レキちゃん、とにかくダメだって。
シロウが出て行ってから一週間、私は以前と同じように喜怒哀楽を失って過ごしていた。朝起きて、食事をして学校へ行き、帰って来て食事を済ませて寝る。変わったことと言えば、食事がまともになったことと、宿題に苦戦しなくなったこと。ただ、おいしいものを食べると泣いてしまうような気がしたから、ふりかけと生卵を有効に活用した。それでも菓子パンよりはずいぶんと美味しい気がしたけれど。
毎日、下校途中に外からコンビニを覗いた。レジでシロウが接客しているのを見てから帰るのは安心するための日課みたいなものだった。あれからシロウは普通に働いている。一週間、おそらく自分の家から出勤している。もう大丈夫。大丈夫ですね、シロウ。わたしのことを気にせずに生きていける。
さて、時はきた。もう家には帰らない。あの路地裏に入って、少しシロウのことを思い出す。こんな狭くて暗いところで、あなたを見つけて、私はきっと嬉しかったんです。同類を見つけたと思ったんです。悲しくて寂しくて、もう死んでしまいたいと足を踏み入れたこんな場所で、同じ悲しい生き物が死に向かっていたのが幸運だと。……けれど違った。あなたは立派で、人として大切なものを持っていた。きっとこれからも良い人生を送れる。
思えば、運命的な出会いでした。あなたから見ればただの強引な誘拐でも、私からすれば本当に奇跡だった。廃アパートの非常口が壊れていると噂で耳にしたその日にあなたに会ったんですから。ようやく、楽に死ぬ手段を見つけた、その日にあなたに会ったのだ。人生の価値を教えてくれるあなたに私は命を救われた。二人でずっと、孤独を埋め合いたいと思った……。
廃アパートの非常口は確かに壊れていた。回転に意味をなさないドアノブをひき、汚れた階段をのぼる。のぼりながらぼんやりと階数を数えたところ、四階建てのようだった。幸い屋上につながるドアもしっかりと壊れていたので、難なく廃アパートの屋上に立ち、フェンスを乗り越えることができた。……意外と目立つかもしれない。逆側から飛び降りたほうがいいだろうか。いったんフェンスの内側に戻り、反対側の風景を眺めてみる。……人通りは大して変わらない。私の死体がどれだけの人の心にトラウマを残したところで気にしないけど、嫌なのはシロウが私の死体を見てしまうこと。そんなことになったら、優しいシロウのことです、女性そのものがトラウマになってしまうかも。それはだめ。
……しかたないですね。フェンスが丈夫だから、これで低所首吊りでもしますか。高所からの首吊りよりも苦痛が少なく、人に見つかる可能性も低いと聞きましたし。廃アパートの屋上の見えないところで人が死んでいても誰も気づきませんよね。一番いいのは数年後に発見されることですけど。などとフェンスから少し離れたところで自殺方法を考えていたら。ダンダンダンと勢いよく階段を駆け上がる音が聞こえて、次いで、聞き覚えのある声が私を呼んだ。
「レキちゃん!?」
背後からの突然の大声に無意識に肩が跳ねた。振り返る。シロウに似た、でも、その呼び方をする声は。
「サカワ、ケンジ……?」
「な、なに、何してんの!? 死ぬわけ!? ダメダメダメダメ! そういうのダメだって、マジで!」
サカワケンジは以前会ったときの飄々とした態度を一切見せず、むしろ相当に必死な形相で私の肩をつかんだ。なぜかものすごく慌てているというか、落ち着きがない。何を切羽詰まった顔をしているのか。呼吸も乱れているし、汗もかいている。
「あの痛いん、ですけど」
「や、離せないよ、なんでレキちゃんが死ぬわけ、フラれたの兄貴のほうじゃん!」
フラれた? サカワケンジが何を言っているのかわからない。そもそも恋人関係ではなかったし、振ったわけでもない。
「べつに私は……」
「とにかくダメだって、兄貴は君がいないとダメなんだから!」
……そんなわけないのに、不思議なことを言う、サカワケンジ。
「シロウは、私といないほうがいいです。あなたこそシロウを悪く言っておいて何がしたいのかわかりません!」
「おわっ」
サカワケンジの両手を叩くようにして振り払う。サカワケンジは一瞬だけ手を放したけれど、すぐに今度は私の両手首をつかんだ。強い力。男性ってみんなこうなの? シロウよりも細いサカワケンジでこれなんだから、シロウはもっと強いのだろうか。
