シロウ、あなたのことは信じます。
玄関には鍵がかかっていた。……俺が母親をつれてきてしまうと見越しての対処だろう。よく理解してるのは俺の性格なのか、母親の性格なのか。
「レキ、俺だ。開けてくれないか」
「いるでしょう」
声はすぐに返ってきた。玄関にいたようだ。『いる』ってのはまあ、母親のことだよなあ。
「いるよ」
「じゃあ開けません。お帰り願ってください」
「…………」
どうしたもんかな、と母親を横目で見る。……まだ泣いてた。母親はよく泣くなー。レキも昔はこんなに泣いたんだろうか。それとも、俺は親じゃないからわからねえだけで、子どもに拒絶されると親はひどく悲しむものなのか。
最初に拒絶したのがどっちかを考えたら、同情なんかできねえけど。
「れ、
ドアにすがりついて泣く。レキが中で何を思っているのかわからない。どんな顔でいるのかも想像できない。母親にすがりつかれる気持ちなんて想像もしたくない。
「シロウ。その人をドアから離して」
敬語ではない言葉でレキが俺に言う。俺は母親に「大丈夫ですか」と声をかけながらドアから離した。鍵のあく音のあと、ドアが、ひらいた。レキは恐ろしいまでに何の感情もない目で、膝をついてレキを見上げる母親を見下ろした。
「
「帰って」
短い言葉。
「お、お母さんの話きいてっ! お母さんね今の人とケンカしちゃって……そしたら出てけって言われたのっ、ひどいでしょっ!? あの人のところになんか行けないし、もう
……今の人、ってのが、彼氏か? そんであの人ってのが父親……か、会話の流れ的に。しかし父親はクズだと思ったが、母親もかなり、……なんつーか……自分勝手を
「あなた赤ちゃん産んだでしょう」
レキが静かに言った。母親は「ぇ?」と呼吸なのか絶望なのかわからない声を出す。
「もう赤ちゃんの母親になったんでしょう。あの赤ちゃんはどうするの? あの子も不幸にするつもり?」
レキ、と思わず呼び、言葉を止める。レキは俺をちらりと見たが、何かを言うことはなかった。母親に対して淡々と宣告を続けた。
「あなたもうあの赤ちゃんのお母さんになったんだよ。ちゃんと育てなきゃだめ。……わかったら帰って」
レキの視線には温度がなかった。言葉にも表情にも。氷みたいだ。まだ高校生なのにそんな目をして自分の母親に別れを告げる。そんな目をさせたのはこの母親であり、あの父親なんだろう。どれだけ泣いても帰って来なかったからもう諦めたんだ。
「レイナさん……」
母親の肩を支えて、向きを変える。レキに買い物袋をわたし、「少し送ってくる」と告げる。レキはうなずき、ドアを閉めた。このドアの締まる音がこんなに重く聞こえたのは初めてだ。
「……あなたシロウくんっていうのね」
ぽたぽたと涙を流しながら母親が言う。
「ハイ」
「あたし、あの子にひどいことしたの……いっぱい、してしまった。あんなふうになったのはあたしのせいなの……」
「……あなただけのせいじゃ、ないと思いますよ」
親父さんも相当、レキを傷付けてきたんだろう。あの様子じゃ。
「……あの子をよろしくね」
ただ勉強を教えてるだけ、と自己紹介した俺にそんなことを言うべきじゃない。それに、こんな母親によろしくなんて言われても素直には
「…………」
「……ごめんなさい。あたしが言える立場じゃないわね……。ここでいいわ」
レキの母親は
「歩けますか?」
「歩くわ。大丈夫。どうもありがとう」
ふらふらと頼りない足取りで母親が遠ざかり、やがて見えなくなった。
ドアを開けて家の中に入る。レキは冷蔵庫に買ったものをしまっていた。
「おかえりなさい、シロウ」
「おお、……。ただいま」
……ただいまなんて、初めてこいつに言ったな。
「さっきは取り乱してスミマセン」
「やっぱ泣かねーんだ、お前」
「ふ。だってもうずっと前から知ってたことですよ」
小さく笑うレキの表情にさっきまでの冷たさはない。もしかしたら母親に対して冷たかったわけじゃなく、俺に対して暖かかっただけなのかもしれない。こんなの、思い上がりかもしれねえけど。
「それでも泣いていいことはあるんだ」
言い聞かせるように。泣いたら抱きしめてやりたいと思って。……素直な気持ちを、言ってほしくて。
「ねえ、シロウ?」
レキがナイロン袋をテーブルに置き、俺に近付く。そして右手をとって両手でぎゅっと握り込んだ。
「私は
笑顔? 写真? 何を言ってるんだ。
「カレンダーに日付を書いたってそれは本当のことじゃないし、写真の中で笑ってたってそれは今のことじゃない。優しい言葉を覚えていても、絶対はどこにもない」
……この家にないもの、カレンダー、家族写真。レキの言ったこと、『隠し事はしてもいいけど嘘だけは絶対につかないで』。
「でも今ここにいるあなたは嘘じゃないし、あなたは嘘をつかない」
「…………」
異様な
「人は嘘をつきます。嘘ばかり。そんなことにいちいち一喜一憂するのはもう疲れたんです」
つかまれてる手が変に冷たい。
「……私のこと、非情って思いますか? ひどいって、残酷だって」
そんな質問をするってことは、こいつが内心、自分のふるまいをそう思っているってことなんだろう。母親を冷たく追い返した自分は非情でひどいと、残酷だと、少しは不安になっているのかもしれない。でもそれなら俺が返す言葉は決まってる。
「ンなことねーよ」
「……私だってずっと前は、信じたんです。迎えに行くと言われれば信じて待った。ずっと一緒と言われれば安心して眠ったんです。でも起きると誰もいなくて、跡形もなく消えていて」
ぎゅう、両手に力がこもる。レキの顔は俯いていて見えない。
「俺はどこにも行かねえよ」
握られていた手を握り返して、言い聞かせるように言った。なんつー臆病なガキだ。結局、ただ怖いってだけなんだ。信じて裏切られて、もうそれを味わいたくないから何も信じないことにした。裏切られて一人になることを極端に恐れる臆病なガキ。
一緒にいればダダをこねる、ワガママをきけばハシャぐ、そんなただのガキだったんだ。
「ずっとお前といてやるから、それでいいんだろ」
「……父も母もそう言いました。二人は嘘つきでしたが……」
レキが顔をあげる。本当に穏やかに、にこりと、笑っていた。
「あなたのことは、信じます」
……いっそ宗教的だった。
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