レキ、お前、すげぇな。
夕飯を食べ終わるとシロウはリビングのソファに横になった。普段はしない怠けた姿勢に戸惑ったけれど、気分を落ち着けるために必要なことなのかもしれない。私は洗い物をすませてからソファに寄りかかるようにして座った。そのまま数分間無言でいると、だらんとソファから降ろされていたシロウの手が、私の頭をなでた。そして眠たげな声でシロウが話し始めた。
「間違ったことをしてるなんて、当時は思ってなかった」
「……はい」
「今でも、どうするのが正しかったかなんてわかんねえ。間違ったのか、今でも判断できねぇんだよ。でもそのときはそれが正しいって思ってたんだ」
正しいと思ったことをしたのだ、シロウは。それが例えば誰かを傷付けることでも、別な誰かを守るために嘘をついたのだ。自分が思う正しさを
「ケンが高三の冬、親父が出張先で倒れて、そのまま県外の病院に入院した。親父はケンには言うなって俺と母さんに言った。ケンの受験の妨げになるのを嫌がってだ。俺は従った。母さんはケンにも見舞いに来てほしいって言ってたけど、余計な心配をかけるくらいなら黙ってたほうがいいと思った」
……嘘の対象はサカワケンジ。だからシロウが嘘をつくと私に言ったのだ。かつて、自分がシロウに嘘をつかれたから。でも、それだけで何年も恨むでしょうか……。
「親父が入院して帰って来ないのを、出張が長引いてるって嘘ついて一か月経った。で、受験当日、ケンは俺に言ったんだよ。『父さんは大丈夫か、自分が受験期だから
気を遣ってるんじゃないか。兄貴は何も聞いてないか?』みたいなことを」
そこで一度、シロウの声が途切れた。黙って続きを待っていると、「ちょっと水」と言ってシロウが起き上がる。
「あ、私、持ってきますよ」
「や、自分で」
「…………」
キッチンでコップに水と氷を入れ、一口飲んでからソファに戻ってきた。
「はー……。それで、俺は……、大丈夫だから行ってこいって、あいつを見送った。その一時間くらいあと、ケンの受験の真っ最中……、病院から電話が入った。親父の容体が急に悪くなった、危ない状態だから家族は来るようにって」
どくん、と、心臓が嫌な音を立てる。まさか、そんな。
「俺と母さんで病院に行って、着いた頃にはもう遅かった。母さんは泣いてたけど、俺は泣けなかった。俺と母さんは、親父が入院してから何度か見舞いに行ったし話もしたけど、ケンは一度もない。親父が入院したことすら知らされなかった。そのまま親父は死んだ」
シロウはそこまで話してまた黙り込んだ。コップの氷がカロンと音を立ててとける。
「……まあこういうわけだよ、アイツが俺を嫌うのは。俺はどうするのが正しかったのか今でもわかんねえけど、アイツが俺を恨むのはしかたねえって思うし……」
……シロウがついた嘘はわかった。サカワケンジがシロウを悪く言う理由も。でも、納得は全然できない。
そんなのおかしい。
「そんなのおかしいです」
「あ?」
「あなたは……、サカワケンジのために嘘をついて、サカワケンジもそれをわかっているのに、未だにギスギスしているなんて」
誰かのためにとついた優しい嘘で、どうして当事者全員が傷付いて、未だにつらいままでいなくちゃいけないの。
「でも結局、嘘をついたのは俺なんだよ」
「誰も悪くないです、あなたはこんなに優しいのに」
悲しい。体が熱くなって、どうしてこんなことが起こったのと、今さらどうしようもないことばかり考える。優しいシロウ。すべてあなたが教えてくれた。食事も勉強も料理も、人の温かさも。
「……ふけよ」
言いながらシロウがティッシュを差し出してくれて、初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「え、わ……、泣いて、……いつから……」
「や、だいぶさっきから……」
シロウが困惑顔で私を見る。それからくす、と笑った。なに笑ってるんですか。
「お前、すげぇな、まじで」
「……何がですか」
「俺が優しいなんて、見る目ねえよ」
くすくす、楽しそうに笑う。どうしたんですか、急に機嫌がよくなったんですか。
「だって本当です、あなたは本当に優しくて、なのに、誰も悪くないのにどうして、あなたがひどいみたいに……」
