【I-044】女神の存在

 けたたましい花火が鳴り終わった後の空は、静かで美しい星の輝きに彩られていた。だがそこを分断するように巨大な樹の枝の影が差し掛かり、その元を辿っていくと、この闘技の舞台と同じくらいの太さがあるのではないかという巨木に繋がっている。

 その幹の影の手前には、賞品である『妖精の涙』が飾られるであろう台が設置されており、そこからぐるりと、嘸かし大勢の人間が入るであろう観客席が舞台を囲んでいる。

 まだ完成したばかりの、接着剤の香りが漂う石畳に、紅蓮の姿は上った。……これほどに立派なものを、父大統領の協力も得られない中で創り上げてしまうのだから、やはりあの少年は当初に感じたほど微々たる存在ではない。もっと自信を持っても良いのではとも感じるが、己の行ってきた事を振り返ってみても、それは後から付いてくるものだと思い直した。

 (……あの頃は……)

 ただ恐れしかなかった。弱冠十五歳で、長らく奴隷に堕ちていたグランフェルテ帝国を覆した少年は……その日まで、本当にそれを実行すべきなのか、とてつもなく愚かな運命に自ら突撃しているのではないか、と巨大な不安に苛まれ、震えて眠れぬ毎夜を過ごしていた。

 酷く孤独であった。……今も支え続けてくれているアルベールは勿論、当時から惜しみなくその力を自分に捧げてくれていたが……この計画が失敗すれば、その彼の人生を奪い、由緒正しき血統さえ狂わせてしまうだろう。姉のディアーヌにしても……既にこの奇妙な異父弟に運命を狂わされて生きてきて、それでもこの血の繋がりに懸命に向き合おうとしてくれる彼女を、更に崖から突き落とすような結果に導いてしまうことだろう。

 だから、必ず成功させなければならない。その為に、誰よりも強くあらねばいけない。外見のみならず、骨の髄まで化け物だと罵倒されようと。

 ……だが、それでも、恐ろしかった。ふとした事で、あの塔から幻想のような宝石箱へ身を投げれば楽になるのではと錯覚し、そこへ上った事が何度もあった。それを見て白竜は悲痛な叫びを上げる。思い留まるべきか、全てを捨てるべきかと迷う時……いつも、そこへ危険を顧みずに駆け付けてくれる女神の存在があった。

 『駄目よ……!』

 彼女に抱き締められると……絶望の底に沈んでいた気持ちが、ふわりと天に持ち上げられるかのような救いを感じる。そして、このような時に彼女は無闇に励ましの言葉を口にしなかった。

 『辛いなら、やらなくてもいいの。この竜に乗って遠くへ逃げましょう。私が、絶対にあなたを守るから……!』

 ……幾重にも纏う鎧を全て脱ぎ捨てて、何の躊躇いもなくその胸で泣き崩れる事を、自分の心が許すのは……彼女だけだった。そして、彼女が全てを受け入れてくれるほど、己の心は強くなった。……まだやれる、どんな困難にも立ち向かう事が出来る、彼女が傍らに居てくれるなら。

 ……それなのに。

 「……」

 無意識に石畳に落としてしまっていた真紅を、大きな大きな深呼吸と共に、巨木に分断された星空に戻した。

 ……その存在は、今の自分には不要だ。一刻も早く、忘れ去らなければならないものなのだ。

 下らない思いを断ち切るのに丁度良い事に、背後に何者かの気配がある。

 「……誰も付いてくるなと言った筈だ。ここは、本来まだ……」

 「立入禁止よね。今はここの警備員でもしてるの?」

 聞き間違いか。……自らの耳を疑い、驚いて振り返っても、ヴィクトールはまだ自分の見たものを疑っていた。昔の感慨に浸っているうちに……夢でも、見ていたのだろうか。

 「……そんなにびっくりしないで。お化けでも出たみたいだわ」

 彼女は笑って、段を上がってくる。

 「突然、ごめんね。ここに来てるって知ったから……」

 月光が引き立てる麗姿は、服装を除けば、変わらない。……それを間近で見ても、ヴィクトールはまだ半分、現実を取り戻せず、心の奥底に封印したつもりのその名を呟くのがやっとだった。

