第7話




     5



 保羽リコは校則の番人である。

 実際そうであるかは別として、少なくとも彼女自身は規則と正しさを愛し、不規則と間違いを憎む、健全なる精神を持っていると自負している。


 風紀委員という職務はサジ加減が難しい。

 仕事に忠実であれば『厳しい。権利侵害だ、権力乱用だ』と言われ、そうでなければ『手緩い。ちゃんと仕事しろ』と言われる。


 何が楽しくて風紀委員などやっているのか、と尋ねる者がある。別に楽しいからやっているのではない。誰かがやらねばならない事で、自分に声が掛ったので引きうけた。そして一度引きうけた以上、保羽リコは職責をまっとうしようと思っただけだ。


 気付けば風紀委員長になっていた。

 ルールなんて知らなくていい、ルールは破るために在る、ルールに縛られるなんてダサい、と考える人間はどこにでも居るので、そうではない事を教える人間がこの世の中には必要である。そうでなければ世の中のバランスが悪くなる。


 それが保羽リコの考えだ。

 なにより、日戸梅高校には風紀委員が必要であった。


 頭脳明晰な連中ばかりが集まって来る訳ではないが、中等教育をちゃんと受けて来なかった者たちでは決して受からない。そういった偏差値の日戸梅高校には次のような言葉が代々語り継がれ、また、近隣の住民や他校からも言われる。


『日戸梅高校は、変人ホイホイである』


 生徒の独立・自主性と創造力を重視するこの高校は、生徒の個性を最大限尊重する。制服もあるが私服でやって来ても良い。頭髪もよほど奇抜な色以外なら、教師も見過ごす。


 保羽リコが一年生の時だ。

 授業初日、登校中の新入生を出迎えたのは、下足室へと続く立派なイチョウ並木――その中の太い木の上でアイロンをかける先輩の姿だった。


 春先だったのでそういう人が出ても不思議ではないが、危ないので保羽リコが教師をつかまえて事情を話すと、その老年教諭は事も無げにこう言った。


「ああ、あれはね、部活動の一環だから」


 エクストリームアイロニング部。部員数二名。

 木の上の先輩は部長だった。


 部員勧誘のための路上パフォーマンスのつもりだったらしい。


「さすがです、部長っ!! ナイス・アイロニング!!」


 樹の下には部員らしき生徒がいた。彼らの基準では『ナイス』らしい。


 部長は早朝から木の上に登り、アイロン台の上で白色のカッターシャツにアイロンを掛けていた。なぜ数ある場所の中で木の上を選んだのか、一体それに何の意味があるのかは理解しかねたが、やっている本人は真剣そのものだった。二年、三年生は『ああ、あの人ね。飽きもせずに良くやるわ』と素通りしたが、新入生はそういう訳にはいかない。


 すぐに人だかりが出来た。

 エクストリームアイロニングというモノに馴染みのある者はそういない。木の下の部員が、部長の雄姿のなんたるかをスケッチブックで説明していた。新入生の耳目を引きつけて気を良くした部長は、さらなるエクストリームなアイロニングを披露すべく、軽業師のように木の上でポージングを決めはじめた。


 枝が折れて落下するまで部長はやり続けた。

 そのとき、樹の下に多種多様なクッションやネットをせっせと用意し、落下したものの命綱で助かった部長を確保し、保健室へと運んでやったのが風紀委員の面々であった。その風紀委員たちの颯爽とした手際の良さに、新入生たちは拍手した。


 保羽リコも拍手した。

 思えば、それが風紀委員となろうと思った理由かもしれない。


 校舎三階の外壁でナイロン・ロープに身をゆだねながら卵焼きを作るような者や、昆虫食の研究成果を披露するたびに料理部部長や購買部のおばちゃんを卒倒させる者、『表現・報道の自由』を笠に誤情報を意図的にたれ流す者、テロ対策研究と称しては過激なイタズラを仕掛けて全校生徒を避難訓練中にパニックに陥らせる者などなどなど。


 こと、日戸梅高校において風紀委員会の仕事は多い。

 保羽リコは真面目に風紀委員として働いた。

 二年生になる頃には、風紀委員長になっていた。


 風紀委員としての活動は常日頃の行動が大切であり、生徒同士の話をふと耳にした事から、風紀の乱れの手がかりを掴む事もある。


 月曜日の朝もそうだった。

 保羽リコが森田君と共に登校すると、校門のところでヨロズ先輩と出会った。


 朝の挨拶を済ませると、森田君は保羽リコから離れた。


「またあとでね、リコ姉ぇ」


 保羽リコが見送る中、森田君はヨロズ先輩と連れ立って去っていく。

 来週の生徒議会の事で、生徒会役員同士、なにやら話があるらしい。


 ごく普通の日常風景だった。

 一般の生徒なら何一つ疑問を抱かないだろう。


 しかし、風紀委員会で鍛えられた保羽リコの勘が、何かを感じ取った。それはヨロズ先輩の視線か、あるいは森田君の声色か。保羽リコは教室や風紀委員会室には行かなかった。


(怪しい……)


