第二章

第9話




     7



「どうも、小林さん」


 そう言ってヨロズ先輩が立ち止まったので、香苗も立ち止まった。

 小林とは、香苗の苗字だ。


 廊下ですれ違えば普段なら会釈で終わるのだが、どうやら特別に話があるらしい。香苗はヨロズ先輩の様子から、そう感じ取った。


 先程の議会には、香苗も保羽リコと共に出席していたのだ。保羽リコはすでに風紀委員会室のほうへと去ってしまっている。廊下には、香苗とヨロズ先輩の二人きりだった。


 香苗は慇懃に、ヨロズ先輩へと一礼した。


「これは銀野会長、どうも。先ほどの議会は大変でしたね」

「ええ。第二新聞部も困ったものです」

「いやまったく。……どうでしょう、必要なら締め付けを強化しますが? そのためには二、三、現在の校則では身動きの取りにくい部分がありまして。もし会長が――」

「いえいえ、それには及びません」


 ヨロズ先輩はやんわりとした口調で、香苗の申し出を遮った。


「たしかに困った部活動や生徒たちは多いですが、先ほど副会長が言ったように、それが本校の多様性に一役買っているのも、また事実」

「たしかに」

「喧嘩の絶えない理念と実利を、なだめすかすのが我々の仕事です」

「……まあ、時に苦々しくもありますが」

「人間らしさを失った法治は、その能を成しません」

「ええ、紀元前にまで遡れる教訓です。たしか……『法三章』、でしたか?」


 香苗がそう述べると、ヨロズ先輩は驚いた顔をした。


「史記をお読みに? 小林さんは中国古典に興味が?」

「知り合いに進められて、日本語訳をかじった程度です」

「そうですか。塩梅の難しさに愚痴を言いたくはなりますが、民主主義とは元来、もどかしいもの。そのもどかしさに、ずっと向き合っていかねばなりません。法を生み出す側も、執行する側も……そしてなにより、その恩恵を受ける側も」

「そうですね。少々、私は急いていたかもしれません」


 香苗が自省の態度を見せると、ヨロズ先輩は「いえいえ」と手を小さく横に振った。


「それもまた、小林さんが職務に実直であるからこそです。風紀委員として急いてしまわれる気持ちは、察するにあまりあります」

「会長にそう言って頂けると、励みになります」

「ところで、小林さん」

「なんでしょう?」

「話は変わるのですが――」


 ヨロズ先輩は何気なく空を見遣り、ティータイムにお茶菓子をつまみながら天気の話しでも行うような、のんびりとした趣きでこう続けた。


「そういえば……第二新聞部の記事が出る前に、小林さんが第二新聞部を訪れていたという噂話を聞きました。やはり、風紀のお仕事か何かで?」

「ええ。第二の者たちに少し忠告をと」


 香苗は顔色一つ変えずに続けた。


「彼らはその、話を大きくしすぎますから。なるべく威圧感を与えないよう、優しい言葉で諭したのですが、間違いだったようです。あのような出鱈目な記事を出し、議会の進行にいたずらな混乱を生んでしまった訳ですから」

「なるほど……そうでしたか」


 ヨロズ先輩のその声音は、納得したとも、していないとも取れるものだった。

 香苗はちらりとヨロズ先輩の顔色を伺ったが、ちっとも変化が読み取れない。


 ヨロズ先輩の事が香苗はそこそこ苦手だ。保羽リコのように分かりやす過ぎるのもどうかと思うが、分かりにくすぎるのも困りものだ。


 かといって、嫌いな人ではない。

 香苗は理解できたものには好悪をなるべくはっきりさせるが、そうでないものを好悪で単純に分別する事はなるべくしない。保羽リコは中学の時から嫌っていたが、それはヨロズ先輩の事をどこか理解していたからだろう。


 保羽リコはおっちょこちょいで直情的でアホ丸出しなところが多々あるものの、人の機微を捉える事に大変優れている部分がある。風紀委員たちもそういうところに惹かれるからこそ、保羽リコは風紀委員長として認められているのだ。


 香苗が平然としていると、ヨロズ先輩は一つ大きく頷いた。


「小林さんの今なされたお話は、私が聞いた噂話とは随分違うようですが、信じます。小林さんを。風紀委員会には、生徒会長として全幅の信頼を置いていますから」

「光栄です、銀野会長」

「ただ……先日、うちの書記が風紀に追い回されたそうで。校外で持ち物検査をされかけた、と小耳に挟みました。それも、差し押さえ令状もなく」


 ヨロズ先輩の声は柔らかくも、鋭いものが混じっている。

 香苗はすっとぼけることにした。


「……ああ、あれは……不幸な行き違いです。エクストリームアイロニング部と、あと要注意人物の一年が不穏な動きをしていたものですから。エクストリームアイロニング部はバスの上でアイロンがけをしていて、要注意人物の一年は素っ裸で駅前に向かおうとしていたものですから。こちらも、日戸梅高校や周辺地域の公序良俗の維持に必死でして。連中を現行犯でとらえる時に、おそらく不手際が起こってしまったのでしょう。再発防止に尽力します」

「そうですか。しかし、正式な手続きもせず無実の生徒に校外で持ち物検査を行おうとする権限など、風紀には無いはず。しかも……それを行おうとしたのが風紀委員長である、と。保羽さんのおっちょこちょいは今に始まった事ではありませんが、事が事です。まだ小耳に挟んだ段階ですが、これは下手をすると今後の議題になりかねません」

