かりが強い。

 あるいは外灯のおかげか、持ってきた照明は必要ないほどだった。


 道具と工程の確認は澄んだ。森田君の脳内で手順は強くイメージ出来ている。不測の事態とその対処も、ヨロズ先輩と共に考えつくだけ考えた。


(……よし!)


 と森田君は深く息を吐いて覚悟を決めた。

 この雰囲気から何をどうしようがロマンチックな事にはならない。


 寒空の下、イルミネーションに輝く街をヨロズ先輩と並んで歩けたら、人ごみに押されて二人の肩が触れ合ってしまったなら、あわよくば離れ離れにならないようにとかテキトーな理由をつけて手を繋げたりなんかしたら、さらにさらに欲を言えば、良い感じになってチューなんて展開になったならばっ……


 と、森田君とて考えていなかったと言えばウソになる。

 しかしヨロズ先輩の要望は、クリスマスにコンクリートをこねる事なのだ。


 好きな人のために出来る限りの事をしたい。

 それは森田君の本心だ。


 ヨロズ先輩と付き合うまでに様々な人々に迷惑をかけ、傷つけ、自らの名誉とか評判とか色々なモノを損ねてきたのだ。そこまでして好きである事を自覚してきた以上、ヨロズ先輩のお願いは最大限聞いてあげたい。


 とはいえ健全なる思春期の男の子として、多少なりとも恋人らしい事もしたい。


 好きな人と手を繋いで街中を歩いて、おしゃべりしたり買い物したり美味しい晩御飯を食べたり、意味もなく見つめ合ったり……チューだってしたい。


 けれど、悲しきかな。


 それをヨロズ先輩は求めていない。求めていたら、よりにもよってクリスマス・イヴのこの日に、嬉々としてセメントと砂を混ぜ合わせ、スコップで砂利をせっせと入れているワケがないのだから。これほど生き生きとしているヨロズ先輩に、森田君が嬉しくないなどと言えば、ヨロズ先輩は気落ちしてしまうだろう。


(それは嫌だっ……!!)


 森田君はそう思った。

 すごく楽しそうなヨロズ先輩にそんな顔をさせるなんて、耐えられない。


 チューならんと欲すれば好ならず、好ならんと欲すればチューならず。


 森田君の進退はここに窮まっていた。


(……いや、むしろこう考えるべきじゃないか?)


 森田君は活路を見出した。


 クリスマスの歴史が古いように、コンクリートの歴史も負けていない。古代ローマまでさかのぼれる。イエス・キリストより歴史があるのだ。


 世俗に汚れきった現代日本のクリスマスにうつつを抜かすより、こうして寒空の下でコンクリートをこねる行為の方が、はるかに神聖かつ歴史への敬意に溢れた事ではないだろうか? 人の歴史は建築と共にあると言っても過言ではなく、コンクリートをこねる行為は人類の栄光をなぞる行為に等しいのではないだろうか?


 文明への挽歌。

 知性への追憶。

 大地への礼賛。


 いわば原点回帰、温故知新、五体投地である。


 商業主義の生贄と成り果てたクリスマスより、はるかに祝われる価値がある。むしろ本日はコンクリート・イブに改名すべきだ。


 森田君は真剣にそう思った。

 寒風と切なさで、だいぶ頭をやられているようだった。


 そんな森田君の苦悩など露ほども知らず、ヨロズ先輩はコンクリートをこねる手を止めて、額についた汗と粉を腕で拭っている。恐ろしく寒い屋外プールの作業でも、しっかり防寒着を着ているからだろう、ヨロズ先輩は労働に身体を火照らせているようだった。


「……ふぅ。練り終わったわ、森田君。こんな感じでどう?」


 ヨロズ先輩に出来栄えを問われ、森田君は頷いた。


「はい。十分だと思います」


 額の汗を拭くヨロズ先輩にタオルを渡しつつ、森田君は頷いた。


「では、先輩。それはもう使わないので、これをどうぞ」


 そう言って森田君は秘密道具を取り出し、ごとりと鈍い音を立てた。


 速乾セメントを用いても、そこそこ堅くなるだけで三十分はかかる。

 そこで出番なのが、履けるコンクリート。


 コンクリートで足を固めて沈みたいけれど時間が無い、そんな人に最適のアイテムだ。


 コンクリートはすぐに固まってはくれないので、あらかじめヨロズ先輩の足型に固めておいたコンクリートの塊を、森田君は用意しておいたのだ。


 時短は大切だ。


 雰囲気と現実の兼ね合い。

 つまりは三分間クッキングの要領である。


(お次は水温だ)


