第3話
2
保羽リコの自宅は森田家の隣にあった。
柵の意味をなしていない柵によって、仕切る気の無い仕切りをはさんだ小さな両家は、深い付き合いだ。家に一人残される事の多い森田君の面倒を、保羽家の住人は何かと気にかけた。食卓を囲む事は当たり前。合鍵はもちろん、呼び鈴を鳴らさずに玄関をくぐり、冷蔵庫を開けて台所を使っても見咎められない。
しかし森田君も高校生となれば、親しくとも最低限の礼は身に付ける。
「お邪魔します。おばさん、居ますか?」
森田君は玄関からそう呼びかけた。
奥から現れたのは保羽家の世帯主にして、リコの母親だった。
買い物にでも出かけようとしていたのか、外套姿でエコバッグを持っている。はきはきとした雰囲気と、明るく意志の強そうな目鼻立ちは、保羽リコと良く似ていた。
「あら、清太くん。と……生瀬ちゃんね。いらっしゃい、どうぞ上がって」
保羽リコの母親はそう言って手で招いた。
森田君にひき続き、生瀬さんも保羽家の玄関に上がった。
「こんにちは。お邪魔します」
生瀬さんは丁寧な口調であいさつした。
生瀬さんも様子が見たいとの事で、森田君について来ていたのだ。
保羽リコの母親は靴を履きつつ、森田君と生瀬さんを微笑ましそうに見ている。
「二人とも、お見舞いに来てくれたの? ごめんねぇ、心配させて。あの子、別に病気とかじゃなくて、ズル休みに近い感じだから。……ちょっとリコ! 聞こえてるでしょうっ!? 清太くんと後輩が来てるわよ!! 顔くらい見せたら!?」
母親が二階に呼びかけるも返事は無い。
「こんな感じで、柄にも無くふさぎ込んでるみたいで。まっ、あの子、立ち直りも早いから。二日くらいすればケロリとしてるわ。心配しなくて大丈夫よ」
こういうサバサバして、保羽リコの扱いがやや雑なところは香苗に似ている。むしろ、香苗がこの人から学んだ、と言った方が良いかもしれない。
「それじゃ私はちょっと買い物に行ってくるから、勝手にくつろいでて。清太くん、お客さんのおもてなし、よろしくね。それじゃ」
闊達な母親はそう言い残し、さっさと出かけてしまった。
玄関に取り残された森田君は、生瀬さんと顔を見合わせる。どうしようか、というアイコンタクトを取ると、生瀬さんが保羽家の二階を手で示した。
「とりあえず、リコ先輩の様子を見にいかない?」
「そうだね」
森田君は頷いて、二階へと上がり、保羽リコの部屋をノックした。
返事は無い。
もう一度ノックするも、ドア越しにも気配が感じられない。
言い知れぬ不安が森田君を襲った。
思い詰められた人間が選んでしまう最悪の結末が、森田君の脳裏をよぎってしまう。
生徒会長であるヨロズ先輩をトランクケースに入れて運び、山中に穴を掘って埋めるというその過程で、風紀委員長である保羽リコと森田君は一悶着あったのだ。
森田君はドアをさらにノックし、ノブに手をかけて回すと、鍵はかかっていない。森田君はゆっくりとドアを開けながら、薄暗い部屋の中へと呼びかけた。
「リコ姉ぇ? 入るよ?」
「ぴゃあぁあああッ!? いやぁあああ、開けないでぇ!」
ベッドの上にいた保羽リコは、森田君と目が合うなり悲鳴を上げた。
「リコ姉ぇ、ボクの話を――」
聞いてほしいと森田君が近寄ろうとすると、保羽リコはベッドから転げ落ちるように自室の片隅へ寄って身を縮ませた。
光を浴びると灰となって消えてしまう吸血鬼のようだった。
「こないでぇ! 見ないでぇ!」
掛け布団と毛布に頭から包まって、保羽リコはがたがたと震えている。
森田君は困り果てた。
部屋に立ち入る事が出来ないでいると、生瀬さんに肩を叩かれた。
「私に任せてくれないかな、森田君?」
「でも……」
「今はその、まだ、森田君は出て行かないほうがいいと思うから」
「……うん、わかった。おねがい、生瀬さん」
森田君は一階へと下がり、生瀬さんは軽く呼吸を整えて部屋へと踏み入った。
「リコ先輩、お邪魔しますね」
生瀬さんが呼びかけると、森田君の時とは違い、保羽リコに過剰な反応はない。生瀬さんのほんわかした雰囲気がそうさせるのか、保羽リコは落ち着きを取り戻したようでもあった。
それでも毛布に頭から包まって身を震わせ、保羽リコはぶつぶつと呟いている。
「清太に見損なわれた……清太に嫌われた……もう生きていけない……もう、だめ……」
「そんなことないですよ。森田君、リコ先輩の事、とっても心配してました」
「うそっ、うそよ、生瀬は優しいからそう言うの! こんなお姉ちゃん、嫌いなっちゃったに決まってる! 職権乱用して、自分一人で先走って、盛大にずっこけて……」
保羽リコはそう言って、ぶわっと目元に涙をためた。
それっていつものリコ先輩と、どこがどう違うんだろう?
