第14話
生瀬さんと山下の協力の元、休日の昼間、近くの川で試す事になった。水深一メートルほどの穏やかな流れだ。
少し下流に行けば、夏場は絶好の水遊びの場になる所がある。
冬にしては比較的、陽気の良い日だった。
最終確認のつもりで、森田君は生瀬さんを見た。
「生瀬さん。ボクが川に入ったら、時間を計っておいてもらえるかな」
「うん。話し合った通り、森田君の様子がおかしいって私が判断したら、中止だよね。もしもの時は、山下くんに飛び込んで助けてもらう、だよね?」
「うむ、その通りだ、委員長」
そう言って頷く山下へと、森田君は頭を下げた。
「お願い、山下、生瀬さん。それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい。無理はしないでね、森田君」
生瀬さんの声に背中を押され、森田君はよしっと気合いを入れた。
カイロや毛布、バスタオルやヒートテック。シュノーケル、ゴーグルを確認し、服を脱いで水着姿になり、森田君はサンダルに履き替えた。
ラッシュガード一枚。
冬の風が肌を撫でるたびに、ぶるっと震える。
けれど、そんなのは序の口だ。
川に入ると、森田君にはそれがよく分かった。
鋭い牙で噛み付かれているのかと思う程、川の水は冷たかった。片足をつけるだけで引き返したくなったが、森田君は意を決して深みへと進んだ。入った瞬間は皮膚が痛いほどの冷たさだったが、人間の身体というものは不思議なもので、すぐに慣れてしまった。
冷たい川底は澄んでいた。
魚の姿もちらほら見える。
水深が少し深くなるだけで、伸長したシュノーケルが役に立たなくなった。
あの部長さんの言ったとおりだ。水圧とはこうもすごいものなのか。実際ヨロズ先輩に沈んでもらう時は、水深を良く調べて置かないとまずいだろう。
真冬の川に沈みながら、森田君はそう考えた。
五分ほどで体が強張って来たので、一度岸から上がって体を拭いた。生瀬さんが手早い手つきで手伝ってくれたので、森田君の身体はすぐに乾いた。
すると体がガタガタと震え出した。
(でも、まだ大丈夫だ……)
海底人研究部の部長さんが言うには、身体が震えている内は問題ない。森田君はその言葉を信じて、生瀬さんへと話しかけた。
「も、もう一度入って来るね、生瀬さん」
「う、うん……」
あんぐりと口を開ける生瀬さんをよそに、森田君はラッシュガードを脱ぎ、再びシュノーケルを持って川の中へとざぶざぶと入って行く。環境に対する闘志が湧いてきたのか、体の震えすらなんだか心地が良いような、不思議な感じを森田君は覚えた。
そんな森田君を川辺で見ていた生瀬さんは、森田君の服を綺麗に畳みながら言った。
「森田君って……その、すごいよね、色々と……」
「なんだかんだで、森田は男なのだ」
深く染み入るように山下はそう言った。
男と言うのは、一見しただけでは馬鹿にしか見えない事が往々にしてあり、何度見ようが結局は馬鹿でしかない事もまた、往々にしてある生き物なのかもしれない。
生瀬さんは感心するような溜息を出した。
「そうだよね……森田君、男の子っぽいところ、結構あるんだよね」
「あれを見ていると、自分がとても小さく感じる」
寒中潜水に精を出すクラスメイトを見ながら、二人はそう呟いた。
そんな時だった。
「キミたち、そこで何をしているんだい?」
背後からそう呼びかけられ、生瀬さんと山下は振り向いた。そこには二十代の男性が一人、笑みを浮かべて立っていた。
見慣れた制服は、警察屋さんのものだった。
近隣住民や通行人に通報でもされてしまったのか、あるいはパトロール中に目にとまったのか。堤防の上にはパトカーが見えた。
山下が生瀬さんに目配せし、自分のコートに手を掛けている。「必要なら、いつでも警察の目は引けるぞ」というアイコンタクトだった。
生瀬さんは慌てて身振り手振りで山下を制した。別に法に反する事をしているわけではないのだから、堂々として居ればよいのだ。
警察屋さんは、そんな生瀬さんと山下へと歩み寄ってくる。
「泳いでいる子が見えたんだけど? どうしたの?」
「その、寒中水泳がしたくなったらしくて。その付き添いで」
「寒中水泳? 気骨のある子なんだねぇ」
「はい。意志がかなり強くて。そういう所が彼の良さなんですけど……」
生瀬さんの答えに気持ちがこもると、警察屋さんは笑みを深くした。
「もしかして、彼女さん?」
「へ? い、いや、そんな、まさか、ち、違いますよっ。友達です」
