【I-039】白竜
螺旋階段を上り、塔の屋上にある竜舎の扉を開けると、少し強いが心地好い一陣の風が吹き付けてきた。それに真紅を靡かせながら、そこでいつものように待ってくれている白竜の元へ向かうと、彼女はそれを待っていたかのようにキュンと小さく鳴く。
「ごめんな、フェリ。議会の爺さん達が煩くて、遅くなってしまった」
ヴィクトールはそのように声を掛けると、その横に設置されている倉庫の扉を開け、慣れた様子で幾つかの手桶に入った竜の餌を取り出した。
「たくさん食べろよ。俺がいない間は、誰も出してくれないんだから」
フェリシティがそれを品良く啄む様子を満足気に眺めてから、彼はそこを囲む段のところへ腰を下ろし、夕日に光る白い鱗を改めて見上げる。
「もう、お前が生まれて十年も経つんだな。立派に成長してくれて嬉しいぞ」
白竜は返事をするように、餌を食べながらもまた少し鳴いた。……十年前、その出会いがなければ、ヴィクトールは革命を起こしていなかったかもしれない。しかし、その時の光景は……酷く、無残なものだった。
『化け物』。
毎日のようにそう罵られながら、耐え難い屈辱に晒されていた幼いヴィクトールは……ある時、グランフェルテ城の敷地の縁にある、この寂れた塔へ逃げるように上ってきた。
(……もう、嫌だ……)
わずか十歳で、人生に絶望していた。いつも裏の邸の端に見えるこの塔から身を投げれば、楽になるのではないか……そんな一心で、その施錠もされていない鉄の扉を、懸命に開けた。……それなのに、強い風に吹き飛ばされそうになって、思わずそこにしがみついてしまう。
強い迷いが生じた。……でも、このまま下に戻っても、何も変わらない酷く苦しい日々が待っているだけだ。彼は勇気を振り絞り、扉から手を離すと、正面に見える塔の縁へ少しずつ歩き出した。心臓は胸から飛び出そうなほどに高鳴っている。……つい、その縁を囲む数段の手前で足を止めてしまった。
進もうか。やめようか。
彼は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。……アルベールやラウラが、悲しんでくれるのかもしれない。そしてディアーヌも……だが、彼女は、本当は自分の事なんか疎ましく思っているのを知っている。それなのに無理をして、『弟』として接してくれているのだ。
(……俺がいなければ、母さんも追放されなかった。姉さんだってもっと幸せに暮らしていたのに……アルの父さんだって、死ななかったのに)
全ての災いを呼んだ自分は、やはり存在するべきではない。紅玉からぼろぼろと大粒の涙を零しながらも、ヴィクトールは決断し、段へ足を掛けた。またも吹き抜ける風に身を竦ませながら、ゆっくりと、その段を踏みしめてゆく。……そして最後の段を、上った時。
そこから見えた風景に……心の中を占めていた暗澹たるものを、瞬時に忘れてしまったような感覚があった。
(……なんて、綺麗なんだ……)
――グランフェルテの城下町。
夕陽に照らされる家々の屋根、白く繊細に張り巡らされた小路、合間に流れるきらきらとした小川と、それを囲む緑……まるで宝石箱のように、美しいものだった。
……視察という名目で街に連れ出される時には、見えなかった。そこには只々、大王国の支配による命の危険に怯え、重い税金に苦しみ、抑圧されている鬱憤で自棄になる人々の姿しかなかった。彼らは一様に幼い皇帝のことを『化け物』と呼んだ。なぜ、化け物のために自分たちが苦しまなければならないのかと。……だから、ヴィクトールはそれまで城下町が嫌いであった。
けれど、この宝石箱のような光景を見た途端。
(……どうして、これを、あんな奴らに)
彼はそれを、その宝石たちを掴み取れるのではないかと錯覚して、手を伸ばした。
祖先が、初代皇帝バルタザールが……世界は平和になると信じ、希望を抱いてこの美しい草原に築いたとされるグランフェルテ帝国。……それを、この風景を……あんな奴らに手渡して、いいように乱されてゆくのを放ったまま、この世を去ることが……そのバルタザールと同じ肩書を与えられた自分に許されるのだろうか。
……しかし、そこへまた強い風が吹く。視界一面の宝石たちを、紅色の幕が遮った。
「……」
その掌に、価値あるものを握り締めるのを諦めるように、彼は手を下ろす。そして……そこから一歩を踏み出そうとした、その刹那。
……何か生き物の声を聞いたような気がした。
何度も決断したはずの行動が、またも遂行出来なくなってしまう。そうしているうちに、そのか細い鳴き声はだんだんと近くなってくる。せめてその正体を確認しておこうと、ヴィクトールは振り返り、宝石箱と反対の空を仰いだ。
(……何だ?)
