第8話




 生瀬さんの協力のおかげで、中々の手ごたえを得ることが出来た。固まったモルタルを工具を使って剥ぎ取り、森田君は今回の手ごたえをメモ帳に記した。


 何かの拍子に靴下代わりのビニールが破けたらしく、森田君の足の肌がカサカサになっていた。炎症を起こすほどではなかったが、かなり皮膚の油分をもって行かれたようだった。アレルギー体質の人の場合は酷い事にもなるので、ここら辺は要注意だろう。


 森田君は所見を書き、道具を片付け、生瀬さんにお礼を述べてその日は終わりになった。

 滑り出しは順調だ。


 などと油断していた昨日の自分に、森田君はフライング・ラリアットを叩き込みたいとすら思う羽目に、美術室での一件の次の日にあった。


 それは森田君が一人で登校した、朝の事だった。


 森田君がたまたま校門前で生瀬さんと出くわし、昨日のお礼などを述べつつ下足ロッカーで上履きに履き替えていると、クラスメイト達がすっ飛んできたのだ。


「いいんちょ、何やってんの!?」

「森田、お前、生瀬さんになんてことを!!」

「ハレンチよ、破廉恥だわ!」


 口々にそう言うクラスメイト達に言われ、森田君と生瀬さんは顔を見合わせた。


(いったい、何のことだろう?)


 森田君が不思議がっていると、クラスメイト達は下足室の先を指さしている。その廊下の壁際に、何やら人だかりが出来ていた。森田君は生瀬さんと連れ立って近づく。すると人だかりの人たちが、なにやら驚いた顔で森田君と生瀬さんをじろじろと見てきた。


 第二新聞部のスクープ記事が掲示板に張り出されている。

 その記事の見出しを見て、森田君と生瀬さんは大きく目を見開いた。


《生徒会役員、美術室での情事!! 職権乱用でクラスメイトを手籠めに!!》


 刺激的な見出しと共に、写真がデカデカと乗っていた。生瀬さんが森田君のチャックを直してくれた、その時の写真だ。悪意を通り越して職人芸すら感じるほど、それはもう、誰がどう見ても卑猥な事をしているとしか思えない、見事なアングルだった。


 人物の目線にはモザイク処理が施されているものの、まったく意味をなしていない。誰が見ても森田君と分かり、誰が見ても生瀬さんと分かる、極めて雑なモザイク処理だった。


 会話も録音されていたらしい。


『これ、三十分くらいかかるんだよね? ちゃんと堅くなるの』

『うん。それでも早い方なんだよ』

『そうなんだ。わたし、こういう事、詳しくないから』

『もうそこそこ経ってるから、結構堅くなってきてる感じかな』

『あ、ほんとだ、堅い……』

『生瀬さん、強く触るのは、ダメだよ……』

『ご、ごめんね。初めてだから、加減がわからなくて』

『動くと不味いから』

『だったら、そのままで。私がしてあげるね』


 スクープ画像と合わせると、とんでもない会話になってしまっている。

 録音された動作の音も含めると、十八歳未満お断りである。


 東京都の青少年を健全に育成しようとする審議会の人達が聞いたら、すっ飛んできて十八禁コーナーでの陳列を強制されるかもしれない。

 生瀬さんは血相を変えて、クラスメイト達を見た。


「ち、違うの! 森田君は紳士だから、こんな事には絶対――」

「紳士にも二通りあるのよ、いいんちょ。本物と、ヘンタイの二通りが!」

「森田くんサイテーだわ、ピュアな生瀬さんにつけこんでこんな事をさせるなんて!」

「ってか森田。三十分もかかるのか、その若さで!?」


 生瀬さんの弁明も全く効果をなさず、下足室からやって来る登校者たちが掲示板の人だかりに次々と加わり、群衆となりはじめていた。

 騒ぎが大きくなり始めている。森田君は焦った。


(まずい、まずいぞ……)