 プールに入れておいた温度計を森田君は確認した。


 目盛りを読もうとして、森田君は一度自分の目を擦った。温度計の赤い線が、壊れているんじゃないかと疑いたくなるほど短くなっている。


 森田君は戸惑いがちにヨロズ先輩の目を見た。


「……あのぅ、先輩」

「なにかしら?」

「水温がとんでもない事になってますけど、本当にいけますか?」


 森田君が確認すると、ヨロズ先輩は力強く頷いた。


「大丈夫よ、森田君。この日のために、朝は行水、お風呂上りは冷水を浴びて身体を鍛えてきているから。外出時も防寒着は着ないで、薄手の服で過ごしてきたのよ」


 ヨロズ先輩は冷静な声音でそう語った。


(そういえば……)


 と森田君は思い返した。


 最近のヨロズ先輩は、コートはおろか防寒具一つ付けていなかった。湖や池の下見に行った時も、ヨロズ先輩はミニスカートで足を露出させていた。


 あれは、この時のための訓練だったのか…………


 頭のネジが外れているかと思いきや、やはりヨロズ先輩は頭脳明晰だ。これほど非合理的かつ意味不明な行為に対して、合理的に備えていたとは。


「手先や足先、体幹さえ冷やさなければ、寒さに耐性がつくようね。むしろ最近、なんだか体の調子が良くなってきた気さえしているわ」


 ストレッチを終えたヨロズ先輩はなぜだか、ちょっと得意げだった。ヨロズ先輩はプールサイドに立ち、水面の様子をじっと眺めている。


 ヨロズ先輩がそう言う以上、森田君としては頷くより他はない。


「そ、そうですか。じゃあ、大丈夫そうで――」

「みひゃっ!?」

「先輩!?」

「…………」


 変な声が聞こえたかと思うと、ヨロズ先輩が顔を強張らせて水面を凝視している。足先をちょいとつけて体感温度を確かめたらしく、ヨロズ先輩は固まっていた。


 クリスマスの夜、気温は下がりに下がっている。

 当然、水温も。


「五度以下ですからね、先輩……」


 森田君は恐る恐る注意した。


 森田君が寒中水泳をやらかした時とは、比べ物にならないほど冷えている。ちなみに人間の生き死に直結するサバイバル術の基本その一は、体温を下げない事である。


 森田君はヨロズ先輩に聞かずにはいられない。


「ど、どうします、先輩? 無理しない方が良いですよ」

「大丈夫、この程度の冷たさ。ロシア人なんて凍った湖に穴を空けてプール開きをしているくらいだもの。つまり水が液体なら人は泳げるという事よ」

「ロシア人と日本人は身体の作りが違うと思いますけど……」

「冷静に考えてみて、森田君。弱小の国力で日露戦争を講和まで持って行けたのよ、日本は。ロシア人に出来ることが日本人に出来ないはずがないわ」

「…………」


 森田君もそろそろ気付き始めてきたのだが、ヨロズ先輩は馬鹿である。妙に初志貫徹というか、頭の良さを台無しにするほど意地っ張りなところがある。


 そうこうしていると、白いものがちらつきはじめた。

 雪だ。


 聖夜に雪が降って来た。

 気温が下がり始めているからか。


 森田君は急ぐべきだと感じた。


「水に入ってから五分……いえ、水温が水温なので三分以内にします、先輩。それでひとまず様子を見ましょう。まずは三分以内に一度上がってもらいます。納得がいかなくて、もう一度と先輩が言っても、その時の状態を見てボクが判断しますから」

「ええ、わかっているわ」


 そう言いながらヨロズ先輩はプールの水を体にかけて、冷水に身体を慣らしていた。


 寒そうだ。

 見ているだけで森田君は背筋が震えてしまう。


 森田君の経験上、十度以下の水中に五分以上居るとまずい。


「さあ、森田君。突き落として」


 ヨロズ先輩はプールの淵に立ち、髪をまとめて森田君に背中を向けていた。

 均整のとれた肢体からのぞく、艶やかなうなじ。


 今月一番の冷え込みをみせる寒空の下、長いシュノーケルを持ち、コンクリートを履いていなければ、女神のような美しさに見とれてしまっていた事だろう。


「ではいきます」


 森田君は意を決して、どんっとヨロズ先輩を突き飛ばした。


 寒池や、先輩飛び込む、水の音。


 ふと森田君の脳裏に句がよぎった。松尾芭蕉も草葉の陰で首を傾げているだろう。

 シュノーケルが水面から飛び出ているのを確認し、森田君はタイマーを見た。


 ヨロズ先輩は辛抱しているようだ。水中で細かく手脚を動かしている。身体を動かして熱を発生させないと不味いと、体が自然とそう動くのだ。その我慢強さに森田君は感心すると同時に、自分がしっかりしないと危険だとも思った。


