シロウ、ずっと一緒にいてください。

 サカワケンジが屋上から立ち去るとシロウは私の前にあぐらをかいて「この嘘つき野郎がよ」と短く言った。口調はいくぶん柔らかいけれど、どうやらお説教の時間のようだ。さっきとは違う意味で怖い。

「ご、ごめんなさい……」

シロウの顔が見れず、うつむいて謝る。なぜ謝っているのか自分でもよくわからない。べつに私が死ぬくらいで……。嘘をついたのは悪いですけど……。

「死なねーって言ったよな、俺に」

「まだ死んでない……」

「ケンが止めたからだろ? 俺言ったよな、死んだら殺すって」

だからまだ死んでないのに、と思いつつ、シロウの声の奇妙な震えにドキリとした。まさかまた泣いているのですか。優しいと元同居人が死のうとしたことにも涙するのですか、まだ死んでないのに。

「シロウ、泣いてますか……?」

顔をあげないまま質問する。シロウは何も答えなかったけれど、沈黙は肯定だということを私は知っている。泣いてくれている。シロウはこうして優しい人だから。

「私が死のうとしたくらいで、泣いてくれるんですね」

「……それムカつくな」

小声で言ってシロウが立ち上がった。なにをするのかと見ていたらフェンスをこえて向こう側に立つ。少しでも動けば落ちてしまう。突然なにを!?

「シロウ?! 危ない、危ないですよ!」

焦る私の声に振り返るシロウの目の赤さ、いら立つたような表情。シロウが何を考えているのかわからずただ不安になる。本当に危ないです、風も強いし、足をすべらせたら死んでしまう。

「お前なに焦ってんの?」

私の心配を馬鹿にするみたいに笑うシロウに腹が立ち、思わず大きな声を出した。

「誰が焦らせてるんですか!? 早く戻って来てくださいっ!」

「なんで死のうとしたか言えよ」

「っ……、わ、私は元々そのつもりだったんです。言ったじゃないですか、あなたと会わなかったら死ぬつもりだったって」

「じゃ俺だってそーだけど」

「違います! あなたにはたくさんある、サカワケンジとか、母親とか、……あなた自身もたくさん持ってる、たくさん……あなたは死んだらだめです!」

「お前にもあんだろ」

なにも、と言おうとして、シロウが口だけで「おれとか」と言ったのに気が付いた。思わず言葉を失って黙り込んでしまう。私にシロウがある? もし本当にそうだったら死ぬこともない。でもそれではだめだ。シロウが不自由なままになってしまう。


「……。俺が死んだらどうする? 今こうやって、一歩後ろに行ったら」

「だめですやめてシロウ、本当に危ないですから!」

「どうするって聞いてんだよ」

「どうって、そん……、わ、私も死にますっ」

ほとんどパニック状態になりながらあたふたと答えると、シロウは目を丸くして驚いたあと、「そっちか」と笑い始めた。そっち? そっちってどっち? シロウは別の答えを予想していたということ? でも後を追う以外、私はどうしたらいいのか。

「や、それでもいいな。じゃ、それなんで?」

「ええ……?」

なんで? なんでって何? どうしてシロウが死んだら私も死ぬのかということ? そんなの簡単なこと、シロウだって聞かなくてもわかるはず。だって私はシロウ本人にも言った。宣言したのだ。 

「私には、シロウだけだからですよ……」

何をわかりきったことを訊いてるんです、と表情で訴える。シロウはまだフェンスの内側に帰って来ない。

「結局、俺が自分じぶんに帰ったから、また死のうなんてお前は思ったんだろ」

「そ……」、そうですけど、でも、「あなたの足かせになりたくないから」。

「アシカセ?」

初めて聞いた言葉を繰り返すみたいにシロウが言う。

「私といるとっ……、あなたはダメになります。私はあなたが好きだけど、好きですけど、でも一緒にいるのはあなたにとって良くないことですっ……」

意を決した発言だった。これがすべての思いだった。全身をめぐる血液がすべて涙になるんじゃないかと思った。感情を吐露とろすることはそれくらい苦しかった。シロウと出会う前に私を生かしていたのは何だったのだろう? それほど、今の私にはシロウしかない。シロウへの思いが私をつき動かすすべてなのだ。ふしぎなくらい。人ってこんなに、他人のことだけで頭がいっぱいになるものなの? シロウもそうだったらいいのに。