 森田君はどうすりゃいいのかと、困惑した。


 たとえ出鱈目でも、こんなのがヨロズ先輩の目に入ってしまったら――

 森田君が顔を蒼くして周りを見回すと、ヨロズ先輩がそこに居た。


 居て欲しくないと思えば思う程、そこに居る。ヨロズ先輩が警察屋さんに入って交通取り締まりをやれば、ものすごい検挙率になるだろうと森田君は思った。


「…………」


 ヨロズ先輩は記事を凝視している。

 森田君は近づいて、わたわたと大げさな身振り手振りを交えて弁明した。


「先輩これは違うんですよ! この写真は不可抗力で!」

「そうです、銀野会長っ。こうなったのは私がっ、私からしたんです!」


 森田君の後ろから、生瀬さんも弁明の言葉を述べようとして続けた。


「その、森田君の下半身が堅くなってて、動けそうになくてっ、恥ずかしい部分が人前に出られない状態になってたから、なんとかしてあげなくちゃって、それで!!」


 軽くパニックになっている生瀬さんが、とんでもない事を口走り始めた。

 聞きようによっては、記事の内容を認めているようなものだ。生瀬さんの言葉は事実に則しており、何一つ間違ってはいないが、ざわめきが加速してしまう弁明だった。


 さしもの森田君もびっくりして、生瀬さんを手で制した。


「な、生瀬さん!?」

「へ? ……あ、いや、あの……そ、そうなんだけどっ、そうじゃなくて!」


 顔を真っ赤にして生瀬さんは手をぶんぶん振っている。小動物的な必死の可愛さはあれども、その姿にいつもの頼り甲斐や説得力はない。


 リードしようと、森田君は声を張り上げた。


「このスクープ写真は作為に満ちてて。そうは見えないかもしれないけど、実際はこうじゃなかったんです! ねえ? 生瀬さん!」

「そうですっ。みなさん誤解してますけど、実際はペンチを使ってましたから!」


 混乱状態の生瀬さんの説明力の無さは、もはや破壊的な領域だった。

 生瀬さんの告白を受けて、聴衆にどよめきが走る。


「ぺ、ペンチ!?」

「ペンチって、え、な、嘘だろ!?」

「お、おまっ、お前――レベル高すぎだろ、森田!!」

「不潔、不潔よ!! ……いや、むしろ清潔?」

「デリケートな部分なのに何考えてんだ!?」

「そうだぞ。男だろっ、もっと自分を大切にしろよ!」


 生徒たちは困惑しながらひそひそと話し合い、男子の何人かにいたっては畏怖の眼差しで森田君を見遣り、股間を抱えて足を震わせている。そんな収集不可能に思え始めた聴衆の混乱へと、ヨロズ先輩はくるりと身体を回して向き合った。


「みなさん、お静かに」


 ヨロズ先輩の涼やかで美しい声音が、周囲の熱をすっと奪った。

 ヨロズ先輩は聴衆が落ち着くのを少しだけ待ち、言葉を続けた。


「いかに衝撃的なスクープでも、この記事のここを、しっかりと見てください。ほら、この記事の出所は、第二新聞部です。第二新聞部のスクープです。情報の出所にいささか信憑性が欠けています。興味本位で話題にすると、彼らの思う壺ですよ」


