想ひではまどろみに消ゆ
小見川 悠
親愛なる君から君へ
夢を、見たんだ。
とても、長い夢を。
思い出そうとすると消えそうな、そんな夢。
これはそんな話。
その日は疲れていた。とにかく眠りたかった。だからベッドに潜って数秒で眠りに落ちた。
なのに、瞼の裏には暗闇ではなく大自然が広がっている。
呆気にとられていると気づく。
手が動かせる。足が動く、歩けるということに。
これは明晰夢というものだろうか?
少し迷って草花に覆われて緑豊かな地を踏みしめるように歩くことにした。
そういえば久しく旅行には行っていない。
最近は仕事ばかりだったからだろうか。
そうだ、今度仕事が片付いたらどこか遠くにでも行こう。草津の温泉にでも行こうか、などと呑気に考えていたら、ふと誰かとすれ違う。
白いワンピース、少し浮き世離れした様な雰囲気の女性。それらの情報がいま視界の隅に映った。
少し気になったので振り返る。
あちらの方も自分に気づいたのか振り返って来る。
その時、初めて目があって気づく。
彼女は自分と同じ夢を見ているのだと。
◇
「私、伊之瀬 鹿乃 って言うの。よろしくね」
白いワンピースの彼女はそう名乗るとこちらに背を向け歩き出す。
「ここ、不思議な場所ね」背を向けた彼女が言う。
「あなたもそう思わない?」
「あぁ、不思議だ。でも夢なんだろう?
君も、ここも」
「あら心外ね。私は生きてこの夢を見ているわ。あなたこそ本当に夢ではないの?」
そうやって、延々と終わりの見えない問答を繰り返しながら自分たちは歩き続けた。
歩き初めて数分。
他の場所は人の手が加えられていない自然のままの状態なのに関わらず、ここは明らかに人の手が加えられた様子がある。
なぜなら、そこに木製のベンチが設置してあったからだ。
「座る?」鹿乃が聞いてくる。
「……いいと思うよ。休憩も大切だからね」
当たり障りのない、肯定的な意見を返す。
人と話すときには自分の一歩引いた目線で相手を見るべきだ、と自分は考える。
まず鹿乃がベンチに腰掛け、次に自分が少し離れた位置に腰掛ける。
「あなた、どんなお仕事をしているの?」
「人にわざわざ言う様な仕事じゃないさ。でも……そうだな。色々作ってるよ」
「私もね、作ってるの。物語を」
鹿乃は俯きながら言う。
「へぇ……どんな?」
「あなたは教えなかったわ。だから私も教える理由がないわ」
そう言われては否応もない。別に言っても構わないのだけど、何となくそれは気が引けた。
「いま、悩み事とかないの?」
不意に鹿乃が訊ねる。
「別に無いよ。 強いて言うなら休みが欲しい、とか。 そんな神に願ってもしょうがない様な悩みならいくらでも」
「……私は、あるわ」
無理やり茶化した様な話題がお気に召さなかったのだろうか。鹿乃は自分を無視して話し出す。
「自分が、生きる意味」
「……なんだそれ」
彼女の問いに対する、率直な感想だ。
それ以上でもそれ以下でも無い。
ただ、そこには彼女の仏頂面があっただけだが。
「そんな思考放棄した答えなんていらないわよ」
「だって、真面目に考えてないからね」
「そう。誰も真面目に考えようとしない。みんなあなたと同じよ。 なんでなのかしらね」
「多分、答えがわからないからだよ」
「へぇ、つまり?」鹿乃が案外食いついてきた。
「つまりだ。それを一瞬でも考える人はいると思うんだ。 生きていれば誰だって。 おそらく誰かはその答えを見つけるだろう。 でもそれは自分が死ぬまで……いや、死んでからも正しいかはわからないままだ。 そんな答案用紙だけで定義さえも何もなくて答えの提示もされないテストなんて受ける人はいない。
だから生きる意味を探すっていうのはさ、そういうことだと思うんだ」
自分でもこれだけ言えたことに驚きだった。普段からこんな様なことを余計に考えていたのだろうか、と思うくらいに。
「そう、なのね」
そう言って、鹿乃は何かに納得した様に立ち上がる。
「何か、吹っ切れたみたいだね」
「ええ、ありがとう」
風景がぼやけていく。あれほどに緑溢れていた大地はいつの間にか形を失い、何かでかき混ぜた様な世界を映し出していく。