……白い躯。鳥にしては大きい。そして鳴き声も明らかにそれではない。
(飛竜……?)
いや、竜といえばその鱗は蒼や臙脂、褐色などの筈だ。白い竜なんて見たことも聞いたこともない。……とにかくそれは何か悶えるようによろめきながら、高度を落としつつこちらへ飛んできて、この塔をようやく身体を休められる場所として見つけたかのように……ヴィクトールの背後へ、ドサッと大きな音と振動を立てて落ちてきた。
「!……」
その躯体に赤いものが付着しているのを発見して、彼は段を駆け下り、白竜のもとへ寄った。
「大丈夫か!?」
どこか怪我でもしているのだろうか。その巨体の周りをぐるぐると回って、ヴィクトールは竜の苦しみの原因を探す。
「……あ、お前……そうか」
彼はそれを理解すると、白竜の頭部の方へ戻って来て、首筋を撫でる。
「頑張れ」
見守られ、苦しそうに呻きながら……その雌竜は、やがて大きな卵を産み落とした。
「やった……よく頑張ったな!」
ヴィクトールはこの上なく嬉しくなり、荒い息を立てる白竜の首に抱き着いた。それから卵が着地した際に傷でもついていれば大変だと確認しようとして、また大きな身体の尾の近くへと回りこもうとした。
……バァン!バァン!!
……何があったのか、ヴィクトールが察する前に……白竜はキュイーンと壮絶な叫び声を上げ、不自然な舞を舞うように、激しく首を上下左右に振り……それから、また大きな音を立ててその首を地に伏せた。
「……奇妙な声がするので来てみれば、なんだこの化け物は。竜か?」
複数人の男の声。……エクラヴワの派遣兵たちが、入口の鉄の扉の辺りに立ち、煙を立てる長銃を構えていて……それを怪訝な表情で下ろしていたところだった。
「突然変異か何かか?白い竜なんて、聞いたことがな……」
……調べようと前に出てきた兵が、そこで呆気に取られている少年皇帝の姿を発見する。
「こんなところにいたのか。勝手に城内をうろつくなと言ってあるだろう!」
兵士の二、三人が、彼を目指して歩を早めてくる。捕まって塔を引き擦り降ろされれば、また地獄のような拷問が待っている筈だ。……だが……今の彼は、その目の前の白竜から垂れ流れる鮮血を目にした彼は……そんな事に構っていられなかった。
駆け出し、尾の付近に産み落とされた、まだ粘液に包まれている竜の卵へ向かう。両手いっぱいの大きさだが、それを抱きかかえると、追ってくる兵士たちから守るように、母竜の屍と自分の間に隠した。
「何をしているんだ!それは……卵?」
彼を囲んだ兵士たちが、それを気味悪そうに覗き込む。そして……そのうちの一人が、にやりと笑った。
「……大丈夫ですよ、陛下。その卵まで撃ち殺そうと思っておりませんから。……安心して、お渡しなさい」
「そう、そう……」別の兵が続く。「珍しい色の竜の子だ。母親は解剖くらいにしか使えぬだろうが、仔竜は慣らせばよい。……きっと価値が出るだろう」
「……」
幼いヴィクトールは複数の兵に迫られる状況に恐怖を憶えながら、必死で、卵を抱え込む。
「……じゃあ、何で……母竜を殺したんだ。今、子どもを産んだばかりなのに……」
「おや、口答えするのか」
兵士の一人が、眉間に皺を寄せてさらに彼に歩み寄る。
「何でって?……『化け物』だからだ。こんな気味の悪い巨大な竜が突然現れたら、誰だって身の危険を感じるからな」
「そうだ、身を以て知っているだろう?」別の兵が厭らしく笑いながら、わざわざ屈んで、母竜に身を寄せるヴィクトールに迫る。「『化け物』は、疎まれる。……しかし、飼い慣らせば使えるのだ。さあ、その卵を渡しなさい」