「それは、困りますね。……お互いに」

「ええ、お互いに。生徒会と風紀は仲良くすべきです。ですから、少しの間、保羽さんの手綱をしっかり握っておいて欲しいのだけれど……小林さん、どうかしら?」

「……なるほど。分かりました。では、これで」


 香苗は殊勝に快諾したが、心の中でにやりと微笑んだ。


 かかった。

 内心で香苗はそう思いつつ、一礼してヨロズ先輩とそのまますれ違い、風紀委員会室へと歩を進めた。こうして生徒会長自ら香苗に対して働きかけて来るという事は、今現在、風紀委員会に探られてはまずい事をしようとしているのだろう。


「第二新聞部もなかなか良い仕事をしてくれたわ」


 風紀委員会室の椅子に腰を下ろして香苗がそう言うと、先に机についていた保羽リコがぽかんとした表情をしたのち、かっと目を剥いた。


「……あの議会での騒動、香苗が仕組んでたの!?」

「仕組んだなんて人聞きの悪い。第二新聞部と少し取引しただけよ」


 香苗が肩をすくめて見せると、保羽リコは机から立ち上がって肩を怒らせた。


「清太と生瀬になんて事するの!」

「おかげで森田清太の変な噂はほとんど消えたでしょーが。第二新聞部が特ダネですっぱ抜けば、例え真実でも結果的に嘘になる。日戸梅の常識でしょ」


 香苗がそう言うと、保羽リコは気勢を削がれたようだ。


「……香苗、そ、そこまで考えて?」

「まさか、それはほんのついで。ここからが本題よ」

「…………」


 頭の回りがいささか良すぎる補佐役に、保羽リコは目を白黒させている。

 だが、香苗は気にせずに続けた。


「リコ。いつも通り、あんたの勘は冴えてるかもね」

「どゆこと?」

「美術室での一件、生瀬ちゃんが森田清太の足型をとっていたそうよ」

「……たしかに生瀬は主に絵を書いてて、彫刻を作ろうとするのは珍しいかもしれないけど、美術部員だし。他の作品とか、誰かに影響されることくらいあるでしょ。作品作りに清太が協力したとしても、不自然さはないと思うけど?」

「表向きはそうなってるけど、実際は違うっぽい。どうやら森田清太が生瀬ちゃんに頼んで、自分の足型をとってもらっていたらしいのよ」

「変ね。清太は美術苦手なはず……芸術のためにそうした訳じゃなさそうね」

「おそらく」

「具体的に、清太は何をしていたの?」

「セメントを使って、直接自分の足を固めていたそうよ」


 香苗がそう教えると、保羽リコは訝しんだ。


「……自分の足を、直接突っ込んで?」

「らしいわ」

「セメントに?」

「正しくはモルタルかコンクリートだけど。……第二新聞部が見間違えてなければね」


 香苗がそう付け足すと、保羽リコは首を傾げた。


「セメント? モルタル? コンクリート? それって、どう違うの?」

「セメントは材料。モルタルはセメントと砂と水を混ぜ合わせたもので、コンクリートはモルタルに砂利を加えたもの……らしい。コンクリートが一番強度があるそうよ」

「……普通は粘土やシリコンを使うはずよね。型を取るとしたら」


 保羽リコがそう言い、香苗は頷いた。


「あるいは、石膏や樹脂とかね。そういう型を作るとしたら」

「なのに……コンクリート?」

「美術の先生の話だと、コンクリートの像や足型も無いわけじゃない。けど……」

「どうして、わざわざコンクリートを使ったのか?」

「そして、なんのために森田清太がそんな事を生瀬ちゃんにさせたのか…………は、まだ詳しくは分からないけど――」

「すごく怪しい……」


 保羽リコは顎に手を当て、目を細めた。

 真剣な顔で思案している。


 言動で大分損をしているが、保羽リコはアホ面ではない。頭の切れる警察屋さんのお兄さん同様、きりっとした顔をすればそれなりに恰好はつく。

 いい感じで本気になってきたみたいねと、香苗は保羽リコへと補足した。


「さらに先ほど、銀野会長からありがたいお言葉を頂戴したわ」

「なに?」

「あんたが突っ走らないように手綱を握っておけ、ってさ」

「……へぇ」


 保羽リコはヨロズ先輩への反感をにじませて、鼻息を長く漏らした。

 香苗は指をパチンと弾き、保羽リコへと問いかける。


「つまりリコ、森田清太を突いて銀野会長が動いたということは?」

「前回と同じパターン、ってことね」

「そうよ。そして、生瀬ちゃんもあちら側にもうすでに取り込まれている、って事でもある。……さてさて、どうしますかねぇ。向こうはかなり布陣を固めてるっぽいし。前回のように出し抜かれてばかりだと、風紀の面目に関わるわね」

「……香苗、なんか怒ってない?」

「ふふふっ、そりゃぁ、多少はね」


 香苗はにこやかに目を細めた。

 それは、じゃれつくものを見つけた悪いネコのような目だった。


「首根っこ掴んで脅しをかけるのが風紀の仕事だってーのに、生徒会長直々に、よりにもよってこの私が、首根っこ掴まれて脅しをかけられちゃった訳だから。こっちの仕事のお株を奪われたら、取り返したいと思うのが人情ってもんでしょう?」


 香苗の声からは、あまり褒められない方の人情味が溢れ出ていた。それでも香苗がやる気になってくれた事は、保羽リコには心強かったろう。


 ヨロズ先輩と森田君の、何かしらの計画を粉砕するのだ。恋人同士になった二人の仲をこれ以上進めさせてなるものか。

 保羽リコのその思惑に、香苗は協力を約束した。





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