 時間が迫り、森田君はロープをくんくんと引く。コンクリートの回収用につけておいたロープだ。それは、水中の先輩に時間が来た、と伝える合図だった。


 ヨロズ先輩はすぐにプールサイドへと上がった。体の水分を手で払っているヨロズ先輩の身体から、湯気のようなものが立ち上っている。

 見ている森田君の方が凍えそうだった。


「先輩、これで身体を拭いてください」


 森田君はバスタオルを渡して、履けるコンクリートを引き上げた。

 するとヨロズ先輩が身体を拭きながら、森田君を見つめてくる


「少し納得がいかなかったわ。もう一度お願い」

「体に異常はありませんか?」

「ええ、まったく。肌がぴりぴりして、なんだか気持ちよくなってきたかも。異常どころか、むしろ日本民族の底力を感じ始めているわ」


 ヨロズ先輩はそう答えた。

 かなり寒そうだが、受け答えはしっかりしている。


 むしろヨロズ先輩には珍しいほど、テンションがいつになく高い。


 やっていること自体がすでに正気の沙汰ではないような気もするが、ヨロズ先輩はまだ大丈夫そうだ。いつも通りの頭のおかしさだ。


 これなら問題ない。森田君はそう思った。


 ヨロズ先輩は履けるコンクリートに足を通している。

 そして再びプールサイドに立ったヨロズ先輩の背中を、森田君は突き飛ばした。


 ドンっといって、ザブンっとなって、ブクブクとなって、シーンとなる。そして水面から突き出たシュノーケルから、ほんのわずかな呼吸音。


 ちらつく綺麗な雪。

 雲一つない美しい夜空。

 恋人同士のクリスマス・イヴ。


 だというのに、あまりに絵面がシュールすぎる。


 いったい何をやっているんだろうかと森田君は冷静になりかけて、自分の頬を軽くビンタした。正気に戻らないためのビンタだった。


 今度はさっきよりも早く、ヨロズ先輩の方から自発的に上がって来た。

 これはまずそうだと、森田君は打診する。


「先輩、もうこれ以上は止めておきましょう」

「すっ、すすそっ、そうね……ふ、ふふっ、冬の水は、だめ……」


 ヨロズ先輩がまともな事を言っている。


(これは問題ありだ)


 森田君はそう見て取った。


 ヨロズ先輩の歯がガチガチと鳴っている。

 身体は震えているので、まだ軽度だろう。


 森田君は急いでヨロズ先輩の身体を拭いた。


「……ろっ……ろ、ろろろっ、ロシア人……しゅっ、しゅしゅっ、しゅごい……む、むむっ、むかっ……昔の日本……すすっ、すごい…………」


 遅ればせながらヨロズ先輩は気付いたようだった。


 更衣室のヒーターを総動員し、毛布でくるんで温かい飲み物をヨロズ先輩にのませつつ、凍えたヨロズ先輩に森田君はぴったりとくっついて抱きしめる事になり………

 そんな状態のヨロズ先輩を抱きしめた所で、不安と心配以外の感情が出て来るはずもなく、なんかいい感じになんて絶対になりようが無い訳で。


 月の見える夜空から雪が降ってくるという、神秘的なシチュエーションであるにも関わらず、ロマンチックとはかけ離れたクリスマス・イヴとなってしまった。


 ヨロズ先輩が落ち着くまで、森田君はそうしていた。


 森田君が後片付けをして家まで送ると、ヨロズ先輩はとても眠たそうにしていた。森田君も寒中水泳をやった時に感じたのだが、身体の震えがマシになってくると眠くなるのだ。おそらく身体が発熱しようとして相当無理をするらしく、極端な疲労状態になるのだろう。


 主要な臓器を守るために身体が頭への血流を減らし、その結果、頭の働きが鈍くなってそれを眠気と錯覚する、という事でもあるのかもしれない。


「今日はありがとう、森田君。つぎは、高層ビルから突き飛ばして欲しい……」


 別れ際にとんでもないお願いをされたが、森田君はもう慣れてしまっていた。

 これが森田君の、恋人と初めて過ごしたクリスマス・イヴだった。




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