第17話




     15



「生瀬、どういうこと!? 清太と婚姻届に印鑑を押したって噂が出回ってるけど!?」


 背後からの一声に、図書館へと向かう通路で生瀬さんはつんのめった。

 生瀬さんが振り返ると、保羽リコが血相を変えて立っている。


(めちゃくちゃだ)


 生瀬さんは頭を抱えた。


 昼休みから三時間も経たないと言うのに、ここまで曲解された情報が出回っている。しかも風紀委員長がすっ飛んで来るとは、森田君の言っていた『アルゼンチンで国民的話題に~』というのも、あながち冗談で片づけられる話しではないかもしれない。


「あの、リコ先輩、違います」


 生瀬さんは手をぱたぱたと振りながら、保羽リコの誤解を解くべく言葉を選んだ。


「違うんです。印鑑なんて押してません」

「じゃあ母印だったと?」


 天然ボケをかます保羽リコに、軽く脱力しながら生瀬さんは頭を振った。


「そういうことではなくて。その話自体が出鱈目なんです。そもそも年齢的に婚姻届に判を押しても意味が無いじゃないですかっ」


 生瀬さんは力説した。

 日戸梅高校ではよく分からない噂話が一瞬で広がり、一瞬で消える。当事者となってはじめて、なかなか迷惑な風習だなと生瀬さんは思った。


 生瀬さんの力強い声に納得したのか、保羽リコは肩をなでおろしている。


「なんだ、やっぱり」


 保羽リコは安心した様子で続けた。


「じゃあ、校舎裏で清太に土下座されたと言うのも嘘なのね」

「……………………え、えっと、それは、その……」


 思わぬ角度から飛んできた真実の一撃を食らい、生瀬さんは言葉にまごついた。

 その生瀬さんの様子に、今度は保羽リコがぽかんとしている。


「え?」

「あ、いやその、リコ先輩、誤解しないでくださいねっ。森田君からお願い事をされただけで、決していかがわしい事ではっ」


 わたわたと否定した生瀬さんは、己の失策に気付いた。

 これでは不審がらせる一方であり、現に保羽リコは怪訝な顔をしていた。


「……なにをお願いされたの?」

「そ、それは、その………秘密です」


 生瀬さんはそう答えるしかなかった。

 森田君があれほど懸命に、秘密にしてほしいと頼んできた事なのだ。日頃から親交のある保羽リコの頼みであっても、口を割るわけにはいかなかった。


 だが、保羽リコの追及の手は緩まない。


「人には言えない事をお願いされた、という意味? 土下座までされるくらいだもの」

「森田君に秘密にしてほしい、とお願いされたので。約束は破れません」

「こんな事聞かれて気を悪くしたらごめんね。でも私も風紀委員長だから尋ねるんだけど、校則や法律に反する事ではないわよね?」

「はい。第三者に迷惑が掛る様な事では無いです」


 生瀬さんは保羽リコの目を見て、はっきりと言い切った。

 すると、保羽リコは「なら、いいわ」と頷いた。


「そう。……まぁ、生瀬がそう言うのなら、これ以上は追及しない」


 保羽リコはそう言うと、それ以上は生瀬さんに何も聞こうとせず、そのまま別れの挨拶をして立ち去った。ここ最近、保羽リコの思惑の反対側に回ってしまっているな、と感じていた生瀬さんは、裏切っているようで少し居心地が悪かった。


 立ち去っていく保羽リコの背中を見つつ、生瀬さんはふと考えてしまう。


(……えっと、合意の上で人を安全に配慮して埋める場合って、罪にならない……よね? あれ? 下手をすると過失致死罪になる? 幇助罪? それとも遺棄罪?)


 生瀬さんは悩むものの答えは出ず、誰かに相談も持ち掛けられない。

 自問自答するしかなかった。


(だ、大丈夫、よね……? 一応は、嘘は言って無いよね……)


 生瀬さんはそう自らに言い聞かせ、帰路についた。


 モヤモヤしていた生瀬さんは、家に帰ると状況を整理しようとした。

 経験した出来事を上手く心に落とし込む事が出来ず、授業の予習と復習も、クラスメイトから頼まれていた小物の裁縫テキストの作成も、なかなか手につかなかったのだ。


 自室の勉強机に座り、真っ白なノートを前に生瀬さんはペンをくるくると回した。


「森田君は埋められたい系男子で、リコ先輩の話を聞く限りリコ先輩はなにか誤解していたみたいだけど、銀野会長をトランクケースに入れてどこかへ運ぼうとしてて……森田君が埋められたいのは、なにか事情があるっぽくて。たぶん、銀野会長を埋めようとしていて、それはつまり……も、森田君は埋めちゃいたい系男子でもあると言う事!?」


 理解不能な事態を考察しようとすると、次々と新しい言語が生まれるものらしい。


「自分が埋まろうとするだけには飽き足らなくなって、す、好きな人を埋めちゃいたいという衝動が抑えられないとか!? え、ええ!? 銀野会長も森田君に協力的な感じ……というか、銀野会長の方が主導権を握っているみたいだったし。つまり二人は相思相愛と言う事で……いや、相思相埋? えっと、その、えぇ……?」


 考えれば考える程、頭がこんがらがってしまう。


「け、警察に連絡した方が……ああでも、森田君は、そんな危ない人には見えないし」


 蜘蛛を見て気絶したからとはいえ、羽交い絞めにされた挙げ句にトランクケースに詰められ、半分拉致の様な事をされただけには止まらず、さらには自らを埋めてくれと土下座して頼んでくる高校生男子が危ない人には見えない――という生瀬さんはおそらく女神である。あるいは女神に成り損なった、面倒見の良すぎるそこそこ変な人であろう。


「風紀委員会に連絡を……でもそれじゃ、大事に。リコ先輩にこっそり相談して、なるべく穏便に事が運ぶように……ああでも、森田君は秘密にして欲しいって言ってたし、銀野会長とは秘密にするっていう約束が。……そうよね、せっかく私を信じてくれたんだもんね……通報なんて、わたし、酷いな」


 酷いどころか極めてまっとうである。

 今後の森田君の人生を考えるなら、通報してあげた方が良いかもしれない。


 そういった冷静な判断力が、森田君との触れ合いで生瀬さんから消えていた。

 生瀬さんはただただ、校舎裏での森田君の様子を思い出していた。あのカミングアウトもすべて、おそらくヨロズ先輩のためにしていることなのだろう。


 ヨロズ先輩はどうか知らないが、生瀬さんの見る限り森田君はとても懸命だ。


(……森田君の手、ふるえてた……すごいなぁ、あんなになるまで想えるなんて。良いなぁ、あんなになるまで、想ってもらえるなんて。……協力してあげなきゃ!)


 生瀬さんはぐっと両手を握り締め、森田君へとラインを送った。森田君から頼まれていた通り、森田君を穴に埋めてあげる、その都合の良い日を教えてあげたのだ。


 人の恋路はなるべく応援してあげたい。

 生瀬さんはその一念だった。


 女神か、それとも、女神になりそこなっただけの変な人か。

 現状ではおそらく、生瀬さんは女神の方であるらしかった。



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