第19話
17
「ふぅ」
額に滲む汗をぬぐい、生瀬さんは一息ついた。
張った腕回りを揉み解しながら、縁側に腰を下ろす。時計を見やると、思ったよりも時間が経っている。
慣れていないせいか、穴掘りはなかなかの力仕事だった。
森田君は穴掘りの練習を重ねていたのだろう。
生瀬さんが見る限り、庭には掘り返した跡がたくさんある。
庭の隅にレンガが積んであった。親に疑われないようにするため、花壇でも作ると言っていたのだろうかと、生瀬さんが想像していると――
呼び声がして、玄関戸の開く音がした。
「――っ!?」
来訪者に戸惑いながらも、応対せねばと生瀬さんは腰を浮かす。
「清太ぁ、いないのぉ!?」
そう呼びかけながらずかずかと入って来たのは保羽リコだった。森田君から聞いていた話と違う。書店や雑貨屋巡りで、保羽リコは出掛けているはずだったのに。
さっそく雲行きが怪しくなっている。
生瀬さんは嫌な予感がした。
保羽リコと目が合い、生瀬さんはびくついた。
「生瀬? ……なにしてるの、こんなとこで?」
「お、お花を植えるらしくて、森田君が。そのお手伝いを」
「へぇ……清太は?」
当然のようにリビングまでやって来て、保羽リコは庭を見ている。
「材料が足りないらしくて、いま、お買い物に出かけてるんです」
生瀬さんがそう答えるも、保羽リコに疑った様子はない。
「そうなの。……この前、清太にお願いされたのって、これのこと?」
「え、ええ、まあ」
生瀬さんがぎこちなく頷くと、保羽リコの目がじっと見つめてきた。
「このことで、清太がわざわざ土下座を?」
「いえ、そのほかにも、もう一つ二つ、どうしてもと頼まれ事を受けたので」
「そうなの。あの子ったら、生瀬をほったらかしにして。段取りが悪いんだから」
保羽リコは周囲をきょろきょろと見ている。
生瀬さんは首を傾げた。
「ところで、リコ先輩はどうしてここに?」
「ちょっと清太に聞きたい事があったのよ」
保羽リコは台所へ行き、二人分のお茶をいれて戻って来た。
森田家でありながら、まるで我が家のような振る舞いだ。
「はい、生瀬。あ、そうそう、おかきとクッキー、どっちがいい?」
「いいんですか? 食べ物とか、勝手に……」
生瀬さんが慮ると、保羽リコは大丈夫よとからから笑った。
「小さい頃から、ご飯作りに来たりしてるし。勝手知ったる、ってやつよ。清太が風邪ひいた時の看病とか、おじさんは家を空ける事が多いから、代わりに私やウチのお母さんがね。食材とかウチで……保羽家でまとめ買いしてこっちの冷蔵庫に入れとく事もあるくらいで。おじさんに頼まれて、合鍵も預かってるくらいだから」
保羽リコの口ぶりは平然としている。
保羽家と森田家にとっては、ごく当たり前の事らしい。
以前から姉弟のように仲が良い二人だと生瀬さんは思っていたが、なるほど家族同然だ。それよりも、生瀬さんは意外に思う事があった。
「リコ先輩って、お料理できるんですか?」
「出来ないように見える?」
「いえ、その……なんていうか……」
生瀬さんが言葉を濁すと、保羽リコは明るく笑った。
「ははっ、いいよ、別に。よく言われるからさ。調理実習の時に『あんたは女子力の栄養バランスが偏りすぎてる』って香苗に言われたし。……生瀬は、料理するの?」
「はい」
「生瀬は割烹着が似合いそうよね」
「そんなに凝ったものは出来ないんですけど、ある程度なら。その……やらなければやられる世界で生きてきましたから………」
戦地帰りの兵士がトラウマでも思い返すような様子で、生瀬さんは答えた。
保羽リコが訝しんでいる。
「……? りょ、料理の話、よね?」
などと話していると、瞬く間に五分を過ぎていた。
(ちょっと、時間、かかりすぎてる、よね……? これ)
生瀬さんの背中がじんわりと汗ばみ始めた。