「そうなの? いやぁ、青春だ――」
警察屋さんの声が途切れた。
ざばぁっと音がして、沈んでいた森田君が川底から勢いよく起き上がったのだ。そろそろ寒さの限界らしく、足早に岸へと上がろうとしている。
警察屋さんが驚いて、そんな森田君を見ていた。
「……せ、清太くん?」
「と、ととっ、利守さん?」
警察屋さんは森田君の知り合いだった。
何を隠そう、保羽リコのお兄さんなのだ。森田君がヨロズ先輩をトランクケースに詰め、山道を運んでいる時に出会って以来、久しぶりだった。
「ど、どど、どうして、こっ、ここっ、ここに……?」
森田君は寒さで上手くしゃべれなくなっているらしく、途切れ途切れそう言った。
そんな森田君の様子を気遣ってか、警察屋さんは困惑していた。
「いやその、清太くん、大丈夫? とにかく体を拭いて、服を着ようか」
友人二人と警察屋さんに介抱され、森田君は素早く体を拭いて服を着た。
警察屋さんがパトカーから温かい飲み物を持ってきてくれて、森田君は非常に助かった。しばらく歯をガチガチ鳴らしていると、なめらかに喋る事は出来ようになった。
森田君は警察屋さんへと頭を下げた。
「……あの、利守さん。お手数をお掛けしました」
「いやいや、いいんだよ。でも無茶はほどほどにね」
「はい。あの、用事は澄んだので、僕たちはこれで」
「うん、お大事に。……あ、ちょっと待ってくれるかな、茶色のコートのキミ」
警察屋さんは山下だけを呼び止めた。
「……なにか?」
「キミとは少しお話しさせてもらいたいんだけど、いいかい?」
「嫌だと言ったら?」
「少し困ってしまうね。けれど、キミは言わないだろう? 嫌だ、なんて」
警察屋さんはいつも通りの微笑み顔だ。しかし眼光には鋭さを帯びている。保羽リコの兄ではあるが、頭の切れの良さは香苗以上の人なのだ。
「キミの目はそういう目だ。この仕事をしていると、わかるんだ」
「……話とは?」
そう言うなり、山下は警察屋さんと向かい合った。
そこで森田君は気付いた。山下は全身をすっぽりと隠せるロングコートを着ている。そのコート下部から僅かに見えるくるぶしの辺りが、肌色だったのだ。
おそらく素足だ。
真冬に靴下もズボンも履いていない。
これを見逃す警察屋さんではない。
森田君はそう思い、山下へと小声で問いかけた。
「山下、もしかして……いつも通りなの?」
「同志が寒中水泳をやろうというのだ。一人だけぬくぬくなどしておれんよ」
山下は精悍な声でそう答えたが、森田君としてはたまったものではない。
(間違いない、山下、コートの下は真っ裸だ……)
森田君たちの小声のやり取りと、警察屋さんの攻勢はほぼ同時だった。
「コートに膨らみが全然見受けられないけど、どうしてかな? 冬に相応しい格好をしていれば、そこまでこう、輪郭がスリムにはならないと思うんだけれど……」
「薄着なんです。代謝が良いもので」
「へぇ、うらやましいね。子供は風の子、かぁ。冷え性に困っている同僚に教えてあげたいくらいだ。どんな秘訣が? やっぱり運動とかを?」
「まぁ、それなりには」
「どんな部活に?」
「体を鍛えたいと思うのに、部活は関係ないのでは?」
「そうだね。身体を鍛えるのは大切だ。この仕事をやっていると痛感するよ。身体が資本だからね、追う側でも、追われる側でも」
警察屋さんは朗らかな顔つきを崩さず、しかし言葉の端々に独特の鋭さがあった。
「ところで、さっきからずっと気になっていたんだけど……キミのくるぶしの辺りから肌色が見ているのは、どうしてかな?」
「靴下は履かない主義で」
「ズボンも?」
「冬場でも短パンが基本スタイルなもので」
「気合が入っているねぇ。寒くないの?」
「人間、慣れが肝心ですから」
「へぇ、この寒さに慣れてしまうくらい、いつもその恰好をしてきたんだね」
「ええ、まあ」
「もしかして、代謝が良くなったのは、それが理由なのかな?」
「かもしれません」
「つまり、体を鍛えたその結果として代謝が上がり薄着になったのではく、薄着になって体が鍛えられた側面が強い、という訳だ? ……ん? あれあれ? だとすると、先ほどの発言と矛盾してしまわないかな? キミは代謝が良いから、薄着のはずではなかったかな? いったい、どういう思惑で冬に薄着を?」
「そういう健康法があると聞いていたもので」
「その年で健康に目覚めるなんて、ずいぶん早熟だね」
「先の見通しを立てるのが得意で。不健康は十年後に響きますから」
