第7話
(時間が必要だな、これは……検証することが多いぞ……)
森田君はそう思った。
ヨロズ先輩を安全にコンクリートに詰めて湖に沈めるには、まずは自身を実験台にして試してみる必要があると、森田君はもはや当然の様に考えていた。
ヨロズ先輩は生徒会長である。
学業は優秀で背も高く、体育祭でも大活躍する、隙の無い美人だ。雪女の末裔と囁かれてもまったく違和感が無いほど、どこか浮世離れした雰囲気を持つ。
ぱっと見は表情の変化が少なく、その真意をくみ難くはあるものの、仕事の出来るクールビューティーとして生徒たちから絶大な信頼を得ている。本人もそういった社会的ステータスを大事にしているらしい。トランクケースに詰められて山中に埋めて欲しいだの、足をコンクリートで固めて湖に沈めて欲しいだの、生徒会長が訳の分からない事をしていると一般生徒に知られれば、ヨロズ先輩の名声は地に落ちるだろう。
「そんな事になったら、舌を噛んで死にかねないわ」
とは、本人の弁である。
秘め事である以上、協力者は限られてくる。
頼り甲斐があって、信頼ができて、口がとても堅くて、こんな馬鹿な事にも手を貸してくれそうな、圧倒的な包容力と慈しみに満ち溢れた人格者。
森田君の知る限り、それは生瀬さんしかいなかった。
善は急げと、森田君はDIY部を後にした足で生瀬さんを探した。
「生瀬さん。実はその、また手伝ってほしい事が出来たんだけど、いいかな?」
学校図書館の脇で生瀬さんをつかまえ、森田君は小声でそう切り出した。
生瀬さんは二つ返事で頷いてくれた。
「うん、いいよ。なに? 生徒会のお仕事?」
「いや、そうじゃなくて。……その、詳しくは話せないんだけど、よんどころない事情で、コンクリートで足を固めて湖に沈む必要ができてしまったんだ」
「…………う、うん? そ、そうなんだ……」
「……?」
生瀬さんの反応が煮え切らず、森田君は首を傾げた。
すると生瀬さんがぱたぱたと手を横に小さく振った。
「えっと、前よりなんか、難易度がレベルアップしちゃってる感じがして。ご、ごめんね、ちょっと受け入れるのに三十秒くらい欲しい」
「……だ、だよねっ」
生瀬さんのド正論に、自分の発言が正気の沙汰ではなかった事に森田君はやっと気付いた。三十秒で受け入れられる生瀬さんの包容力もまた、尋常ではないが。
「生瀬さん、ごめん。なんか普通に言っちゃったけど、相当アレだよね、今の発言……こっちこそ、ごめんね。最近、なんだかそういう線引きがぐちゃぐちゃになってて」
「ううん。たぶん森田君のせいじゃないと思うし……もう大丈夫。手伝うよ」
「本当にありがとう、生瀬さん。それで、とりあえずコンクリートで足を固めるところから始めようかと思ってるんだ」
「そ、そだね。いきなり沈むところまでやるのは、良くないよね……」
「うん。……ボク、そういう経験浅いほうだから」
なぜか森田君はもじもじしながらそう言った。
そういう経験なら深い人間の方が問題あるよ……と、生瀬さんなら冷静なツッコミの一つも思い付いたろうが、彼女は空気の読める子だった。
そんな生瀬さんに気づかず、森田君は言葉を続けた。
「だから、ちゃんと一歩ずつ行こうかなって」
「……そっか……森田君らしいね、その方が」
「それじゃ、またボクの家で――」
「あ、それは、まずいような」
「……え? どうして?」
「森田君っ、ちゃんと自覚を持たないと!」
生瀬さんの口調がいきなり鋭くなり、森田君はたじろいだ。