森田君を掘り起こすはずの予定時刻から、大幅に遅れてしまっている。
しかし、動くに動けない。保羽リコがいるのだから。
(リコ先輩にとっては森田君の家に長居するのなんて日常的な事なんだ。料理のお話を膨らませて、料理本をリコ先輩の家からとってきてもらう隙に、森田君を掘り出す? でも、リコ先輩の家は隣だし、そんな時間は稼げない。どうしよう? どうすれば、リコ先輩をこの場から遠ざけて、かつ、私一人がここに残っている、そんな状況に自然に持っていく事ができるの? こ、このままだと、森田君がずっと地面の下に――)
生瀬さんが思い悩んでいると、保羽リコが庭のほうを見た。
「ところでさぁ、生瀬」
「……なんですか?」
「さっきから気になってたんだけど、あれ、なに?」
保羽リコに尋ねられ、生瀬さんは答えに窮した。
保羽リコが指さした先だ。
掘り返された土から、ビニールの管が飛び出していたのだ。
あれが何かと問われればホースであるし、なんのためにあんな事になっているのかと言われれば、土の中でも息をするため、である。
だが、そんな正解は答えられない。
生瀬さんの額にじっとりと、脂っぽい汗が浮かんだ。
「……生瀬? どうしたの? すごい汗だけど?」
「そうですか? こ、このお茶で、体がほてっちゃったのかなぁ」
生瀬さんが辛うじて誤魔化すも、保羽リコの追及は止まらない。
「で、あれは何なの? なんで、土からホースが生えてるの?」
「……なんでも、ああすると土の通気性が良くなる……って、森田君が言ってました」
「へぇ。そんな話、聞いた事ないけど」
「私もです」
生瀬さんはすべてを森田君の自説という事にした。すると保羽リコが庭に降り立ち、掘り返された土を眺めている。生瀬さんは気が気ではなかった。
保羽リコは庭の様子を眺めながら、ホースへと手を伸ばした。
「先輩!?」
生瀬さんの呼吸が乱れた。
保羽リコがホースに手を掛け、引き抜こうとしたのだ。
「だめです! それは抜いちゃダメです! 森田君が命がけで植えたホースですから!」
「そ、そう……なの?」
「はい!!」
生瀬さんの尋常ならざる迫力に、さすがの保羽リコもホースから手を放した。
「それにしても遅いわね、清太。まったくもぅ」
保羽リコがスマホを取り出して、おもむろに耳に押し当てた。
森田君に電話をかけている。生瀬さんの口の中はからからに乾いた。
それは本当に微かな音だった。
神経がとがり過ぎていた生瀬さんだからこそ、聞こえているのかもしれない。片方の耳にスマホを押し当てている保羽リコには、聞こえにくいはずだ。
生瀬さんとて、頭ではわかっている。
だが、心が追い付かない。
内心では滝のような冷や汗を流しつつ、土中の音と保羽リコとの間に、生瀬さんは自分の身体をもって行った。苦肉の防音壁のつもりだった。テレビを大音量でつけたほうがよっぽど良かったと気づいても、時すでに遅しでしかない。
自然に動いたはずだった。
しかし生瀬さんの目を見つめると、保羽リコの視線が、生瀬さんのお腹の方へとゆっくり下がって行く。肉の防音壁を叩く、か弱い呼び鈴を感じ取ったように。
そして再び、保羽リコの視線が生瀬さんの瞳へと戻って来た。
学校ではポンコツ風紀委員長だの、暴走超特急だの、機械仕掛けの早とちりだの、陰に日向に散々な評価の保羽リコである。しかし、生瀬さんは気付いている。そんな評価をされていながら、「あの風紀委員長は失格だ、不適格だ」と言っている生徒を、「あの人よりもっと上手く風紀委員会を動かせる」と言っている風紀委員を、不思議な事に見たことが無い。良くも悪くも真っ直ぐな保羽リコの眼差しに、生瀬さんは息をのんだ。
時間にして数秒。
しかし生瀬さんには、ひどく長い数秒であった。
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