「素晴らしいなぁ。学生時分に聞きたかったよ、その言葉」
警察屋さんの攻勢に一歩もひるまず、山下は滑らかに答えている。言葉の隅々にある鋭い一撃を、のらりくらりと巧みに捌き切っていた。
(すごい……)
森田君は素直に感心したが、警察屋さんは追及の手を止めなかった。
「けどね、薄着でも体幹は冷やしちゃだめだよ。身体を壊すから」
「ええ、気を付けています」
「ほんとに? 心配だなぁ。ちゃんと体幹を守れているか、見てあげるよ」
「……それは……」
「ダメなの? どうして? コート一枚、脱ぐだけだよ? それとも――」
警察屋さんの口調ががらりと変わった。
森田君は知っている。
あの声をあびせられると、蛇に睨まれた蛙となってしまうのだ。
「――コート一枚すら、脱げない理由でもあるのかな?」
チェックメイト。
警察屋さんは山下より一枚上手だった。
「……さむ――」
「寒いからコートは脱げない、なんて事はないよね。君は代謝が良くて薄着をしているんだから。ほんの少しコートを脱ぐくらい、なんでもないはずだ」
警察屋さんの鮮やかかつ、迫力のある弁舌は有無を言わせない。
山下は逃げ道を塞がれてしまっていた。
「……わかりました。では、見てもらいましょう!」
山下はそう言うなり、自身のコートに手を掛けた。森田君が制止するまもない。ばっとはぎ取り、コートの中身を白昼へとさらけ出した。
生瀬さんが思わず「きゃっ」と悲鳴を上げ、警察屋さんが怯むほどの早業だった。
「こ、これは――!!」
警察屋さんが驚愕している。
もうだめだ、と森田君は目をつむった。
だが、続く警察屋さんの言葉は、森田君の予想とは少し違った。
「短パン……姿だね、たしかに。キミの言った通り」
警察屋さんの発言を受けて、森田君は目を開けて山下の姿を見た。
コートを脱ぎ棄ててなお、山下は……なんと穿いていたのだ。
短パンを。
短パンだけを。コートの下に。
警察屋さんは気を取り直したのか、山下を鋭く見た。
「けれど……体幹をちっとも守れていないじゃないか……」
「先ほども言った通り、気を付けているだけです。コートがあれば余裕なので」
上半身は裸だったが、そんな事は山下が山下である以上些細な問題だった。
森田君は強く恥じた。
寒中水泳という名目でやったこんな馬鹿な真似に、二つ返事でついて来てくれた友に対し、『こいつ全裸コートの変態だ』などと偏見を持ってしまっていた自分を。
警察屋さんは、しかしなおも山下へと食らいついた。
「……ところで、なぜキミは、上半身が裸なのかな?」
「それはもちろん、森田に何かあった時すぐ川に入れるように、ですよ」
「その、ボクが頼んだんです」
森田君はすかさず援護に入った。
「ボクが彼に――山下に付き添いを。一人では不安だったので」
森田君のその援護が聞いたのか、警察屋さんは警戒を緩めた。
「そ、そうなの。友達想いなんだねぇ、キミ。……ほんとうに、ごめんね。なんか疑っちゃって。こういうお仕事してるからかなぁ。いけないクセになってしまっているよ」
「いえいえ。畳みかけるような、最高の攻めでした」
山下は鼻を膨らませてそう言った。森田君と生瀬さんは気が気ではなかったが、山下はこのシチュエーションをかなり楽しんで居たようだった。
さすがの警察屋さんもたじろいだらしく、大人しく引き返してくれた。去っていく警察屋さんの背中にほっとしながら、森田君は山下に話しかけた。
「山下、びっくりしたよ。てっきり穿いてないんじゃないかと……」
「森田、それは愚問だ」
「そうだね、ごめん。ボクが馬鹿だったよ」
「俺は瞬く間に服を脱げる男だ。つまりそれは、一瞬で穿ける男でもあるという事……ふふっ、二人とも、そんな目で見ないでくれ。照れてしまう」
照れくさそうにそう言う山下に、森田君は唖然とした。
生瀬さんですら、ぽかんとしている。
「……や、山下くん……」
しょっぴかれようが、友達からドン引きされようが、事態がどれほど悪く転んだとしても負けが無い。常に勝利が約束されたドM、それが山下だった。
こうして森田君はヨロズ先輩を湖に沈めるべく、準備を着々と重ねていった。
だが、当初予定していたよりも、かなり時間がかかってしまっている。森田君は決行するならクリスマス・イヴの後かなと、そう思い始めていた。
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