生瀬さんはそう思ったが、空気を読んで口をつぐんだ。
「でもリコ先輩は、森田君の事を想って行動した訳じゃないですか」
「……うん……」
「だったら、森田君だってリコ先輩のそういう想い、分かっていると思いますよ。いいえ、絶対分かってます。森田君、さっき話を聞いて欲しい、って言っていたじゃないですか」
生瀬さんがそう言うと、保羽リコの肩が落ち着きを取り戻した。
もう少しだなと、生瀬さんは続けた。
「ずっとずーっと、リコ先輩と森田君は家族みたいな付き合いしてる、って、言ってましたよね? だったら、ちょっとくらい、ケンカすることがあったって、仲良しに戻れますよ。森田君は優しいし。リコ先輩のこと、嫌いになったりしませんよ。大好きなんですよ、絶対。だから仲直りしたくて、さっきだってああして、やって来たんじゃないですか? だから、ちゃんと話を聞いてあげないと、森田君だって辛いだろうし――」
「せ、清太が……辛い? わ、私の、せいで……?」
「……へ? あ、いや、ちょっとリコせんぱ――」
「……私の、せい……だめだ……最低だ、もうだめだ……お姉ちゃん失格だ……」
保羽リコは再び、ガタガタと震えだした。
らちが明きそうにない。
生瀬さんも諦めず言葉を尽くしたが、何を言っても悪く解釈してしまう。どうしたものかと考えあぐねていると、ぱんぱんと手を叩く音がして、生瀬さんは振り返った。
「はいはい、生瀬ちゃん。もういいわよ」
いつの間にやら、生瀬さんの背後に香苗が立っていた。
風紀委員会の仕事を切り上げてやってきていたらしい。森田君や生瀬さんと、香苗も考えることは同じだったようだ。香苗は生瀬さんの肩をポンポンと叩いた。
「お守り、あんがとね、生瀬ちゃん。あとは私がやるから、下でお菓子でも食べて、帰りなさいな。もうすぐ暗くなっちゃうし、ぐっと冷えて来るはずだから」
気だるげにそう言って、香苗はひらひらと手を振った。
それでも保羽リコの傍に居ようとする生瀬さんを、香苗は有無を言わせぬ勢いで部屋から追い出した。階段を下る生瀬さんの足音が無くなるのを待ち、香苗は振り返った。
「……で? 後輩に無様な格好晒して、リコ、あんたの気は済んだ?」
「開口一番、かける言葉がそれ!?」
「それ以外にある? かける言葉」
「どうせあたしの事、めんどくさい女だと思ってるんでしょっ?」
「思ってないわよ。ほんっと、めんどくさいわねぇ……」
「思ってる! 思ってるじゃん!?」
「はいはい、思ってない思ってない」
香苗が遠慮なく雑に答えると、保羽リコは両手をぶんぶんと振り回した。
「そういう『手間のかかるアホな女だなぁ』みたいな顔、やめて!! あと言葉が雑っ、あたしが今すっごく傷ついてるの分かんないの!? それでも友達!?」
「手数の掛かるクソガキみてぇな女だなぁ、ほんと」
「笑顔で朗らかに言うのはもっと止めて!! 心がえぐれるから!」
「ま、んなに怒れる元気がついたんなら、まったく問題なさそうね。明日はちゃんと登校しなさいよ。あんたが居ないと、色々と回らないんだから」
香苗はどかっとクッションに腰をおろし、身体を伸ばしてオヤジの様にだらしなく横たわり、欠伸しながらそう言った。保羽リコはこれ見よがしに突っ伏した。
床に転がったクッションに顔をうずめ、保羽はぽすぽすとクッションを叩いている。
「ううぅ、銀野ヨロズに清太を盗られるなんて。よりにもよって、あんな変な女に……」
「んー、より変な女であるあんたには、ラッキーじゃない?」
「はい?」
「森田清太は多少エキセントリックな人でもちゃんと好きになれる子なわけだから、あんたの事だって嫌いになったりはしない、って事でしょ」
「夢も希望も無くなったのに、変な慰めなんて――」
「男と女なんてくっついたり離れたりするもんよ。時々で磁極の代わる磁石みたいなもんなんだから。くっついてばっかり、って訳には行かないでしょ。結婚した人達ですら三割は破局するんだから。あんたがどーしても気に入らねぇ、ってんなら、離れた時にかっさらってしまえばいいのよ、んなもんは」
「……ど、ドライね、香苗……」
「んーまー。ウチは両親がそんな感じだから。おんなじ相手と再婚二回目よ? 根気が良いのか悪いのか、ほんと意味分かんないんだから」
「そんなもんなの?」
「そんなもんよ、世の中。けっこうガバガバだから、司法や警察、うちの学校には風紀委員会が必要なんでしょうが。今さら何言ってんの」
励ましの言葉なのかすら怪しい香苗の適当な返事に、保羽リコは元気づけられたようだった。頭からすっぽりかぶっていた毛布が、いつの間にか床に落ちていた。
「ありがと……ちょっと具合が良くなったかも……」
「そりゃどうも」
寝転がって漫画を読み始めながら、香苗は興味なさそうにそう言った。風紀委員会のナンバー1と2の関係は、だいたいこんな感じであった。
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