生瀬さんには珍しく、少し怒っているようだった。
「女の子一人、自分の家に呼ぶのとか、ダメだよ、そういうのっ。今の森田君には、その……特別な人がいるんでしょう?」
「……そ、そうだね。ごめん。生瀬さんの言う通りだ」
はっとさせられた森田君は、素直に頷いた。
自分の行動の意味する所をなるべく客観的に見るように心がけ、無用な誤解を与えてしまう事は控えるべきだ。生瀬さんのおかげで助かった。
だが助かった反面、森田君としては困りごとが出来てしまう。
「でも困ったな。家が使えないとなると、一体どこで……」
「えーっと……美術室なら、使えるかも」
「そっか。生瀬さん、美術部だったよね」
「うん。だからコンクリートとかも、足型をとって作品にするため、とか言えば、けっこう自然に出来る気がするの。湖に沈む、っていう部分はまた色々考えないといけないかもしれないけど、コンクリートで足を固めるのはそれで試せるんじゃないかな?」
「そうだね。ありがとう、生瀬さん」
「美術部員は色々あって、今のところ少ないから、放課後なら二人きりで美術室が使える日があると思う。その時なら、気兼ねなく出来ると思うから、調べておくね」
ではよろしくお願いします、と森田君は生瀬さんとその日、それで別れた。
生瀬さんは本当に頼もしく、天使のような人だと森田君は思った。
森田君が道具を揃えると、機会は次の週にやって来た。
放課後の美術室は広々としていた。
生瀬さんと二人きりだから、そう感じるのだろうか。と、森田君は室内を見回した。古びた木製の長机や、椅子、学生の作品が飾ってある、ごく普通の美術室だ。チェーンソーをはじめとする多様な工具が壁に飾ってあるにはあるが、日戸梅高校では平凡だ。
美術の先生はチェーンソーアートの大会で好成績を収めているらしく、氷と樹の魔術師を自称しているが、日戸梅高校では特筆すべき事ではない。
生瀬さんに手伝ってもらい、森田君は準備を始めた。
まずは手袋とマスクだ。
安物のポリバケツに速乾セメントと砂を一対三の割合で入れ、よく混ぜる。空練り、というらしい。混ぜていると砂の色がなくなり、セメントの色になり始めた。
(DIY部で教えられた通りだ……)
なんだかワクワクしてきて、森田君はせっせと手を動かした。
分量はモルタルなら砂の、コンクリートなら砂利の量で決まるらしい。
「次は水を入れるんだよね、森田君」
生瀬さんに聞かれて、森田君は頷いた。
「うん。それでまた、良く練っていくんだ」
「これがコンクリートの作り方なんだ」
「砂利をいれない場合は、コンクリートではなくモルタルって言うらしいよ。だから今のこれは、モルタルって言ったほうがいいかも」
「そうなんだ。なんだか砂遊びしてるみたいで、懐かしいね」
「そうだね。生瀬さんは砂遊びとか、得意そうに見えるよ」
「そう?」
「すごく立派な御城とか、像とか作るんじゃないかな、って」
森田君がそう言うと、生瀬さんはくすりと口元を緩めた。
「ふふっ。絵とかは描くけど、彫刻とかはあんまり。でも、今度やってみようかなぁ。あ、そうだ。これって水の量は計ったりするの?」
「目分量で構わないよ。水の量はその日の天候や用途によって微調整するらしいから」
森田君が教えると、生瀬さんが水道から水を汲んできてくれた。
森田君はさじ加減がまだ分からないので、すこし固めを目指した。水を入れ、ビニール手袋でさらによく混ぜていく。
程よい粘度になるまで手間取ってしまった。
(こんなもんかな……?)
