レキ、お前って体温高いな。

 シロウという人は、とても親切で感受性が豊かだと思う。テレビを見て泣いたり、他人の家庭事情を聞いて泣いたりする。そのくせ怒りっぽい面もある。良くも悪くも直情的と言える。

 シロウのことが、私にはよく、わからない。私とシロウは人として違いすぎるし、私はもともと、人の気持ちを考えるのが得意ではないから。人の気持ちというものを考えた時期もあったけれど、数年前にやめた。

 シロウのことが、私にはよく、わからない。シロウは自分のことを好んで話す性格ではないし、私だって、案外繊細    せんさいなシロウの中にずかずかと入り込んでいくことはできない。

 シロウのことを知りたいと思うとき、それはなぜって考える。私はどうしてシロウのことが知りたいんだろう。シロウのことを詳しく知れば、より強く繋ぎとめられるから? 多分、それもある。でも他の理由もあるはず。


「冴木さーん」

廊下を歩きながらシロウと自分について考えていたレキは大きく名字を呼ばれて振り返った。担任だ。

「はい」

「あのねぇ、うーん……放課後、職員室まで来てもらえる?」

「わかりました」

返事をしながら、思う。成績不振は最近になって直ってきているから、別な事情? でも私は真面目な生徒。お酒にも煙草たばこにも手を出していないし、スカートを折ったり髪を染めたりもしていない。寄り道だってしていません。していないから大丈夫、と考えた私は本当に油断していたのだと思う。油断していたのだと思います、シロウ。あなたには間違っても話せません。まさか、

「冴木さん、最近、大人の男性と一緒にいるところを見たって話をよく聞くんだけど……」

あなたのことを学校から言われるなんて。

「何のことかわかりません」

「うん、先生もね、他の子の勘違いかな~って思ったんだけど……。だから一応ってことで聞いてほしいの。わかってると思うけど、冴木さんはまだ高校生よね? 成人した男性と高校生が色々のは法律に触れることだから、その……」

色恋いろこいに興味はありません」

「うん……、でもね、冴木さんのご家庭が大変なの、先生もよく知ってるから……、そういうときって誰かに、甘えたくなるものってことも、先生わかるから」

誰かに甘える。……それって甘えられる相手がいる人だけの特権なの。

「先生。私は毎日、数学の復習で忙しいんですよ。それに、年上の恋人をもつように見えますか?」

冗談っぽく笑って見せる。先生は少しほっとしたように「そうよね」と言った。



 家に帰って夕飯の準備をだいたい終わらせてからシロウを迎えに行く。迎えなんていらないと言われてしまうだろうけれど、今日は先生が言っていた「甘える」というものをしてみたい。我ながら幼稚ようちだと思う、待っていられなくて外に出るなんて。

 でも、そう。今の私にはシロウがいる。いつも一人だったけれど今は違う。甘える特権が私にもある。わくわくしながら、壁によりかかってシロウを待っていた、ら。

「ねえキミ、名前なんていうの?」

……どこかで見たことがあるような、ないような……そんなぼんやりと見覚えのある感じの男性が私の顔をのぞき込んでいた。

 えっ。

「誰ですか」

「あっ、オレね、サカワケンジ」

全然、聞いたことない。でも声とか喋り方には覚えがあるような、……でも、会ったことはないと思う……。

「あなたのことを知りません」

「アハハ、だって会うの初めてだもん。えー気付かない? けっこう似てるって言われんだけどなぁ」

言ってサカワケンジと名乗った男性は真ん中わけだった前髪をくしゃっと崩した。

兄貴あにき、自分の名字も教えてないんだ?」

…………シロウに似てる。それで兄貴ってことは、弟。この人が? シロウの弟? ええ、でも、全然……雰囲気とか口調みたいなものが、全然似てない。似てません、シロウ。あなたと弟さんは全然、似てません……。顔だけです。

「オレ自己紹介したんだけど? キミは?」

キミ。シロウの弟が、二人称が『キミ』……。

「……サエキレキ」

「へー、なんかカワイー名前だね。ラ行入ってるからかな、欧米な雰囲気あるよ!」

「そうですか……」

「物静かなコだね~、兄貴といて楽しい?」

兄貴ってシロウ。シロウが家に来てくれてから毎日が楽しいし、おいしいものを食べるのが楽しいってわかった。……だから私は迷いなくうなずいて見せたのだけれど。

「アハッ、マジ!?」

すごくおかしなことがあったみたいに、ついうっかりれてしまったみたいに、その人は笑った。


「変わってるねー! あんなのといて楽しい!? そっか~ぁ。あんま人を知らないのかなー? もっとイイ人がたくさんいるよ? あんなのホント短気だし、アッタマ悪いし融通きかないし……」

……私はサカワケンジがシロウをけなすのを聞きながら、少し前にシロウに言われた『誰でも良かったくせに』という言葉を思い出した。言い方は全然違うけれど、根本的な意味合いは似ている気がする。

 本当にそう。シロウの言った通りだった。そしてシロウに返した言葉にも嘘はなかった。こうしてシロウの弟に何を言われても返す言葉は同じ。

「でもシロウだったから、私は……」

私はシロウがいいんです、と私が言うより先に。

「じゃオレはどお?」

「?」

「オレね~自分で言うのアレだけど女の子にチョー優しいよ。それにアイツと違って大学入って毎日楽しくやってるし。新鮮だよ~、それに比べてアイツどーよ、一人でコンビニバイトしてやめさせられて、女の子の家にころがり込んでさ」

驚いた。シロウの弟が、こんな、こんな……、言葉が出ない。

「あいつ元ヤンだよ? 酒とか飲むと性格変わるよ? てゆーか今時いまどきああいう要領の悪いヤツは淘汰とうたされて当然って感じ。キミもまだ高校生だからわかんないかもしんないけどさ、ああいうのよりはオレみたいな安定したオトコのほーが……」

