第13話





     12



 コンクリートの次は水中をどうするか、だ。


 森田君は色々と聞いて回り、潜水に詳しい人を探し当てた。

 定期的に伊豆や紀伊半島でスクーバダイビングなども行っているらしい。森田君は、その人が所属する部活にやってきていた。


 海底人探求部。

 穴掘り同好会やDIY部が可愛く思えるほど、名前がもうすでにアレである。


 独特のにおいが漂っている。小さな部室の前に立つだけで、まだ何も起きていないのにも関わらず、森田君はそこはかとない後悔を覚えた。


 元々は底人探求部として発足したらしい。地底人を捜し求める二年生と、海底人を捜し求める一年生が、未知なるフロンティアへの情熱に意気投合し、ノリと勢いで作った部活らしく、活動するフィールドが違いすぎる事にすぐ気付いて袂を分かった。

 という経緯を持つらしいのだが、非常にどうでもいい。


 ええぃひるむなっ、と森田君は意を決して踏み込んだ。


「失礼します」


 森田君はノックと断りを入れ、部屋へと入り室内を見回した。

 部室の中は予想以上に平凡だった。


 ひしめくオカルト関係の書籍やら、SF映画関係のスケールモデルといった、あると予想したものがない。とてもこざっぱりしていて、ダイビング関係の書籍がちらほら見受けられる他は、私物らしきノートPC一台だけ。何の変哲もない。


「やあ、いらっしゃい」


 そう気さくに声をかけてきてくれた、部長さんらしき人の見た目も平凡だ。


 特殊な被り物をしているだとか、ボイスチェンジャー越しでしか喋らないだとか、一切ない。百歩譲ってそれほど分かりやすく無くても、海底人との遭遇に備えて指の間に水かき、耳の後ろにエラの特殊メイクくらいはしているだろう、と森田君は考えていた。


「あの、先ほど連絡した、一年の森田です」

「ああ、森田君ね。生徒会で書記をやってる子だよね?」

「はい」

「聞きたい事がある、だったっけ?」


 部長さんはあくまで普通で、朗らかな様子だった。

 森田君は自己紹介を交わしつつ観察するが、部長さんは平凡そのものだ。


 拍子抜けではある。

 森田君は油断しなかった。むしろ、より警戒を強めた。日戸梅高校の生徒会に入り、特定の人種をそれなり見て来た森田君は、そんな単純ではなかった。


「今度その、寒い時期に、水の中に潜る事になりまして」


 単刀直入に森田君はそう切り出した。


 下手にのろのろしていると、相手のペースに巻き込まれて、取り返しのつかない事になってしまうかもしれないと思ったのだ。DIY部の時は、危うくそうなりかけた。


「スクーバで?」


 部長さんに聞き返され、森田君は首を横に振った。


「いいえ。使うとしても、シュノーケルとかになるかと」

「じゃあ、浅い所だね? 岸近くの」

「はい。それで、寒い所で潜る時は、どんな事に注意すべきかな、と」

「そうだね。冬のダイビングだと、ドライスーツを着てインナーを工夫したり、カイロ使ったり、身体がポカポカするものを食べたり、とかかな」

「あの、ドライスーツとかは使わなくて、たぶん寒中水泳っぽい感じになるかと」

「寒中水泳? 年始にやる、あの?」

「はい、あんな感じになるかと」


 森田君がそう言うと、部長さんは難しそうな顔をした。


「うーん。それでも……水中では驚くほど急速に体温を奪われるから、何か着ていた方がいいだろうね。ドライスーツが無理なら、ラッシュガードとか、身体の自由が極力奪われないようなものを。素肌で居るよりはずっとマシなはずだよ」

「水中だと、そんなにすぐ冷えるんですか?」


 森田君が尋ねると、部長さんは力強く頷いた。


「気温の比じゃないよ、水温のすごさは。気温に比べて二十倍以上の速さで体から熱を奪っていくんだよ。これは温度が高い場合の話しだけど、例えば、サウナみたいに水分が少ない所では百度でも人間は耐えられるだろう? でも同じ温度の湯船に触れたら、人間は無事じゃすまない。同じことが低い温度でも言えるんだ」

