シロウ、あなただったから。

 夕飯の麻婆豆腐マーボードーフを食べ終えてテレビを見ていると、宿題をしていたレキが思い出したように「隠し事はまだ隠し事ですか」と言った。

「あー……。えーと、明日になったら」

……なんとなく、食後の静かな時間を壊したくないなんてくだらねえことを思って、明日の朝に言うことにした。レキは「たった数時間で何が変わるんです」とでも言いたげな顔をしていたが、「じゃあ、明日」と納得して宿題に戻った。……数学の宿題らしかったが手はスラスラと動いていた。



 一日経って、土曜日の朝。レキが洗面所に行っている間に夕飯の残りの麻婆豆腐マーボードーフのフライパンを火にかける。二人分だとフライパンでも事足りるから便利だな。鍋ってのは扱いにくい。……フライパンを洗いすぎるのもどうかとは思うけどよ。

「シロぉ、おはよーございます……」

洗顔と歯磨きを終えたレキがパジャマのままでリビングに来てテーブルにつく。俺はレキに背を向けて麻婆豆腐マーボードーフをあたためながら、この状況なら自然に言えそうだと気付いた。お互いの顔が見えないのがいい。レキもまだ眠そうだし、もしかしたら聞き流してくれるかもしれない。今ならいけそうだ。


 ……いま思えば、レキが動揺する姿を見たくなかったんだろう。

「レキ。俺、バイト決まったから、来月からは生活費――……」

入れられるから、と言おうとした俺の声は、突然の大音にさえぎられた。ガタンッと何か物が倒れるような音だ。驚いて振り返ると、

「は!? オイ!?」

レキがイスごと倒れていた。なにマンガみてーな驚き方してンだよと笑い話で済まそうとしたが、そんなことはできなかった。

「おえっ、おぇええっ、う、っぐぇえッ……」

ごみ箱をたぐり寄せて抱え込みながら、レキが突然、吐きはじめた。……吐いたっつっても朝だから胃の中には何も入っていない。だから黄色っぽい胃液だけが、レキの口の端から糸のようにれていた。

「お、おい、マジでどうしたっ……」

フライパンの火を止めるのも忘れて慌ててレキに近寄る。近寄ってわかった。泣いてる。……吐いて苦しいからか? そうだよな? あれだけ何があっても泣かなかったお前が、俺がバイト始めるくらいで泣くわけないよな?

「やめてくださいっ……」

喉がひゅうひゅう鳴ってる。

「はぁ?」

「バイトなんてやめてください!」

「なに言ってんだよ、ちょっと落ちつ……」

「うそつき!!」

初めて聞く大声に心臓が震えた。……絶叫みてぇだった。

「……レ、……」

レキ、

「うそつき、どこにもっ、っう、げぇっうぅぅっ……」

なんで、そんな、待てよ。だって俺はそんなつもりじゃなくて、

「俺、俺は、バイト……するだけで、出て……行ったりなんか」

レキ、違うんだ。……クソ、やべぇ、声が震える。なんだ、何が怖いんだよ、俺は。


 だって泣いてる。こんなに苦しそうに泣いて、叫んでる。

「私はっ……あなたを信じたのに!」

変だ。指先が氷みたいに冷たい。だってこいつがこんなに取り乱すなんて思わなかった。泣かなかったのに。どれだけ泣きそうな顔したって、泣きそうだなって心配したって、こいつは涙なんて流さなかったのに。なんでいきなり、こんな。

「嘘じゃねえ! バイトするだけだろ!?」

「どこにもっ、行かないならっ! 仕事なんていらないでしょう!?」

目を真っ赤にして泣きながらとんでもない極論をレキが吐く。どんな極論だよって、自分勝手にもほどがあるだろ、俺が信じられないのかよって、言いたかったけど。

「うそつき、っう、そ……っひ、っ、どこにも、って、あぁあああっ」

うそつき、どこにも行かないって。


 そうだ。どこにも行かないって言ったんだ、俺。こいつはそれを、……俺を。

「レキ、俺は」

突然、背後から何かがジュワジュワと焦げるような音がして、振り向いたら麻婆豆腐マーボードーフが焦げ付いていた。そうだ、火を止めるのを忘れてた。危ねえ、と火を止め、ついでに倒れていたイスも起こす。まだ吐いているレキにティッシュを差し出すとレキはティッシュで口元を拭って立ち上がった。

「おい、どこに……」

「口、洗ってきます」

…………静かな声だった。今度こそ心臓が凍ったと思った。

 レキの心臓じゃない。俺の心臓が、凍ったと思った。……あの親父さんやレイナさんのように、俺も諦められたのか? やっぱり嘘つきだったと思われたのか? そう思ったら恐ろしかった。違うんだと弁解したい。聞いてくれ、俺はただ。……ただ、なんて言うつもりなんだよ。

 どこにも行かないなら仕事なんていらないでしょう、とレキは言った。……レキは誰だって良かった、そう、本当に、なのに。偶然見つけた俺をどころにして、一人になるのが怖くて裏切られるのが怖くて、あいつは寂しいガキのままで。

「シロウ」

口をゆすいできたらしいレキがテーブルにつく。……しゃくりあげるほどではないがまだ涙がじわじわとあふれ続けていた。

「なんでそんな、泣くんだよ」

「…………」

泣かせた罪悪感なのか、誰だってよかったくせにというわけのわからない怒りからなのか知らないが、俺はなぜかレキを追及しようと考えた。

「俺じゃなくても良かったんだろ。わかってんだよ。お前は自分を一人にしねえなら誰だって良かったんだ。俺じゃなくても!」

レキは何も言わない。クソ、こんなときばっか黙ってんなよ。俺じゃなくたってよかったくせに、そんなふうに、

「誰でもよかったくせに、そんな顔すんなよ!」

泣いてんじゃねえよ。


 八つ当たりにも程がある俺の言葉に、レキはしばらく黙っていた。そして俺が怒りをしずめるために席を立とうとした瞬間になってようやく口を開いた。それは予想外で、でもこの上なくレキらしい答えだった。思えば最初からこいつは嘘なんかついてなかったんだ。何もかも何もかも、深読みなんか馬鹿らしいくらい素直で不器用で、本当のことしか言えないしかたのねえガキで。


「でも、あなただったから…………」


ぽろぽろって、涙が。……なんで今までこぼれてこなかったのか、不思議なくらい、たくさん、レキの両目から落ち続けていた。

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