しかもまだ言う。シロウはお酒なんて飲まないのに何を言ってるの。

 だめ。怒ることなんかない、だってこの人はシロウのこと何も知らないんだから。私が怒っても意味がない。むしろ迷惑がかかってしまうかも。そう、最近のシロウを見習って……怒りそうになったら深呼吸。深呼吸、そうそう、ふー、はあ。

「あんなロクデナシはさ……」

「それはあなたです」

気が付いたら口が動いてた。

「……んぇ?」


「なんてゆがんだ人ですか、シロウの弟だなんて信じられません」

「……へーえ」

「シロウは確かに直情的ですが、素直で優しくて人として大切なものを持っています。勝手に決めつけて人をおとしめることもありません。あなたとは違う」

「でもさ、あいつがキミに嘘ついてんのかもよ? 誰が本当のこと言ってるかなんてわかんないじゃん」

「わかります。シロウは私に嘘をつかない」

言いきったら、サカワケンジは一瞬だけぽかんとしたあと、クックッと喉で笑った。

「あいつは平気で嘘をつくよ」

「私にはつかない」

「や? キミにも嘘くらい、平気でつける野郎だよ」

その、『や』というだけの一文字が、サカワケンジとシロウを一瞬だけ重ねさせて。まるでシロウにそう宣告せんこくされたような気がして、ついカッとなって手をあげて――――でも。

 パシ、と。

 私の手はサカワケンジに届かなかった。つかまれたからだ。……シロウに。どこにいたの、どこから……。

「し、シロウ」

シロウは私の手首をつかんだままサカワケンジを見る。

「ケン、何やってんだよ」

「兄貴がなんも言わないでどっか行くからじゃん。母さん心配してたよ? ケータイ置いてったから連絡もできないって」

「じゃ言っとけよ、もう成人してんだから一人でも平気だってな」

「……ま、母さんは、兄貴がいなくてもいーんだけどね」

「かもな」

そう言ってシロウが浮かべたニヒルな笑みは、シロウらしくなかった。


 サカワケンジが歩き去ると、シロウは私の手をパッと離して「お前さあ」と困った顔をした。

「すみません。今日はやってみてほしいことがあって、それで来たら、偶然あの人が私を知ってて」

「多分、俺とお前がいるとこ見たんだろうな」

田舎だからな、と後頭部をかくシロウの顔は疲れ気味。そうだ、バイト終わり。

「あ……シロウ、お疲れ様です」

「……おう。で、やってほしいことって何だよ」

「甘えるっていうの」

「意味わかんねー……」

「具体的にどんなことが甘えるってことなんでしょう」

「お前もわかんねえのかよ」

はは、と笑うシロウ。……サカワケンジの話は、しようとしない。

「抱き付いてみていいですか?」

「は? ふざけんな」

「…………」

けっこう強く拒絶されたので、あからさまに悲しい顔をしてみる。実際に悲しいので嘘ではないです。しばらく見つめ続けるとシロウは目を逸らしてからぶっきらぼうに

「家についたらな」

とだけ言った。シロウ、優しいですけど、すぐ根負けするので不安になります……。


 家について夕飯を食べ、洗い物をすませて、テレビを見ていたシロウを呼ぶ。数秒見つめると「ああ」と気付いて立ち上がった。……なんだか、今日のシロウは口数が少ないような気がする。いつもだってそんなに多くは話さないけれど。

「シロウ、抱き付いていいですか」

「ほらよ」

雑に両腕を広げられる。ぎゅうっと抱き付いてみると、シロウがあったかいことや、シロウの体が大きいことはわかるけれど……甘えているという感覚はあまりない。

「これが甘えるってことなんでしょうか?」

「知らねえけど、どっちかっつーと、こうだろうな」

言ってシロウが、グッと強く私を抱き込めた。背中につたわるシロウの腕の強さに、ああ、これが『甘やかされる』ってことなのかも、と少し思った。

「レキ」

小さな声だった。本当に、くっついているからようやく聞こえるくらいの小さな声。

「なんですか」

つられて小声になる。シロウはたっぷり数十秒の間を置いて、ぼそりと呟いた。

「アレ、言い返してたの、ありがとな」

「…………どこ……から、聞いてたんですか」

「……。お前が名前言ってたくらい?」

けっこう最初のあたりから聞いていたらしい。……それでも出てこなかったのは。

「私、シロウの名字がサカワって知らなかったんですよ」

「言ってねえからな」

「…………」

「あいつの言ってたこと……本当、図星なんだよ。お前は俺に懐いてるみてぇだけど、それはお前が俺しか知らないからで……」

他にも、と小声で言うシロウがあまりにも普段と違うから、私はどうしたらいいのかわからなくなった。どうしたらいいのか、何を言えばいいのかわからなくて、私は、私は……。

「あなただったから、あなたがいいって、私は……思ってるから、信じてください」

「嘘をつくって、あれも本当のことだ。俺が昔ついた嘘のせいで、あいつは俺を嫌ってる」

「し、シロウッ」

シロウが消え入るような声で話し始めて、私は慌てて流れを止めた。そんなこと聞かなくたっていい。知らないままでもかまわない。そんなに悲しそうに話すくらいなら話してくれなくていい。

「私たち、嘘はだめですが、隠し事はありです。話したくなったらでいいです。嘘がだめだからって無理しないでください」

そんなつらい顔をさせたくて交わした約束じゃなかった。

「……レキ。お前って」

「?」

「体温高いな」

「えっ」

「コドモ体温ってやつ? あったか……」

「…………」


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