「なるほど。そう言われると納得です」


 森田君はぽんっと手を叩くと、部長さんは真剣な目をした。


「冬の水場の危険性は、夏の比じゃない。……水の中では、あまり身体を動かさないようにすることだね。動くと体温を奪われるから。陸に上がれば、とにかく体の水分を拭きとって暖を取る。低体温症になると危険だから」

「ですね」

「低体温症は身体が震えている内は軽度で何とかなるけど、震えが止まって受け答えの反応が鈍くなってきたら不味い、って覚えておいてね。判断力も衰えて来るから、安全なところに第三者に居てもらい、その人の判断に従うことも大切だ」

「はい」

「水中から上がれば、頭や首を帽子やマフラーで保温すること。あと、脇の下とかね。すごく体から熱が抜けやすい部分なんだ、そこは。それと、温かい飲み物を用意しておくのは絶対だ。ああでも、これは軽度の場合だよ。重度になれば、大人しく救急車を呼んでね。冷えているからといって、下手に手足をマッサージしたりすると、死亡事故につながってしまうほど逆効果だったりするからね」


 部長さんはすらすらと、丁寧にそう教えてくれた。

 頷きながら、森田君はメモ帳にすらすらと書き込んでいく。水の中でも何か着る事、水中に長く居ない事、水から上がれば乾かす事、暖を取って保温する事。


 思わぬところで書記の経験が生きる。

 そんな森田君の懸命さに、部長さんは嬉しそうに言葉を続けた。


「森田君、水温をしっかり把握する事が大切だ。水温が十度近くなら一時間。でもそれ以下なら、三十分。五度以下なら十五分ほどで意識が無くなるからね」

「低体温症になるんですね? 重度の」

「その通り。以前、水温五度の水に海パン一丁で飛び込んだ人から話を聞いたことがあるんだけど、五分くらいで体がガチガチに堅くなるらしい」

「五分で……」


 森田君は驚いたが、すぐにそれもそうかと、思い直した。


 考えていたよりも、冷たい水は危険なようだ。冬場の水道で手を洗うだけでも相当痛い。あの冷たさが全身を襲うのだから、当然と言えば当然だろう。


「あとは、森田君。寒さもそうだけど、水中では水圧に気を付けるべきだね」

「水圧、ですか?」

「ああ。潜水は水圧との戦いだからね。一メートル潜るだけで別世界だよ」


 部長にそう言われても森田君はピンと来ず、すぐに聞き返す。


「たとえば……の話なんですけど、部長さん。シュノーケルをぐーっと伸ばしたりすると、何メートルくらいまでの水深なら息を吸えるんでしょう?」

「たしか……水深六十センチほど、だったかな。前に知り合いがそう言ってたなぁ。肺が水圧に押されて上手く空気を吸えなくなるのは、びっくりするほど浅い深さなんだよ」

「たった六十センチ……」


 森田君は水圧のすごさに目を丸くした。

 部長さんも頷いている。


「素潜りなら息を止めたままだから、肺は大丈夫なんだけどねぇ。水の中で息をするのって、ものすごく大変なんだよ。人は一気圧の世界で息を吸って、ずーっと進化してきたからね。人間の肺の力じゃ、たった一メートルほどの水圧にすら勝てないんだ。だからスクーバダイビングでは様々な機器の補助が必要になるんだ」

「なるほど」

「一方、素潜りの世界記録は……まぁ、色々種類があるんだけど、深さを競うものなら百メートルを超えるからね」

「……ひゃく、めーとる……?」

「二百メートル潜った人もいるんだ。息継ぎなしで」


 部長さんは称賛するような声音で語った。

 おそらく超人の類の話なのだろう。


 六十センチでどうのこうのと森田君は考えているのに、もはや桁が違いすぎる。水深百メートルはおそらく光など一切届かない世界のはずで、周りは全部水。


「浅い所でなら人間には浮力があるんだけど、深くなると体中の気体が水圧で押されて体積を減らすから、浮力が無くなって行くんだって。つまり、身体が勝手に沈み始めるんだ。だから、水面へは泳いで行かないとたどり着けなくなってしまうんだよ」