 ヨロズ先輩がそう語ると、聴衆たちは顔を見合わせた。


「……た、たしかに」

「会長の言う通りだ」

「ほんとだ、第二新聞部のスクープだ」


 さすが人望厚い生徒会長だ。

 二言三言で聴衆の騒ぎを鎮めてしまった。


 するとヨロズ先輩は、今度は森田君と生瀬さんへと向き直る。


「二人とも、お話があります。ついてきなさい」


 ヨロズ先輩にうながされ、森田君と生瀬さんは生徒会室へと向かった。

 生徒会室へ入ると、机の前でヨロズ先輩は森田君と生瀬さんへと向き直った。


「それで、二人とも。どうして、いつ、あのような写真を撮られたの?」


 ヨロズ先輩に尋ねられて、森田君は首を横に振った。


「いつ撮られたのかは、まったく。昨日、足を固めるのを生瀬さんに手伝ってもらっていたんですけど、その、色々あってチャックが壊れてしまって……」

「私がペンチで直そうと。兄の服も、この前それで直ったので、森田君のも、と」

「誤解をまねく軽率な行動でした」

「すいません、銀野会長……」


 部屋の隅に立ったまま、森田君と生瀬さんはしゅんとしていた。

 森田君と生瀬さんの説明に納得してくれたのか、ヨロズ先輩は頷いた。


「なるほど、事情は分かりました。あのような噂は日戸梅では毎度の事。第一新聞部に手を打ってもらうから、数日は我慢なさい。第二新聞部に足元を掬われたとはいえ……二人ともどうやら、少々不注意だったようだから」


 ヨロズ先輩は淡々としていた。

 生瀬さんとの事も、誤解されてはいないようだ。


 ヨロズ先輩に信頼されているといえば、そうなのだろう。けれど、まったく嫉妬してくれない、というのは、それはそれで哀しいような。

 矛盾した心持ちに森田君は何とも言えない顔になった。


「森田君、この一件は今日の生徒議会で、ある程度、追及される事にもなるでしょう。なんとか手は打ってみますが、森田君……以後気を付けるように」

「は、はい」


 ヨロズ先輩の目に射抜かれたような気がして、森田君の背筋はぴんと伸びた。それは今までに感じた事の無い、ひやりとした感触だった。


 放課後の生徒議会は、ヨロズ先輩の言葉通りとなった。

 議会が始まると同時に、朝の新聞記事について突っ込む者が出てきたのだ。


「最近の生徒会はたるんでいるのではありませんか? 特にその書記の一年の評判など、ひどいものですよ。銀野会長はどう考えているのです?」


 三年生のクラス委員長がそう糾弾した。

 それは事実でもあった。


 森田君の評判はここ最近、噂だけではあるが、わりと酷い。土下座の愛好家であるだの、床を舐め回す趣味があるだの、女生徒とみれば誰彼構わずナンパしているだの、散々なものだ。森田君の身から出た錆びである側面もあるにはあるが、生徒会で書記を務めている森田君としては、たとえ噂でも、そのような評判が出回ることはマイナスだ。


 生徒会役員の沽券にかかわると、議会で三年生のクラス委員もそう批判した。


「書記などという、そんな誰にでも出来るポスト、組み替えることなど容易い。生徒会の権威に影響がでるくらいならば、早急に対処すべきではありませんか?」


 三年生のクラス委員の言葉を受けて、しかしヨロズ先輩は眉一つ動かさなかった。


「風評など所詮、風評です。人事を風評で動かすなど、ありえません」

「彼が問題を起こしてからでは遅いと言っているのです」

「その時の全責任は、会長である私にあります」


 ヨロズ先輩は断言した。

 さらりとした口調だったが、強い意志を込めてヨロズ先輩は続けた。


「それにお言葉ですが、書記は非常に高度なスキルが必要とされるものです。こうして議会進行で皆が様々な発言をするなか、要点を即座に見つけて短文でボードに書きだしていく。重要かつ、なるべく多様性のある意見をピックアップし、なおかつ発言者のやる気を損なわずに会議内容がより豊かになるように配慮して、です。みなが会議の進行具合を共有しつつ、脱線せず、参加しているという個々の意識をひきだす……一歩引いて場を見る冷静さ、他者の意図を深く理解できる力と、なにより思いやりが無ければ務まらないポストです。現状、森田君以上の人材を私は知りません」

「しかし、土下座愛好家だそうじゃないですか!!」

「それは――」


 ヨロズ先輩の二の句を、横から伸びた手が押し止めた。

 その手は、副会長のものだった。静かだが、確かな闘志をたぎらせているようだった。土下座愛好家うんぬんというのは、森田君にも非はあるものの誤解なのだ。


「会長、これより先は私が。森田の事情は心得ています」

「……ではお願いします、副会長」


 副会長の鋭い眼差しに、ヨロズ先輩はバトンを委ねた。


(よかった……副会長なら、なんとかしてくれる)