森田君はそう感じ、自身のズボンの裾をまくりあげ、靴下を脱ぐ。ビニール袋を靴下代わりに履いて、すねの辺りに輪ゴムで止める。
肌に直接触れるのは良くないらしい。
バケツのモルタルにずぼっと両足をつけて、森田君は椅子に座った。
足先がぐっと冷える。汲んできた水が冷たかったのだろう。何ともシュールなものだなと森田君が思っていると、生瀬さんと目が合った。
これで終わりなのかと、生瀬さんはくりくりとした目で森田君を見ている。
「森田君、あとは待つだけ?」
「うん」
森田君は頷いた。
しばしやる事がなく、二人してバケツをじっと見た。
妙な沈黙だ。
丁度良い機会に思えて、森田君は切り出した。
「……それであの、生瀬さん」
「なに? 森田君」
「その。なにか、お礼をしたいんだ、生瀬さんに。今もそうだけど、ここ最近、いろいろと迷惑とか、手間とか、かけっぱなしだったから。遠慮せずに言ってほしい」
「お礼? んー……」
眉を寄せて首を傾けていた生瀬さんは、ふと思いついたような顔になった。
「それじゃぁ、今度、絵のモデルになってもらおうかな。森田君に」
「絵のモデル? ボクでいいの?」
「?」
「いやほら、どうせモデルにするなら、見栄えがするカッコいい人の方がさ。山下とか、副会長とか、香苗さんとか……言ってくれれば、話をつけてくるよ?」
森田君は申し出た。
生瀬さんの要望なら、何でもするつもりだ。
すると、生瀬さんは何かを思い出すように自身の頬に手を当てた。
「んとね、森田君。この前、顧問の先生が言ってたんだけど」
「うん」
「輪郭やパーツを忠実になぞるだけじゃ、良い絵にはならないんだって。もちろん技術的なことも大切なんだけど、誰でも初めて絵を書いた時は書きたいものを書きたいように書いたはずで、それは忘れちゃいけなくて。絵のモデルへの理解や、想いや、考えとか、そういう色んなものが、本当の絵の具になっていくんだって」
「へぇ」
「森田君がモデルになってくれたほうが、私は彩り豊かに描ける気がするの」
生瀬さんに笑顔でそう言われ、森田君はぽりぽりと後頭部を掻いた。
「…………なにかその、こう……照れます……」
「ふふっ、私もちょっと恥ずかしくなっちゃった」
「換気しようか。部屋が温かくなりすぎてきたし」
「そうだね」
生瀬さんがそう言って立ち上がるも、森田君はうっかりしていた。
生瀬さんの動作につられて、森田君はごく自然に立ち上がろうとして、自分の足が固まっている事を思い出した。バランスを崩してぐらぐらと揺れる森田君を、慌てて生瀬さんが支えようと手を伸ばしくれたが、逆効果にしかならない。椅子を倒し机にぶつかり、前のめりにすっ転んで、小さな悲鳴と共に生瀬さんを巻き込んでしまった。
速乾セメントはすでに固まり始めており、バケツからこぼれはしない。床を汚すことはなかったが、それ以上にややこしい事が起きてしまっている。なにせ、結果的にではあるが、森田君は生瀬さんを押し倒す形になってしまっていた。
「も、森田君……」
か細い声を上げ、生瀬さんが固まっている。
「な、生瀬さん……」
森田君も固まってしまった。
彼女がいるのに他の女の子を床ドンする男。ともすれば背徳的で甘美、あるいはプラスティック爆薬を一トンくらい括り付けて起爆したくなるシチュエーション。
ファンヒーターの音が、温風と共に室内を満たしていた。
そんな不可抗力の青春劇場を大きな音が引き裂いた。美術室の戸が凄まじい勢いで開け放たれたのだ。そして、血に飢えた飢狼のような目つきの女教師がぬっと顔を現した。
風紀委員会の特別顧問にして、歴史教諭の東原先生だった。
「臭う、臭うわね、忌々しい青春の気配がっ……!」
「いきなりなんて音を立てて戸を開けるんですか、東原先生」
東原先生の後ろから、血に飢えた飢狼の飼い主のような風貌の男性教師が、東原先生をいさめる様にして入って来た。
人相は凶悪でも面倒見の良さは人一倍の、厳島先生だ。
「ご、ごめん。だ、大丈夫? 生瀬さん!?」
森田君は慌てて生瀬さんから飛び退き、椅子と机に再び体をぶつけた。
悶絶する森田君の様子を見て、厳島先生が驚いた顔をしている。
「森田? ……そこで何をしているんです、二人とも?」
厳島先生がそう言った。厳島先生は生徒会の顧問でもある。