 「……マリー……」

 「お久し振り。……快進撃を聞いてるわ。私が居なくても大丈夫そうね」

 悪戯っぽく微笑んで、星空の輝きに引けを取らぬ銀の髪を艶っぽく払う。……その姿を見てはいけない。ヴィクトールは観客席に視線を投げた。

 「……何しに来た。……よく俺の前に姿を現す度胸があったな」

 「本当ね。私も自分自身の行動がよく分からないの。ただ……」

 マリーは紅蓮の姿を、じっくりと……何かの思いを秘めて、眺めた。そして唇の端を、少し上げる。

 「……あなたなら、私を捕まえて殺したりはしないと思ったの。……そんな事、出来ないと思ったから」

 それを受けて、ヴィクトールは再び彼女の姿へ真紅を戻した。

 「そうだな。そうすべきだ。裏切り者がこのグランフェルテ七世の前に、自らのうのうと現れたんだからな」

 「出来ないわよ」マリーは全く動じないどころか、可笑しそうに満面の笑みさえ浮かべている。「……だって、今のあなた。そういう目をしていないもの」

 「……」

 またそっぽを向いてしまう彼へ、マリーは一歩、近付いた。そして少し、息をつく。

 「……ねえ、ヴィクトール……あなたの始めてしまった事を止めるのは、やっぱり不可能なの……?」

 ……返事はないが、無論、即時に良い答えが帰ってくることなど期待していない。

 「大局を見ていると、細部は見えないかもしれない。でも……この戦のために、苦しんでいる小さな命が幾つもあるの……」

 もともと、同じ思いだった筈。どこで分岐してしまったのか、どこを掴めば、また同じ場所へ戻れるのか……マリーはそれを探りながら、言葉を選んでゆく。

 「……私、グランフェルテの街の、孤児院が好きだった。子供たちは純粋で、こんなにじゃじゃ馬な私の事も、かっこいいと憧れてくれたわ。……あなたの事だって……」

 「だから、やめろと言うのか?」ヴィクトールはまた彼女の薄蒼の瞳を射て、その言葉を強く遮った。「子供たちの親を奪ったのは戦だからと。それを続けていれば、その子供たちもやがては戦火に巻き込まれると。お前、そう言いたいんだろ?」

 「……」

 「じゃあ、やらなければどうなる?……お前の言う通り、世界に従順な小国のままでいれば。排除したはずのエクラヴワはまた蔓延ってくる。その子供たちだって、鞭打たれて生きながら地獄を見るか、短い生涯に強制的に幕を引かれる現実に逆戻りだ」

 「……」

 マリーは暫しの沈黙に陥ってしまう。……目指している最終地点は、恐らく、今もそうかけ離れたものではない。ならば、どうその距離を縮めれば良いのか。一本の大切な糸を引き寄せる為の算段を、懸命に考えていた。



 ……魔術将軍は、アルベールとサイラスが話し込んでいるのを確認し、手洗いにと言い残して部屋を出てきた。

 (大会自体に興味もないくせに、闘技場をご覧になってどうするつもりなのかしら……)

 そろそろ彼の気紛れにも慣れてきたと思っていた筈だった。……それに、あの花園へ導いた日から、距離はしっかりと縮めて来たと思っていたのに……まだ、その心の門扉さえ開く事が出来ていないという感覚があった。

 (どうしたら見せてくれるの……)

 ……あの日、まだ兵団に入りたてのメイリーンが見た、あの表情。白き花に心を許したあの表情は、どうすれば引き出せるのだろう。

 まだ、彼女に比べれば日が浅いためなのかもしれない。ならば単に、顔を合わせる回数を増やせばいいだけだ。……闘技場を覆う幻想的な大樹には、妖精が宿るという伝説がある。今夜はそれを聞かせようと、彼女はその紅色の姿を探していた。

 作戦を台無しにしないよう、大統領関係者から身を隠しながらも、公邸から延びる闘技場へ入る為の通路へ渡る。そのアーチが見えてくると、彼の声が聞こえたような気がした。

 (……誰かと、話をしている……?)

