【I-032】虹の絹衣

 『「虹の絹衣」と呼ぶそうよ』

 ……世界地図を広げた小さな部屋で、彼女は何処だか北の地を指差し、そのように言っていた。

 『一度、見てみたいのよね』彼女はそこから、作戦室の低い天井に銀の瞳を上げて、うっとりと呟く。『小説で読んだから、作り話だと思っていたの。でも、本当に、この北の大地で見られると聞いて……』

 『じゃあ、見に行こう』

 彼が地図の上に身を乗り出してそう誘うと、彼女はふふっと美しく笑いながらも、首を横に振った。

 『……遠いのよ。フェリシティに乗って気軽に行けるような場所じゃないんだから』

 『今すぐと言ってない』

 彼は小机を周り、彼女のもとまで来ると、その腰に手を回して抱き寄せ、銀を覗き込む。

 『……だけど、そんなに遠い未来でもないさ。あと少し、俺が世界に自由を宣言できる日が来たら、すぐに行こう』

 『……そうね。とっても楽しみだわ』

 彼女はまた、女神のように麗しく微笑み……彼の首に腕を回し、その唇に自らのそれを重ねたのだった。



 (……これが、そうか……)

 寝所の、大きく広がった窓から見える、その光景。夜空には満天の星が広がり、鋭利に輝く三日月が浮かぶ。……しかし、それが霞むほどの存在を醸し出すのは……まるで、そこでこれから何か演劇が始まるのを待たせるように、その宙一面に薄く張られた虹色に輝く幕だ。

 寂れて今にも滅んでしまいそうなフィジテール城と、付随する街の風景とは対象的に……吸い寄せられてしまいそうな、魅惑的な空だった。……確かに、この光景が手に入るだけでも、この国を落とす意味は十分にあるだろう。

 ……だが。

 それを、こうしてひとりで見ていて……何の価値があるというのだろう。

 ヴィクトールは大きく息をつくと、こんな事の為に夜中まで眠らずにいた自分を反省し、寝台へ向かった。冷え込むので肩までしっかりと布団を手繰り寄せていると、扉が叩かれた気がした。

 (気のせいだろ……)

 そう思い込もうと努めて眠りに就こうとするも……やはり、気のせいではないようだ。音はずっと、鳴り続けている。

 普段、そんな者を止めてくれる衛兵や護衛のアルベールは、日中の戦力を蓄えておいて欲しいので休ませている。危険なこの地にはラウラも連れて来ていない。だから、対応するなら自分がしなければならないのだ。

 ……こんな時間にわざわざ、皇帝である自分を訪ねてくる常識外れな者の予測はついているが……あまりにも執拗く叩き続けるので、ただ無視をしてやり過ごすのも、それはそれで癪に触った。

 「……ああ、煩い!」

 そう吐き捨て、布団を剥ぎ取り起き上がったが、それがこの頑丈な船の扉の向こうの相手に伝わる訳ではない。……それに、万が一自分の推測が外れていて、戦に関わる重要な伝達事項だとしたら、寝ている場合ではない。

 努めて感情を押し殺しつつ、さも眠そうな演技をしながら、彼はほんの少し扉を開く。……予測通りの相手だった。

 「陛下、お休みのところご免なさい。今しか見られないものだから……」

 用件も重要ではなさそうだ。ヴィクトールはそのまま再び扉を閉めてしまおうとしたが、メイリーンはそこに両手を差し込んで、これがこの国の真の価値だからよく見て欲しいの、と言った。

 「もう見たさ。価値はよく判った。これを兵卒たちも見ていてくれるといいな。……士気を上げる必要もなさそうだがな」

 「だけど、私よく調べてきたの。説明をしたいから、中に入れて」

 そう言って彼女はするりと、扉の隙間を塞ぐ彼の身体の合間を潜り抜け、皇帝の寝所に潜入して来た。……恐ろしい強引さに、暗殺でもしに来たのではないかとヴィクトールは身構えてしまう。