 部長さんの話を聞けば聞くほど、森田君は驚くばかりだ。

 いったいどういう精神構造をしていれば、そんな領域へ自ら行こうと思えるのか。


 そして生きて帰ってこられるのか…………


 森田君のぽかんとした様子をよそに、部長さんはさらに続けた。


「もちろん訓練したり、身体が頑丈だったりする必要はあるけれど、人間の身体は結構な深さまで生きていられるらしいんだよね。問題は、水中で呼吸する事なんだ」

「スクーバダイビングとかは、どうやって息をしてるんですか?」

「それはね、レギュレーターっていう便利な道具を使っているんだ。空気ボンベの高圧空気を、水圧にあわせて自動で調節してくれるんだ。水深十メートルなら十メートルに最適の圧力で、三十メートルなら三十メートルに最適の圧力で、という風にね」

「なるほど」

「水深が深くなる程、より高圧の空気でないとダイバーは呼吸できない。でも、高圧の空気と言うのは色々危険でね。四十メートル以上潜ろうとすると、また特別な装備が必要になってくるんだよ。潜るときは潜るときで、耳抜きを適切に行ったりしないと鼓膜が破れるし、浮上する時も要注意だね。ゆっくり浮上しないと、減圧症と言って、重篤な障害を残しかねないほど危険な症状が出てしまうんだ。下手をすると、肺が破裂することもあるんだよ。川やプールで潜って遊んでいる時は気付かないけれど、水はとても重くて、潜ればその重さが体に作用する訳だから、当たり前といえば当たり前だよね」


 海底人研究部の部長さんは、そう言って空を見遣った。


「……思えば不思議だよね。あれほど高い高い空にある、その大気の重さを一身に受けても、地上ではたったの一気圧。だけれど、水中だと十メートル潜るだけで一気圧だ。そう考えると、水圧というのは、とても恐ろしいものだと思うよ」


 部長さんはそう言って締めくくった。

 それがこの日一番の、森田君の驚きだった。


 部活名はアレなのに、部長さんはすごく普通である。海底人関係のSF作品を八時間ぶっ通しで見せられる、くらいの事は覚悟してきたのだが、それもない。


 むしろ、親切で丁寧だ。

 色々失礼な事を考えていた自分を、森田君は恥じた。


「ありがとうございます。ものすごく為になるお話が聞けました」

「こっちも楽しかったよ。海に興味があるのなら、またおいで」

「なんていうか……すごく、まともで……感動しました」

「う、うん……?」


 部長さんはやや困惑していた。


「まとも、で、感動されるという経験は今まで無かったよ。あ、でも、うちの高校だと致し方ないか……生徒会も、大変なんだね」


 生徒会長が大変なんです。

 森田君はそう思ったが、苦笑いで「ええ、まあ」と頷いた。


 冬の水場は危険だ。

 という事は、コンクリートの時と同じ事をせねばならない。


 まずは自分の身で試す、それが森田君の行動指針の一つとなっていた。

 海底人研究部から抜け出ると、森田君はその足で山下の元へと急いだ。


「山下。実は、手を貸してほしい事が出来たんだ」


 生瀬さんの他に、輝き方を間違った明星こと山下へも、森田君は協力を打診した。


「事情は詳しく話せないんだけど――」

「森田。理由など必要ない。お前が手を貸して欲しいのなら、俺は手を貸す。真の同志と言うものは、時としてそうするものだ」

「山下……」


 図らずも森田君はぐっと来てしまった。

 この男はヘンタイのくせに時々やたらとカッコいいので困る。


 完全に同類認定されてしまっている事に関して、森田君はもはや何も感じなかった。どんな恥辱的な拷問にかけられようとご褒美でしかなく、自白を強要されてもプレイの一環としてさらなる鞭を頂く為に決して自白しない――

 山下の口の堅さは本物なのだ。


 森田君は、そんな山下をよく理解していた。




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