「……お別れみたいね」
「あぁ、一瞬だったけどまぁ楽しかったよ」
そう言い終わると、世界は本当に形を失う。
暗闇の世界へと落ちていく。そんな夢。
何もかもが、夢となって消えた。
◇
目が覚めて、ベットから出て顔を洗って歯磨きをして朝ご飯を食べて出勤する。
これが私の日常。だけど今日は早起きをしてしまった。
いつもより30分は早い。
コーヒーを飲んで時間を潰すのもいいがそれではつまらない。
ふと、思いつく。30分ほど時間を潰す手段を。
そうして私は駅前の大通り、普段は素通りする様な書店に、今日は入店する。
残り25分。
書店に行くのは実に3年ぶりだ。
普段から読み物に接する機会などないからである。
私が接する紙なんて図面や小難しい書類くらいのものだ。
そんな私に本の趣味などある訳も無く。ただ何と無くゴシップ誌の立ち読みをしていた。
本当かどうかもわからない噂話に目を通すのも飽きた頃に腕時計を見る。残り17分。まだまだ余裕がある。
さてどうするかと思って小説コーナーに入った瞬間、何と無く一つの小説に視線が釘付けになる。
『庭園のベンチ』という題名の小説。
作者は
別に小説が好きなわけでも無い。作者が好きなわけでも無い。
けど何と無くその本が読みたくなった。
気づけば私はその本をレジに持って行っていた。
残り10分。私は今、どうして買ったのかもわからない本を片手に駅前のベンチに腰掛けている。
文庫版で税込846円。別に高くないけど地味に気になる値段。
残り10分程度、どうとでもないのだが、別段したい事も無ければする事も無いのだ。
自動販売機で大して美味しくないけどアツアツの缶コーヒーでも買おうかとも思ったが気が進まない。
スマホを触っていても落ち着きはしない。
ならもう選択肢は一つだけ。
小説を読む事だった。
感想だけ言おう。面白かった。
読み始めたら止まらなかったのだ。
家に帰ってきても読んでいない続きを読もうとするくらいには熱中した。
大雑把にストーリーを解説すると、人間関係に悩む主人公
とてもいい作品だったと思う。
小説を久々に読んで良かったと感じた。
『心が無い、それが一番幸せなのかもしれない』と言う矛盾たっぷりな一文を除いて。
矛盾、と言うか違和感たっぷりなのだ。
序盤こそ主人公の不安定な内面(ネガティヴ)の描写ばかりだったが物語が進むに連れてその要素は薄れ前向きな描写が増えていく。
その中で唯一のネガティヴ要素がこの一文だ。
心が無い、とはどう言う事なのか。
何かを考えることが不幸だと作者は言うのだろうか。
それとも全く違う、作者にしかわからない様な隠喩なのか。
その考察を含めてもこの小説は面白かったと言える。
そういえば、気になったので作者を調べてみた。
茅野 志保というのはペンネームらしい。本名は調べても出てこなかった。
ただ、彼が二十年前に病死した事、
『庭園のベンチ』が彼の生涯最後の作品だと言うことを知った。
それから、『茅野 志保』と書かれた手紙が一冊の白い本の中に挟まっているのを見つけたことはもう少し後の話。
手紙の内容も折角だから教えよう。
私にはよくわからなかった。
『親愛なる君へ
この白い本にも題名がある。
だけど自分には決められなかった。
きっとそれを決めるのは自分ではなかったのだ。
温泉には入れなかったが、自分がやりたいことはやった。
それでもやはり決められない物もあると気付かされた。
〈中略〉
自分が君に堂々と語ったことは正しくはないのかも知れない。
もしかしたら覚えてすらいないかも知れない。
ただ、一つ願うなら。
君が君を見失わないでくれることを願う。』
意味なんて分からなかった。
そんな難しいことは私には分からなかった。
けれど、その手紙を読み終わった後、胸の奥が締め付けられる様な気がして、久しぶりに、実家の墓に線香をあげたくなった。
想ひではまどろみに消ゆ 小見川 悠 @tunogami-has
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