私にとってシロウは、これまで会ったどんな人より優しくて正直だった。
「……俺もお前と同じだよ」
シロウはまた私の頭に手をのせて笑った。穏やかな笑みだった。
「お前がわかってりゃそれでいいよ。お前がいれば、それで」
……嬉しかった。そんなふうに言われたことは喜びだった。
けれど同時に、初めて私に思わせた。
離れなければいけない。もう自由にしてあげなければ。この人は私とは違う。優しくて立派な人なんだ。でもこのままではだめになってしまう。ちゃんと家に帰って、家族と和解して、普通の幸せな人生をつかめる人なんだ。私とは違う。本来つかめたはずの未来をつかみ直してほしい。全部、私の勝手なわがままだった……。
「……あなたは……」
熱いものが両目尻からこぼれる。私はなんて自分勝手なんでしょう。わかっているんです。でもこんなことは終わらせなければ。
「帰るべきです……」
「……はあ?」
「帰って、サカワケンジと……話し合いをして、元に戻って……それからあなたは、家族で仲良く……まともに、生きていくべきです。こうやって二人でいることが元々おかしいんです」
「……冗談だろ」
「……」
沈黙。言葉にするより首肯するより、一番わかってもらえる。
「こんだけ話して、結局かよ」
「私はシロウのことが好きです。あなたがいなくなってもあなたが好きです。でも、ここはあなたがいるべきところじゃないから」
シロウは数分間黙り込んだあと、立ち上がって身支度を始めた。シロウの物は多くはなかったから、出ていく準備はすぐに済んだらしかった。
「……残ってるもんは、勝手に捨てろよ」
ソファに寄りかかったままの私に、用意を済ませたシロウが言う。私は返事をしたけれど、声が掠れてシロウまで届いたかはわからない。
「…………。なんであのとき、俺を止めた」
「?」
あのとき? ……何のことかわからず無言のままでいると、シロウは苛立ったように「初めて会ったとき、なんで俺を止めたんだっつってんだよ」と重ねた。……今さら嘘をつくのは裏切りですよね。正直に言ったら怒るかもしれない。それともかえって同情を引くかもしれない。……あなたは優しいから。
「……もう死んでしまおうって思ってたんです。本当はあの日、家に帰らないで飛び降り自殺でもしようかと思ってたんですよ」
シロウが息をのむ。私はなるべく深刻にならないように気をつけながら続けた。
「でもそしたらあなたがいた。あんな暗くて狭いところで違法薬物なんか受け取って飲み込もうとした。……同じだって思ったんです。私と同じ、さみしくて死んでしまいそうな、どうしようもない人なんだって」
そこで切ってシロウの表情を窺う。怒りとも同情ともつかない微妙な表情でシロウは私の話を聞いていた。
「……。でも違いました。あなたと私は別な人間で、比べ物にならないほどあなたは立派でした。だからもう、自由になってほしいんです」
「俺が出てったら、お前死ぬのか」
「そう言ったら、あなた出ていかないでしょう。死にませんよ」
………………シロウ。
「……死んだら殺すぞ」
どうやって? そんなヘマしませんよ。
「わかってます」
シロウが玄関へ向かい、靴を履く。私はゆっくり立ち上がって玄関まで歩く。ドアに手をかけて私を見るシロウに、懸命に笑顔を見せた。ここで泣いたらきっと抱きしめてもらえる。慰めて、ずっと家にいてもらえる。でも、だからだめ。笑わなければ。
「シロウ。……、……元気で」
「……ああ。じゃあな」
バタンとドアがしまった。衝撃だった。自分の心臓が破裂してしまうのではないかと思った。痛い、痛い、痛い! あなたがいないだけでこんなにも痛い。
一人になることがこんなにもつらいなんて。思えば今まで自分から手放したものなんて数えるほどしかなかったかもしれない。実質的に自分で自由にしてあげたものはこれまでなかったかもしれない。ぬいぐるみとか家族写真くらいだった。寄り添ってくれる誰かを突き放したことなんてなかった。
こんなにも心臓が痛い。ああ、シロウ。
「シロウ、っシロ、う、……シロウ、私、……」
私があなたのように、素直で純粋で立派な人であれば、すべて良かったのに。
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