第26話




     24



 トランクケースを引いていた森田君は、生瀬さんからの連絡に気付いた。

 どうやら風紀委員会に感づかれたらしい。森田君へと追っ手が放たれたそうだ。生瀬さんが校門のところで、追跡に向かう風紀委員たちの一体を見かけたらしい。


(まずい、ペースを上げないと)


 森田君はそう思った。

 そう思えども、走る事はできない。


 トレーニングの効果を実感できる程度にはなっているが、それでも森田君はアスリートでもなければ、ましてや超人ヒーローでもない。


 身体に無理をさせれば必ずその歪はどこかで出て来る。

 投入された風紀委員は、ほとんどが運動部だろう。事故を起こさないよう、風紀委員会はなるべく追跡に自転車を使わないのが、唯一の救いだ。


 それでも、バス停まで間に合うのか。仮にバス停まで行けたとしても、バスがやってくるまでに追い付かれてしまうのではないか。

 その不安が森田君を苛立たせた。


(それに、こちらのルートが、もし風紀委員会に予想されていたら――)


 途中で待ち伏せを受ける事になるかもしれない。

 森田君はそう思い、考えてしまう。


 ルートを変えるべきか?

 いや、駄目だ。

 森田君は首を横に振った。


(風紀だって人員は無限じゃない)


 森田君が風紀なら、駅前付近で重点的に張っておく。

 いたずらに探し回るより、やって来そうな所に配置する方が得策だ。だが、森田君は風紀委員会の不意をついているのだ。待ち伏せの確率は低いだろう。


 ペースを考えるには、ルートの変更は致命的な大量の消耗を引き起こす。

 森田君はヨロズ先輩の入った重いトランクケースを引いているのだ。


(……落ち着け。目的地は山の中腹だ。焦って力を出し過ぎれば、途中でへばってしまう。ペース配分を崩すな。練習通りに、落ち着いていくんだ)


 森田君が自分に言い聞かせていると、行く手に人影が現れた。


 森田君は驚いた。

 その人影はなんと、つい先ほど森田君に道を示してくれた山下だったのだ。


「連絡を受けた。急げ、追っ手が掛かっている」


 一年生のはた迷惑な明星こと、山下は颯爽としていた。


「事情は知らんが助太刀するぞ、森田」

「な、なぜ?」


 森田君が戸惑っていると、山下はすっと目元を細めた。


「おっぱい材質リスト……いや、その話はよそう。なに、気にするな。土下座愛好家の同志のため、そしてかつて受けた御恩に報いるだけだ。行け、森田……」


 どうやら生瀬さんの差し金らしいと、森田君は気付いた。

 生瀬さんが気を利かせて、援軍として山下を派遣してくれたのだ。


 今この場において、山下は重要な戦力だ。しかし、森田君は躊躇った。なにせ山下の身が風紀委員会の爪牙の前に晒されることになるのだから。


「でも、そうしたら山下、キミが――」

「武士道とは、逮捕される事と見つけたり」


 山下はそう言った。

 いろいろと突き抜けすぎていて逆に清々しいほどの断言だった。


「や、山下…………それは武士道への冒涜だ…………」

「構うな。本懐を遂げよ。ここは俺が食い止める」


 山下の声は剣術の達人の如く、深く静かだった。

 見事であった。

 山下は見事な変態であった。


 同級生であってもよほど親しい相手以外は呼び捨てにしない森田君でさえ、山下に対して『君』や『さん』はつけない事からも、山下の人柄が滲み出ている。


 日戸梅高校の変態ランキングで上位の座をかけ、日夜激闘を繰り広げてきた男だけはある。この男と激闘を繰り広げられる逸材が在籍するというのも、日戸梅高校の凄まじい部分ではあるが、それはともかく。


 山下の両の眼は変態として淀みなく磨き抜かれ、コンタクトレンズよりもなおギリギリまで磨き抜かれ過ぎたが故に、これ以上ないほどすり減っていた。


 山下の学生服は縦に切れ込みが入っており、マジックテープで服の形を保てている。テープをはがせば一枚の布へと瞬く間に変化し、脱衣する事が可能であった。無論、山下が己で縫いあげたオリジナル・ハンド・メイドだ。ブランド名は『ねいきっど・YAMASHITA』。いずれはパリコレで喝さいを浴びる予定すら持っている。


 いついかなる時も咄嗟に全裸になるための備え――それはさながら、いついかなる時も敵襲に備えて帯刀する武士を思わせた。


 常在戦場、常在変態。

 もはや揺るぎない精神美すら感じさせる。


「任せた、山下。ありがとう」


 そう礼を述べて森田君が過ぎ去ってほどなく、山下の目は風紀委員の一隊をとらえた。


 その数、五人。


 対するは山下、たった一人。パンツを脱ぐ事に関して彼の右に出る者は居ないが、拳を交える事に関して彼の左に出る者は居ない。小学一年生の女の子にすら足蹴にされる。むしろ足蹴にされたい。山下はそういう男だった。


 一対五。

 絶望的な数字だ。


 相手は風紀委員であり、柔道部や剣道部、空手部などから選抜された猛者だ。将来は警察のSATや陸上自衛隊のレンジャーを目指す者も居る。強靭な肉体に加えて、悪や邪魔者を許さぬ不屈の精神の持ち主たちだ。