森田君とも、生瀬さんとも顔なじみだ。
生瀬さんもぱっと立ち上がり、二人の教諭へとわたわたと手を振った。
「わ、私の提案で、森田君から足型をとらせてもらっているんです。その、作品にならないかなぁ、っと。森田君がその途中で、転んでしまって」
生瀬さんが説明すると、厳島先生は納得したらしい。
「……そうでしたか。あなたは絵が専門なのかと思っていました」
「色々手を出した方が、表現の幅が広がるかなぁ、と」
「そうですか。部屋を使い終わった後は、ヒーターや電気を消し忘れないように」
「はい、厳島先生」
森田君と生瀬さんは口を揃えてそう言った。
厳島先生は東原先生を手で促した。
「では行きますよ、東原先生。仕事が残っているんですから」
「むむ……たしかにさっき、えずくような青春劇場の気配が……」
「何を訳の分からない事を言っているんですか。ほら、さっさと歩く」
そう言って、厳島先生は東原先生を連れて出て行った。
なんとか無事にしのぎ切った。
「ふぅ」
と森田君と生瀬さんは同時に溜息をつき、まったく同じタイミングだったことに、なんだかおかしさを感じて笑いあった。緊張からの緩和だろう。
ほっとしたのも束の間、椅子に座りなおした森田君は、自身の社会の窓が開いている事に気付いた。机や椅子にぶつかった拍子か、それとも何かに引っかかったのか。慌ててズボンのチャックを閉めるが、閉めても閉まらない。
チャックを上げても開いたままだ。
「し、閉まらなくなっちゃった……どうしよう?」
社会の窓の内側がなるべく見えない様にしつつ、森田君は困った。良い感じでモルタルが固まり始めている感触がある。ズボンを脱いで体操着に着替える訳にも行かない。さりとてチャックをこのままにして、椅子に座り続けると言うのも問題だ。
悩んでいる森田君の様子を見かねてか、生瀬さんがモルタルのバケツを指さした。
「これ、三十分くらいかかるんだよね? ちゃんと堅くなるの」
「うん。それでも早い方なんだよ」
「そうなんだ。わたし、こういう事、詳しくないから」
「もうそこそこ経ってるから、結構堅くなってきてる感じかな」
森田君がそう言うと、生瀬さんが跪いてモルタルを指でちょんと突いた。
「あ、ほんとだ、堅い……」
「生瀬さん、強く触るのは、ダメだよ……」
「ご、ごめんね。初めてだから、加減がわからなくて」
「動くと不味いから」
「だったら、そのままで。私がしてあげるね」
そう言って生瀬さんは、美術室の工具箱を取って来た。
美術の先生が美術室に飾ってあるチェーンソーの、その整備をするための工具箱らしく、ペンチは数種類あった。生瀬さんはやや小さめのペンチを手に取り、これといった躊躇もなくしゃがみ、森田君のチャックを直そうとしてくれている。
「あれ、おかしいな、この前これで、兄さんのファスナーは直ったのに……」
生瀬さんはそう言いながら、髪をかき上げて耳にかけつつ、さらにぐっと顔を近づけた。
森田君は良く知っているが、生瀬さんは基本的に善意しかない人だ。
困っている人は放っておけない。
だからおそらく、まったく気づいて居ないだろう。男の子のズボンのチャック付近で、女の子が悪戦苦闘するというその絵面の意味に。
森田君は健全な思春期の男の子として、なにかそう、とてもいけない事をしている気になって来たので、とりあえず自分の頬をグーで殴った。聖なるイコンを前にして不埒な感情をわずかでも抱くなど、信徒として歯の一本や二本は覚悟すべき大罪である。
森田君の自省の一撃に、しかし生瀬さんは驚いて顔を上げた。
「も、森田君!? ど、どうしたのっ?」
「なんでもないよ、生瀬さん。ちょっと奥歯がかゆかったんだ」
「そ、そうなの? そこそこキレのある音がしたけど……」
「かゆみがひどくて、ははっ」
森田君は朗らかに笑いつつ、内心では念仏のように唱えていた。
(生瀬さんは天使、生瀬さんは天使、生瀬さんは天使っ、天使だから天然、天使だから天然、天使だから天然っ、なにより女神、とにかく女神、女神だから、やらしくない!!)
森田君はこうして、色んなものを乗り切った。森田君のズボンのチャックは直り、その頃には、モルタルもしっかり固まっていた。
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