……どうして。
どうして、このかけがえのない宝物を……こんな奴らに。
……捨てようと思っていた命だ。どんな罰が待っていようと構わない……しかし、今、自分がいなくなったら。
この仔竜も、グランフェルテの城下町も、守れない。
「……兵長。どうしても渡さないつもりらしいですよ」
兵士たちは困って、顔を見合わせた。暫くして兵長と呼ばれた髭の男が、ふんと笑って頷く。
「……まあ、いいだろう。化け物同士、馬が合うのかもしれん。一般の竜舎に入れておけば盗まれる確率も高かろう、これに世話をさせるのが丁度いい」
だが、口答えをした代償は払ってもらうぞ……と言って、彼らは卵を抱えたままのヴィクトールを母竜の傍から引き剥がし、塔の下へ連行していったのだった。
……それから十年が経った、今。
彼が宝石箱を見つめる瞳は、あの日のように、その煌めきに圧倒されてしまうような弱々しいものではない。この手に掴む事の出来たそれを守り通すと、強い強い意思に燃える紅蓮である。
(……自分から、そんな風に言うようになるとはな)
……フィジテール女王は、初めエクラヴワの援軍の申入れを断っていたという。だが帝国に追い込まれ、最終手段としてそれに頼らざるを得なくなったが……あの様な奇妙な軍団だとは、流石に予想だにしていなかったようだ。
城の奥で生き残った僅かな兵たちと共に、女王オフェリアは自決の準備をしていた。そこを、技術兵団を率いて潜入したサイラスが取り押さえ、暗黒の船を追い払った後に到着したヴィクトールに引き渡した。女王は『化け物』にこの国を渡すくらいなら、潔く国と共に滅ぶと息巻いた。
『そう仰るな。我が国が見捨てれば、必然的にエクラヴワが拾うことになる。十二代に渡り歴代守られてきたこの城も、生ける屍だらけになる筈だ。……どちらの「化け物」を選ぶか、ここで決めるといい』
彼はそのように言い、帝国に渡せば女王の命は保証し、フィジテールの血筋を絶やさぬ事、さらに奇怪な組織と化したエクラヴワから国を守る事を提示した。……全てを失ったオフェリアは、頷くしかなかったであろう。
(それにしても……)
これからは、あの暗黒の船に乗る気味の悪い軍団が、対峙するべき相手となるのか。第一王子など塵のようなものだが、その後ろに付いていた、漆黒の衣をすっぽりと被った男……威圧的な波動を放つあの男は、一体何者なのか。
「若様、こちらにいらし……」
……背後からラウラの声が聞こえたが、白竜が軽く鳴きながら首を振って威嚇したので、彼女はきゃっと悲鳴を上げてたじろぐ。ヴィクトールは眺めていた城下町から振り向くと、慌ててフェリシティのところへ駆け寄り、その首筋を撫でて宥める。
「こら、フェリ。この人は大丈夫だって言ったろ」
フェリシティが心を許すのは、主であるヴィクトールだけである。他の者が近寄れば、すぐさまこの様に遠ざけようと牙を向くのだ。……ゆえに彼女の世話は、ヴィクトールがするしかないのだった。
ラウラは一度引っ込んだ鉄の扉から恐る恐る顔を覗かせると、白竜がすっかり彼に身を寄せて甘えているのを確認してから、言う。
「……お手紙が溜まっておりますの。その中に、少し気になるものがあるようでございまして……ご確認くださいます?」
束の間の休息もここまでかとヴィクトールは軽く息をつきながら、フェリシティにまたなと言い、ラウラの後を追って塔を下りた。
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