第25話




     23



 さらなる揺さぶりを仕掛けようと、保羽リコは香苗と共に生徒会役員室を訪れた。いつもの生徒会役員なら、下校せずにまだ校内に居るはずの時間だ。

 しかし保羽リコが確かめると、生徒会役員室には鍵が掛かっており、職員室に行くと教師が言った。


『鍵なら副会長が返しに来たわ。今日は早めに切り上げるそうよ』


 教師のその言葉を受けるなり、保羽リコの決断は淀みなかった。


「香苗っ!!」

「あいよ!!」


 以心伝心。

 香苗はすぐさま職員室を飛び出し、現在校内に居る風紀委員に招集をかけた。保羽リコは職員室に残り、きょろきょろと周囲を見回した。


 そんな保羽リコに応えるように、


「ああ、反吐がでそうだわ。この臭い……」


 職員室の隅から、女性の低い声が聞こえた。

 そして、のっそりと身を起こす女教師の姿が、保羽リコの目に入る。


 風紀委員会最大の支援者にして、特別顧問。猛獣・東原先生がむくりと上体を起こしているところだった。

 東原先生の額には赤い痕があった。

 机に突っ伏して寝ていたらしい。


 東原先生はその邪悪な目をらんらんと輝かせ、生まれたての小鹿の臭いを感じ取った飢狼のように、鼻頭を上に向けて、くんくんと何かを嗅いでいる。


 座右の銘が『一人でも多くの若者に、実り少なき青春の荒野を歩ませる』という女教師である。なぜ教員免許を取ったのか、日戸梅高校の七不思議の一つになっているほどだ。

 東原先生は嗅いだ臭いの正体を確信したような顔をして、保羽リコを見た。


「この臭いは……甘酸っぱい青春の臭いね? でしょう、保羽?」

「東原先生、実は――」

「小鹿の追い込みは仲間が始めた、けれどトドメの牙をのど元に突き立てる待ち伏せには、先回りのための足が必要……そういう事ね?」


 香苗に匹敵するほどの、以心伝心。


 青春への負のパワーが東原先生に超能力に近い洞察力を与えているのだ。教職にも同じ分量のエネルギーを割くことができれば、名の轟く名教師となれたかもしれないのにと、惜しむ同僚たちの声はやまない。さすがは風紀の暗黒面の体現者だと、保羽リコは感心した。


「お見事です、先生」


 保羽リコが頷くと、東原先生は手招きして職員室を出た。

 こういう時の東原先生の悟る能力は、釈迦のそれに近しいものがあるかもしれない。


「ついてきなさい、保羽。車を出す」

「ありがとうございます」


 正面から立ち向かえばこれほど恐ろしい女教師はそうそういないが、背中からついていく分には、これほど頼もしい女教師も居ないだろう。


 しかし駐車場へ向かう途中で、東原先生の早足がぴたと止まった。

 ある人物が立ちふさがったのだ。


 とても大柄な男性教諭。東原先生は、その男性教諭と対峙した。


「どういうつもりですか? 厳島先生」

「それはこちらの言葉です、東原先生。……少し目を離した隙に、どこへいこうというのですか? ……やはり、銀野の言っていた通りでしたか」


 立ちふさがった男性教諭、それは生徒会顧問でもある凶相・厳島先生であった。

 まだ一度も校舎内で警察に捕まった事が無い、という事実に驚かれるほどの人相の悪さは、いつにも増していた。厄介な相手だと、保羽リコは奥歯を噛む。


 どうやら森田君側も、風紀委員会の動きを読んでいたようである。保羽リコたちが東原先生を動かすと読んで、厳島先生に警戒を促していたらしい。

 まずい状況だ。だが、東原先生は怯まなかった。


「厳島先生、急用ができたので、そこをどいて頂けませんか?」

「ダメです」

「父が危篤なんです」

「先週はそのお父さんの三回忌だからと、行事をすっぽかしたでしょう」

「間違いました。母が危篤なんです」

「私が聞いただけでも、あなたのお母さんはもう三回ほど死んでいます」

「不死身の母なんです」

「東原先生、まだ、仕事が残っています」

「お願い。わたしの心がぐつぐつ煮える、恋を潰せと轟叫ぶのよ……」

「そもそも、あなたの仕事だったものです。私一人に押し付けるつもりですか?」

「…………」


 日戸梅高校で最も禍々しい女と、もっとも凶相の男が、通路で相対している。

 実際そんなはずはないのだが、視線と視線がかち合っただけで、地鳴りに似た振動を保羽リコは確かに感じ取った。あまりの気迫のぶつかり合いに、植え込みでくつろいでいた雀の群れが一斉に飛び立ち、ブラスバンド部の子たちが演奏を止めて身を低くし、何事かと校長室から顔を出した校長先生が慌てて部屋に引きこもった。


 これは血が流れる……保羽リコがそう覚悟したその時だった。

 厳島先生の正論に対して、東原先生が折れた。


「保羽」

「はい」


 東原先生はスマホを取り出して操作すると、保羽リコへ差し出した。


「もうすぐタクシーが来るから、使いなさい。五千円まで自腹切るから。全力で、青春の萌芽を摘み取って来るように」

「……は、はい」


 ぎょろりと横目で見据えられ、保羽リコは冷や汗と共に頷いた。 

 ただの五千円ではない。


 学生食堂の素うどんさえケチり、水道水ダイエットと言う名の哀れな食生活をしてでも、ホストに貢ぐかの如く風紀委員会の活動に資金援助を怠らない。あまりに哀れな昼食に涙した美人保健医が差し出した手作り弁当さえ、男子学生に売り飛ばして金に変えようとした、その東原先生の五千円なのだ。血と涙と、青春への敵意が生んだ五千円なのだ。



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