 大統領の息子だろうか、会談を終えて尚相手を捕まえるとは、相当な執念があるようだ……とも考えたが、どうやら会話の相手は女性のようである。

 (誰……?)

 メイリーンは足音を立てぬように気をつけながら、その入口の脇へ駆け寄って素早く身を隠し、闘技場を覗く。

 「……!」

 白き花。

 (……どうして、ここに居るの……?)

 ……おかしくはない。元帝国騎士である彼女は、この武芸大会に出場しようとここを訪れたのだろう。しかし帝国軍の方は極秘裏のうちにここに居るというのに、何故彼に接触することが可能だったのだろうか。

 (……何の話をしているのかしら……)

 その内容を聞けば、メイリーンは彼の前に出た時におかしな態度を取ってしまうかもしれない。聞いてはいけないと思いながらも……どうしても、耳を澄まさずにはいられなかった。



 「……あなたの思いは、嫌というほど解る……」

 銀の瞳を落としながら、マリーは呟く。……それが嘘ではないという事は、ヴィクトールの心にも刻み込まれていた。

 「……解るなら、こんな事をするな。俺の進む方向へ水を差すような事を……」

 「でも、だからなの」銀は再び、紅の姿へ飛ぶ。「だからこそ……変な風に名を馳せてほしくない。別のやり方があるはずなのよ。グランフェルテ七世が業火で世界を焼き尽くそうとしているなんて、何も……あなたの何をも知らない人々が零すのを聞くのが、私は嫌なの……!」

 「……」

 ……彼女の姿から、ヴィクトールは再び目を背ける。……耳を塞ぎでもして、手が震え出すのを封じたかった。だが、マリーはそこへ追い打ちをかける。

 「……ひとりで、抱えないで……」

 彼女は魔術師ではないから、大した第六感さえ持っていないのに。……どうして、こうも胸に突き刺さる言葉を的確に繰り出すのだろう。

 「心配なの。あなた、全部をひとりで背負おうとするから……このまま突き進んだら、苦しくても戻れなくなるんじゃないかって。その時に、誰があなたを助けてくれるのかって……」

 彼女の言葉を聞いていると、何かが綻びそうになる。……ヴィクトールはこれ以上、それを受け入れてはならないと感じた。

 「……余計な世話だ。帰れ。顔を出すなら……兄貴の方にしろ」

 背を向けて言い捨てると、マリーはくすっと笑った。

 「……義理みたいに付け足さないで。あなた、兄の事……苦手でしょ?」

 「……」

 「そうね、兄さんにも……随分と心配を掛けているでしょうね。……もう、姿を現さないつもりだったから」

 マリーは大きく深呼吸をして、星空を仰ぐ。……強く、強く気持ちを保っていた筈だったのに。何故だか急に、その星たちが歪みだした。

 「……あなたが来ていると聞いたら、どうしてもあなたに会いたくなってしまっただけ。……もう来ない。もう……二度と、姿を現さないわ」

 尚も振り向かない紅の姿を、最後に目に焼き付けるように見つめる。……出来ることならこちらを向いていてほしかったけれど、それは、無理な願いだろう。

 「さようなら……ヴィクトール」

 そうして、彼女自身も踵を返した。彼の向く方と反対側の、街へ繋がる方の会場入り口に足を向け、新たな道を進むべく、そこへまっすぐと銀を向けた……その瞬間。

 「……あっ!」

 ……マリーはひどく驚き、そのような素っ頓狂な声を出してしまったのだった。

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