 しかしそんな事にはお構いなしに、メイリーンは纏めていない艷やかな黒髪と、白い絹の寝間着を靡かせながら勝手に窓際まで進み、虹の幕の張られた空を見上げる。

 「『虹の絹衣』……いつでも見られる訳じゃないの。雪が止まないと、見られないのですって。それも、今夜のようによく冷える夜でないと」

 「……」

 ヴィクトールはそこへ行かず、極めて不機嫌そうに寝台へ腰を落とす。メイリーンはそれに構わず、続けた。

 「……だから、今夜は祝福されているのよ。明日……もう今日ね。……何が起ころうと、この戦はうまく転ぶはずだわ」

 彼女はそう言って、寝台の皇帝を振り返った。ヴィクトールは何も言わず、そこで目を閉じている。……眠ってしまったのか、とメイリーンは息をついた。

 「陛下……」

 「ドゥメール。いや……メイリーンと言ったな」

 彼は真紅を少し開け、軽く笑顔を作ると、自身の座っている横のあたりの寝台を、ぽんぽんと叩いた。

 「……」

 メイリーンがやや戸惑った様子で、ゆっくりと近寄っていくと……彼女の手が届く距離になった時点で、ヴィクトールはそれを強く引き、寝台へ押し倒す。

 「陛下、お止……!」

 そこで唇を塞がれて、続きを言えなくなる。暫くして漸く離されるも、メイリーンは押さえ込まれて身動きを取れないまま、息を荒げる彼の真紅に射られた。

 「……何が止めろだ。抱かれたいから来たんだろ」

 「……」

 「俺の事を、随分とよく調べ上げたな。何に反応するか、何を言えば喜ぶか……それは、ドゥメール侯の戦略か?」

 「違うわ……」

 しかし、再び唇を塞がれ服を引き剥がされ、なされるがままになると……メイリーンはその魔性により、喘ぎ声以外の何をも紡げなくなる。

 「……何故だ。それなら……何故、その経緯を、話そうとしない……」

 炎は彼女に鬱憤をぶつけながら、そう呟く。そして、自らの右肩に掛かる緋色の髪を後ろへ払い、彼女へ突きつけた。そこに、伝説の剣を掲げる女神の姿……グランフェルテの紋が、刻まれている。

 「これに、全てを捧げる覚悟があるのか。……その安売りの身体だけじゃない。運命、そのものをな……!」

 「……勿論よ……」

 「じゃあ、何故!」

 ヴィクトールは彼女の白い肩を寝台に叩き付け、燃える紅蓮で、漆黒の瞳を突き刺す。

 「……言えないの」

 その唇は、震えながら小さく動き、囁き声を漏らした。

 「……何だって?」

 「……言いたくないの……」

 涙。……そこへ映し出される虹の幕から落ちた雫のように透き通った、一点の曇りもない純粋な涙が、そこからひと粒、流れ出た。

 「……」

 ……これまでの彼女の姿とはやや異質なそれに、ヴィクトールは言葉を失う。……大きく、大きく息をつき、彼女の身体を押さえつけた手を退けると……その身に背を向け、横になり、布団を被った。

 「……明日も戦になる。帰って睡眠を取れ」

 「……」

 メイリーンは乱れた息を整えながら、ゆっくりと起き上がり……寝台の下へ落ちた寝間着を手繰り寄せ、身体を覆いながら寝台を出る。

 「……ヴィクトール様……」

 呼び掛けても返事はないが、彼女はその背に切なげな視線を投げ、呟く。

 「……越えればいいの?……あなたの心の中にいる、そのひとを越えれば……認めて頂けるの?」

 ……答えは、ない。

 「……ご免なさい。明日も、鋭意努力いたしますわ」

 衣服を身に纏うと、メイリーンはもう彼の方を見ないようにしながら……そっと、部屋を出ていった。

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