シロウ、押入れにいてください。

 四日目の夕方。帰ってきたレキは息を切らしていて、また俺がいなくなるとかって不安で急いできたのかと思いきや、

「シロウ、押入おしいれにいてくださいっ」

と慌てた声で言われた。

「は!?」

「お、お父さんがっ、来ます、っはぁッ」

ぜえぜえ、肩で呼吸をしながら言うレキ。お父さん? こいつのオトウサン、オトウサン……? 全然家に帰ってこなくて、娘が菓子パンばっか食ってんの放っといてるのが、オトウサンか? 俺が何も言えずにいると、レキは急かすように「シロウ!」と強く名前を呼ぶ。納得はいかねえけど、女子高生の家に堂々と居座ってるわけにもいかねえ。チクショウ、と心の中でだけ舌打ちをして、俺は数少ない自分の痕跡こんせきを持って押し入れに隠れた。ちょうどそのとき。

 ピンポン。

礼貴レキ、俺だ」

「い、いま開ける」

押入れの中から、俺は初めて、敬語じゃないレキの声を聞いていた。ガチャガチャ、バタン。……足音、多くねえか? 三人分くらい……あるような。と、困惑する俺の耳に、信じがたい会話が入り込んだ。

「初めまして、礼貴レキちゃん」

若い女の声。続いて男の……レキの父親と思しき声が上機嫌に言う。

「お前の新しい母さんになる人だ。今日はその紹介に来た」

「えっ……」

レキの、心底動揺したような声が、小さく聞こえた。……どんな顔でそんな声出してんだよ、レキ。なんだよソレ。ありえねー、ありえねーだろ。クソ、クソ、クソッ!

 なんだよお前の父親!

「やだ、マサタカさん! 言ってなかったの~?」

「びっくりさせようと思ってな。はは、礼貴レキ。どうだ。可愛い人だろ?」

「もう~、マサタカさんてば」

礼貴レキ、ユリコは、お前が一人で生活してることを心配してくれたんだぞ。今年中は無理だが、来年には三人で暮らせるだろうな」

「そんなこと言ってマサタカさん、社員食堂のご飯大好きなくせに~」

「ユリコのご飯のほうがおいしいよ」

「も~やだぁ~」

……クソみてーな会話ばっか聞こえて、レキの声が一切、聞こえない。元からレキは口数の多いヤツじゃねーが、会って五日の俺でもわかるぞ、親父さん。あんたの娘は今、どうしようもなく動揺しちまって言葉が出ねえんだ。なに楽しそうに会話してんだよ。

「あら~? 礼貴レキちゃん、どうしたの?」

女の声がレキを気遣う。どうしたのじゃねーよ。

「いえ」

レキの声。やたら口早。……それに語尾が消え入りそうだ。

「どうした? 体調でも悪いのか」

「わたし……」

レキ、泣くなよ、お前。頼むから泣くな。お前が泣いたら、俺、押入れから飛び出て怒鳴どなり散らしちまいそうだ。このクズ野郎って、お前の親父さんをぶっ飛ばすかもしれねえ。ただでさえ拳が震えてる。苛立ちが、抑えられない。

「ん? レキ。どうした?」

「……今日は今朝けさから、体調が悪くて……。ごめん、お父さん。その人の紹介、また今度でいい?」

「なんだ、そうだったのか。急に連絡して悪いな。また来るよ」

「……う、ん」

「突然来ちゃってゴメンね、礼貴レキちゃん。アタシはユリコ。またね」

「はい。ユリコ、さん」

レキの声は、もう震えてはいなかった。

 足音が玄関から出て遠ざかり、俺は押入れから飛び出て、収まらない怒りをレキにぶつけてしまいたかった。筋違いだとは分かっていても文句を言ってやりたくてしょうがなかった。なにハイハイ返事してんだよ、嫌だったんだろ、なら文句の一つでも言えよ、お前は娘なんだからその権利があんだよと。

 でも静かに立ち尽くして玄関を見つめるレキを見たとき、その怒りは一瞬で消え、代わりに残ったのは目の前の少女をあわれむ気持ちだけだった。

「レ、キ……」

レキはゆっくり振り返り、「スミマセン、急に押入れなんかに閉じ込めてしまって」とだけ言った。

「お前、今の」

「私のお父さんと、……新しい、お母さんみたいです」

「…………」

新しい、お母さん。前の母親はどうしたんだ、と俺が目で問うと、レキは俺の質問を察したのか、あるいは言ってしまいたい気分だったのか、話を続けた。

「前のお母さんは出て行って、彼氏と子どもを作りました」

…………言葉が、出なかった。なんて言えばいいのか、もう本当にわからなかった。なんて言葉をかければいい? 今まで正体不明でろくに性格のわからなかったレキが急に、とてもか弱く可哀想な、普通の女の子に見えた。初めて会った日よりも何倍も小さく見えた。

「シロウ」

突然、力強い声で名前を呼ばれる。俺が返事をする前に何かに追い詰められるようにレキは重ねた。

「シロウは私を置いて行かないでください。彼女なんてつくらないでください」

「……やっぱ親父さんの言ってた、新しいお母さんのこと、ショックだったんだろ。言えば良かったんだよ。お前は娘なんだ。言っていいんだぜ」

俺の配慮のない言葉に、レキはまるで、用意していたかのように淡々とこんな説明を返した。……もしかしたら何度も自問自答じもんじとうしていたのかもしれない。そして出たのがこの悲しい結論だったのかも。


「お父さんもお母さんも、好きな人といるほうが幸せなんです。私といるより。でもそれは悪いことじゃないんです。幸せになりたいのは悪いことじゃないの」


「……じゃあお前は? お前の"幸せ"ってやつはどうなっちまうんだよ」

なんでか俺のほうが祈るような気持ちだった。数日前のレキの言葉が脳裏によみがえる。『私、さみしいんです』。『誰かがいないと死んでしまいそうなんです』……あれは嘘じゃなかったのか? お前は本当に、本当に。


「私は、シロウがいればいいんです。だからどこにも行かないでください。あなたが最後なんです」

最後。オカアサン、オトウサン。二人とも恋人をつくり、レキを一人にしたわけか。そして最後が俺。俺なんかに縋るほど、こいつはずっと、一人で。あんな状況でも、涙を我慢できるほど。


 ……レキはずっと泣きそうな顔をしていたが、ついに涙をこぼすことはなかった。

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