 そんな馬鹿なことを考えていたら、シロウが笑った。優しい笑顔だった。まったくしょうがねえな、と声が聞こえてきそうだ。これまで怒った顔をしていたのに、フリだったらしい。いや、最初は本当に怒っていたのだろうけれど、途中からは怒り顔をつくっていたのだ。

「そんなわけねーだろ、ホント大事なことだけ間抜まぬけてんな。お前と会って全部よくなっただろ? ケンとのことも」

「…………」

「つーかさ、俺が出てった日、お前、玄関まで来て泣いてただろ。聞こえてたから」

シロウが出て行った日……、確かに泣いていた。玄関で何度もシロウを呼んだ。全部聞こえていたのか。恥ずかしい。恥ずかしい……!

「ひどいです……」

「お前だよ、ひでぇのは。急に出てけとか言い出すし」

シロウは面倒くさそうに後頭部をかくと、フェンスをよじ登って内側に戻って来た。安心してほっと肩を撫でおろす。良かった、ひとまず私を焦らせるのはやめてくれるらしい。

 安心したら、途端とたんに泣きそうになった。なぜ? 泣くようなことは何もないのに。なんとなく気恥きはずかしい。我慢しなければ。ああ、でも、本当に良かった。死ぬつもりで屋上へ来たのに、私はこれから先、生きていけそうだ。希望を受け取った。シロウが私の自殺に泣いて、怒ってくれた。それだけでこんなにも嬉しい。またシロウと会えて、話せてよかった。その笑顔を見れてよかった、声を聞けてよかった。だって好きなんです。あなたが私のために怒ったり泣いたりしてくれた、その事実だけでこれから生きていけるくらい。

「レキ」

呼ばれて返事をする。はい、の二文字にも震えがあった。その震えに気付いているのかいないのか、シロウは私の目をじっと見つめながら声を続ける。これ以上声を出したら泣いてしまいそうだからあまり話したくない。ばれてしまう。

「俺はただの居候いそうろうだから、出てけって言われりゃそれまでなんだよ」

「……」

「でも俺はもう、お前をっとく気なんかぇ。いつ勝手に死ぬかもわかんねーしな」

「もう、死にませんよ……」

何が言いたいのか、わかります。私が言いたいこととあなたが言ってほしいことは同じだってわかるんです。でも、シロウ。……私……。

「それも嘘かもしんねーだろ。そういうことじゃねえんだよ。わかってんだろ」

「…………だってシロウ……。本当にいいんですか? シロウはそれでいいんですか……?」

情けない。いいんですかと問いながら、ボタボタと、笑えるくらい涙が流れた。私がこんなふうに幸せだと思える日が来るなんて思わなかった。すべて願った通りになるなんてありえないと思ってた。私が必要とする人が、私を必要としてくれるなんて。同じことを望んでくれるなんて。

「俺もお前がいいから」

シロウが照れくさそうに笑った。その笑顔を見て、ずっとずっと願っていたことが、望んでいたことが、ただ素直に言葉になった。もう何も考えられない。

「シロウ」

あなたが好きです。

「ずっと一緒にいてくださいっ……」


「当たり前だろ」


 子どもみたいに泣きながら、何度もシロウの名前を呼んだ。シロウは泣き止まない私を抱きしめて、私を安心させるためか、とても優しい声でつぶやいた。

「それでいんだよ。素直じゃねーな」

何もかも叶ったような気がした。ずっと寂しかったことも、一人が怖かったことも、全部なかったことになるような気さえした。こうしてシロウに抱きしめられるだけで全部が許せそうだった。どうだっていい。他のことなんて。

「もう死にません、絶対に死んだりしません」

「そーだろ。お前が死んだら俺も後追あとおい自殺すっから」

「え……、えっ」

「嫌なら死ぬなよ」

「わ、わかりました。長生きします」

「ぶはっ……そうじゃねーよ」

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