「君、前も思ったけど結構暴力的だよね!?」
「離してくださいっ!!」
「暴れんなっつッてんの! じゃじゃ馬だなホントにっ……!!」
じゃじゃ馬……、雑誌に載ってそうな明るい髪色に今時の服を着たサカワケンジから一昔前っぽいそんな言葉が出てくるのが少しおかしかった。こんな状況なのに、私はなんて呑気なのか……。
「まったくさー! 俺は兄貴じゃないんだから、君を力づくで抑えるなんてできないんだよ! 大人しくしててね」
言って、サカワケンジは
「……シロウは優しい人から力づくで私を抑えるなんてしないです。私の手を縛ったこともないし」
わざと嫌な言い方をしてみる。サカワケンジは「はーあ」と溜息をついて携帯を取り出し、私の上半身を撮った。ネクタイで縛られている手首も当然映った。ちょっと、犯罪の香りがするのですぐ消した方がいいですよ。女子高生の手首を縛った画像って言い逃れが難しいんじゃないですか。
「つか、縛られてんのは誰のせーなわけ?」
「サカワケンジのせいです」
「ちげーよね、君がむやみやたらに死のうとするからじゃん」
「今日はしないです、縄もないし」
「明日になって縄をゲットしたらするんじゃん!? ありえないからねマジで!!」
「もうっ! なんで私の邪魔をするんですか!? シロウならまだしもあなたにまで言われる筋合いないです!」
大きな声で言ったら、サカワケンジは急に真顔になって低い声で言った。
「……人の自殺止めんのに、『なんで』とかいらないでしょ」
「……自分勝手な人」
「ハイハイ。兄貴呼んだから大人しくしててよ」
サカワケンジがそう言った瞬間、ぶわっと、全身に冷や汗が流れた。やばい。自殺をしようとしていたなんて、絶対に知られてはいけないのに。今度こそシロウは私から離れられなくなってしまう。あの人の足枷になりたくない。掴める未来の邪魔をしたくない!
な……な、な、何とか言い訳を……。だめです無理、こんな状態でこんな場所で、うまい言い訳を考えられるほど、私は嘘がうまくない……。
「君がそんな怒ったり慌てたりすんのも、兄貴の人徳なのかなー……」
ふと、何気ない口調でサカワケンジが言った。私は、こんなときに不思議だけれど、もしかしてサカワケンジは、もうそれほどシロウを恨んではいないのではないか、と思った。少なくとも、シロウが自分で思っているほどには。
「……サカワケンジは、まだシロウを嫌いなんですか?」
「ん? あ、兄貴から話きいたの?」
サカワケンジは以前に会ったときのあっけらかんとした陽気さを取り戻し、へらへらとした態度で質問に応じた。
「兄貴は勘違いしてっけど、俺べつに兄貴のこと嫌いになったわけじゃないよ」
「でもシロウはそう思ってる」
「……父さんが死んだあと、兄貴、すっげ俺のこと心配してさ。葬式でもだよ。ずっと青ざめて、もう、兄貴まで死ぬんじゃねーかって思ったね」
はは、と軟派に笑って見せるサカワケンジは、わざとそうやって過去の話を軽いものにしているのだろう。
「どーしたらいいか、わかんなかったんだよねー……」
「『どうしたら』?」
「俺も兄貴も父さんが死んだことでかなりショックを受けて、母さんは精神病んでさ。俺は兄貴を責めたよ。なんで言ってくれなかったんだとか、そんなの気遣いでも何でもない、とかさ」
びゅう、と風が吹いて、サカワケンジは少し前髪を崩して「寒いね」と笑う。それは癖なのだろうか? シロウの外見から離れるみたいに真ん中分けにされた前髪を崩すのは。
「……もう、十二月ですから……」
「俺が兄貴を許さないのはさ、兄貴が謝んないからなんだ」
「シロウは嘘をついたけど、悪いことをしたわけじゃないです」
ちょっと怒るかもしれないと思いながらもハッキリと言い切ったら、サカワケンジは予想に反して薄く微笑んだ。
「だよね」
「……?」
「だから俺も仕返しするわけ。君も共犯で」
仕返し? 共犯? 不穏な言葉の羅列に説明を求めようと口を開いたそのとき、ガンガンガンと、それはもう足音だけで怒りが伝わりそうなほど激しく階段をのぼって、誰かが屋上へ上ってきた。
考えるまでもなくシロウだった。
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