 森田君もそう一安心した。


 副会長は口数の少ない方だが、とても気配りができて、尊敬に値する人だ。見た目や言動から堅物だと思われがちだが、柔軟さもちゃんとある。冷静で弁も立つ。


 なにより常識的な人だ。

 副会長は森田君を一瞥し、「任せろ」という頼もしいアイコンタクトを送って来た。


 そんな副会長の第一声がこれだった。


「土下座愛好家で何が悪いのです!?」


 森田君はずっこけてホワイトボードに頭をぶつけた。

 ヨロズ先輩も戸惑っている。


「ふ、副会長……? その論調だと森――」

「自主、独立、創造、それこそ我らが日戸梅高校の理念っ。自らの意思で、自らの足で、自らの頭で土下座を愛好して、それの何がいけないのですか!?」


 困惑のあまりヨロズ先輩の制止は弱く、なにより副会長の言葉は自信に満ちて強すぎた。副会長は三年生のクラス委員へと、鋭い舌鋒をさらに浴びせかけた。


「あなたの先ほどの発言にもし侮蔑や非難の色があるとしたら、それは、この学校の理念を体現する多種多様な部活動全てへの宣戦布告に等しい事……と、なってしまいます」

「な、そ、それは……!」

「どうなのですか? 先ほどの発言の真意をお聞きしたい」

「いやその……侮蔑や非難だなんて、そんな意図は」

「では、森田が土下座を愛している事は、何ら問題は無い、という事ですね?」

「……うっ……ま、まあ、そういうことだな……」


 副会長に射すくめられ、クラス委員の三年生は矛を収めた。


 さすが副会長である。

 やや強引ではあったものの、一瞬で説き伏せてしまった。


 講義室に集まったクラス委員や部長たちも、『確かにそう言われるとそうだな』と、かつて目撃した事例を各自で枚挙しながら、ごそごそ話し合って納得している。


 こういった所が日戸梅高校の懐の深さであり、校風の緩さでもあり、他校生や地域住民から「日戸梅高校は変人ホイホイ」と言われる土壌でもあった。


 しかし森田君としては、たまらない。

 このままでは誤解がより深まるばかりだと、森田君は副会長の肩を叩いた。


「あ、あの……副会長……」

「礼には及ばない、森田。君のクラスメイト達から聞いて、おおよその事情は把握している。先ほどの言葉は、私自身の嘘偽りの無い思いでもある。生徒会役員として問題を起こす事はなるべく避けるべきだが、己の信念が起こした問題であるならば、その時は迷わず立ち向かうべきだ。何も恥じる事は無い。これからも、胸を張って土下座を愛せ」


 副会長はかっこよかった。

 声もシブかった。七三の髪型もびしっと決まっていた。大勢相手に堂々としていた。眼鏡が良く似合っていた。なにより、すごく後輩想いだった。


 けれど、いつもちょっとズレていた。


 森田君が重ね続けた嘘が引き起こした、自業自得とも言えるこの状況。絡まりあった糸を解きほぐすには、あまりに手間がかかりすぎる上に、さらなる混乱を生んでしまう。

「……あ、りがとう、ございます……副会長ぉ……」


 頭の中が真っ白になりながらも、森田君は絞り出すようにそう言った。どんな状況でも感謝だけは忘れない。哀愁すら漂わせる心根の良さだった。


「森田君? 訂正するなら今しかないわ。貴方の口から、今言わないと――」


 などというヨロズ先輩の耳打ちなど、森田君には聞こえていなかった。


 もはや後戻りはできない。

 土下座愛好家である、という事が周知徹底されてしまった。


 なにせ、生徒会からお墨付きまでもらう形となってしまったのだ。





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