 保羽リコは直感のままに、こっそり森田君とヨロズ先輩の後をつけた。

 森田君とヨロズ先輩は、生徒会役員室へと入っていく。


 保羽リコは閉められた戸の前に、足音を消して近づいた。


 盗み聞きをしようとしたのではない。

 保羽リコは風紀委員長である。

 盗み聞きなどという恥ずべき真似はしない。


 たまたま生徒会役員室の前を通ってしまい、たまたまドアの前で上履きを直し、たまたまドアに耳がくっついてしまい、たまたま声が聞こえてきたのだ。


 すべては偶然の産物である。

 保羽リコが耳を澄ませると、役員室の中から声が聞こえてきた。


「土曜日はその、ちゃんとできなくてごめんなさい」

「心配しないで、森田君。言いだした私も、色々と考えが足りなかったのだから。お互い、慣れてはいなかったもの。初めては誰でも失敗するわ」


 朝も早いため生徒は少なく、誰かに聞かれるリスクは低いというのに、その低いリスクすら恐れるかのように聞こえてくる声のトーンは低い。


 聞き間違えはしない。

 ドア越しではあるが、森田君とヨロズ先輩の声だと、保羽リコは聞き耳を立てた。


「でも、ボク、途中でその、力尽きちゃって。情けないと言うか……」

「大丈夫よ」

「そうでしょうか……?」

「ええ。屋内ならまだしも、外でしようというのだから、緊張して必要以上に力が籠ってしまったりするものよ。何度も挑戦すれば、ちゃんと最後まで出来るわ」

「は、はい」

「二人で、何度もやりましょう。森田君が、よければ、だけれど」

「もちろん! ボクもその、中途半端は嫌っていうか、先輩と最後までしたいですから」


 森田君の恥ずかしそうにする声が聞こえてくる。

 ヨロズ先輩の声も妙に艶めかしい。


 保羽リコの受けた衝撃は激しかった。

 あまりの衝撃に、呆然となったのだろう。ふと気づくと、保羽リコは風紀委員会室で椅子に座っていた。今しがた耳にした内容が、こびりついて離れない。


「……ちゃ、ちゃんとできなかった……? 初めては失敗するもの? 途中で力尽きて、外でしようとするとハードルが高い……?」


 さらには、思春期の男女が人の目を気にしてひそひそと話し合う事柄である。

 なにより極めつけは――


「さ、最後まで、できる……?」


 以上の言葉を保羽リコなりに吟味した結果、導き出された結論は『ああ、なるほど。バランスボールを使ったトレーニングの事ね、HAHAHA』などとはならない。


 あの会話の内容は明らかに卑猥なものだ。

 そうとしか保羽リコには思えない。


「せ、清太が日曜日に筋肉痛で苦しんでたのも……つまり、それはその……。ま、まさか、生徒会長である立場を利用して、清太を毒牙に……?」


 保羽リコの声はぷるぷると震えた。


 ただ単純に風紀を乱すのではない。生徒会長という立場でありながら、よりにもよって野外で、しかも森田君を使って乱すのである。


 十八歳未満はお断りな、男と女のくんずほぐれつに決まっている。


 保羽リコの脳裏にロクでもないビジョンが映った。幼かった頃の森田君の顔が浮かび、その顔にヒビが入って砕け落ちたかと思うと、やつれた森田君を四つ這いにさせて椅子代わりにしたヨロズ先輩が、悪女のようにせせら笑っているのだ。


(せ、清太が、汚されている……)


 保羽リコにとっては悪夢以外内の何物でもない。


 そもそも森田君は風紀委員会に入るはずだった。

 保羽リコはそのつもりだった。だというのに、それをヨロズ先輩が横手から「彼には書記をしてもらいます」と掻っ攫ったのだ。役員の人事は生徒会長が握っており、森田君はそれを受けてしまった。ヨロズ先輩のあの独特の雰囲気にやられたのだ。


 みんなあの雰囲気に騙されている。

 中学時分から、ヨロズ先輩の事が保羽リコは妙に気に入らない。そりが合わない。森田君が書記としてヨロズ先輩に使われている事すら、ずっと気に食わなかった。


 その上、今回の件だ。

 あろうことか、野外でとんでもない行為を森田君に強いている。


「……お、おのれ銀野ヨロズ………許すまじ……」


 保羽リコの握りしめた拳が、机の上でわなわなと震えた。


 正義は我にあり。


 保羽リコは部屋の額縁へと目を走らせた。

 風紀委員会室に飾られた額縁には、風紀委員会の特別顧問が走らせた肉筆がある。『粛清あるのみ』という魂の籠った筆遣いが、清々しい朝日を墨の中へと吸い込んでいた。





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