 しかし山下は一歩も引かなかった。

 相手にとって不足はない――山下は上唇を軽く舐めた。


 車通りに注意しながら公道のど真ん中に立ち、歩道の連中の注意を引く。集まる奇異の視線は、汗を拭い去るそよ風のように心地が良い。


 山下は他人の視線を鋭く感じられる。他者の感情や考えを鋭く感じ取る能力が無ければ、特殊な行為は無味乾燥なモノにしかなりえず、その行為によって得られる芳醇な達成感や解放感、満足感が違ってくる。一般常識・感覚を誰よりも心得ているからこそ、それを破る事にとてつもない価値を見出すのだ。


 己の感情のみに喜びを見出す、感受性の乏しい低劣な変態ではない。人と人との繋がりの中に幸福を見出す高尚な変態、それが山下だった。


 風紀委員は公道のど真ん中に居る男を認識したが、しかし、『誰か』まではまだ識別していない。山下はそう察知していた。


 良い。

 実に良い。

 それでこそ技が光ると言うものだ。与える衝撃は大きくなる。


(まだだ……)


 敵との距離が遠い。

 最大の効果を得られない。

 遠くても近くてもダメだ。弧を描く刃は物打ちに必殺の力を宿すもの。先走りそうになる心を叱りつけ、恐怖と羞恥心を押さえこみ、解放の瞬間へ神経を研ぎ澄ます。


 顔は俯き加減。

 マジックテープという鯉口をきり、柄と鞘にかける指の圧力が増すように、山下は上着とズボンに手をかけた。


 自室で、更衣室で、校舎屋上で、夕陽に彩られた誰も居ない教室で、何度となく繰り返してきた動作。いずれは道行く女子大生などに披露すると心に秘めている。


(まだ……まだ――今っ!!)


 衣服の鞘から放たれた抜き身。早すぎて脱衣の瞬間が見えないほど。もはや達人の放つ居合い切りに近く、一瞬の動作は流水を思わせるほど滑らかだ。

 当然、山下はどれほど寒かろうと、上着の下にTシャツや防寒具などを着る軟弱者ではない。靴下ですら時と場合によっては邪道と考えて居た。


 例えこの場所が南極大陸の死の寒風を耐え忍ぶペンギン達のど真ん中であったとしても、山下の熱き心の前では、春の風に撫でられる草原でしかない。


 風紀委員たちの動揺は尋常ではなかった。


「なっ、なんだ!?」

「きゃあああぁぁああああ、変態!!」

「ん? 貴様――一年の山下だなっ!!」

「なに!? 風紀ブラックリストのトップページに名がある、あの一年かっ!?」

「校内では飽き足らず、とうとう一般公道でこのようなっ!」

「血迷ったか不埒者め!!」


 口々に風紀委員は非難したが、山下にとってはご褒美でしかない。

 山下はまるで躊躇せず、その身を翻した。


 風紀委員の一人――香苗が血相を変えている。


「ま、待ちなさい山下くんっ。こら、山下! 動くなっ、止まりなさい。こら、逃げるなっ! 追え、追えぇええええ! とにかく捕まえて服を着せるのよっ!!」


 香苗の命令に、三名の風紀委員が山下を追い始める。

 白日のもとに晒された、山下の肉体美。


 森田君が向かった方向とは違う方へ、山下は全力ダッシュしていた。山下は脚力の鍛錬を一日も怠っていない。もしなぜかと問えば、山下はおそらく次のように答えただろう。


「すぐに捕まる足腰の弱い変態など、飛ばない豚と同じだ」


 このようなフライング豚野郎を野放しにする訳に行かず、また、どんなバカな一年でも停学や退学になってしまうのは可哀相であり、大事になる前に対処できるならばそれに越した事は無い。風紀委員たちは山下追跡へ人員を割いた。


 風紀員達はいずれも厳しいが、人情に溢れた者達でもあったのだ。

 悲鳴、困惑、呆気、心配、不安、茫然。山下の通り道には人々の感情が炸裂した。山下の目的地に気付き、風紀委員は顔面蒼白になった。


「止まれぇええええ! 山下ぁあぁあぁああ!!」

「待てこらぁあああああぁ!!」


 風紀員達の怒声が強く激しく、どんどん粗暴になってゆく。


 山下の目的は一つだけだった。

 風紀委員の一隊を森田君追跡から逸らす。山下は一途な男であり、それ以外をまったく考えて居なかった。これは真実だ。山下自身も神に誓える。しかし、思考を超越した押さえきれないパトスに、山下の身体は知らず知らず動かされていた。


 商店街。

 しかも駅前。


 いかなる時も大勢の人がいる場所。監視カメラ天国。もちろんの事ながら、人が密集する場所でもあるため、警察官が常駐する交番がある。


 山下は武士であり、かつ紳士であった。

 彼を誤解している者にはそう見えなかったろう。


 しかし全裸では無かったのだ。


 肌色とほとんど同じブーメラン・パンツをはいていた。

 さらに脱衣と共に巧みなポージングを決めており、一糸まとわぬ姿であると風紀委員たちに錯覚させていた。


「マジックテープ付きの自作服が風に飛ばされただけです!」


 仮に逮捕されてもそう言い張るつもりであった。


 山下は技巧的な男であり、法に触れない男だった。

 無駄な討ち死にを尊ぶような、その様な武士道精神ではない。


 脱いで走って捕まっても、それで終わりではない。再び社会に出てくる。再び社会で脱ぐために。警察権力とのぎりぎりの攻防を制す。

 次につなげる。


 山下の精神は極めて高い水準にあったのだ。




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