　店の客はある者は血相を変えて、またある者は半信半疑といった様子ながらも、ばたばたと逃げるように一斉に散ってゆく。店主までも慌てて店を放り出して裏の自宅へ引っ込んで行ったが……エマとリュックの姉弟は衝撃のあまり、そこから動く事が出来ずにいた。

　「……戦争が、始まるっていうの……！？」

　エマは自分でそのような単語を口にしても、それが間近に迫っている実感など湧くはずもなく、只々訳が分からず心を揺り動かすばかりだった。リュックは姉よりも更に茫然とした状態で口を開けて、放送を聞いていた時の姿勢のまま簡素な木の椅子に座ったままでいた。

　姉弟が生まれてからこれまでの時代も、決して平穏ではなかった。大王国やマリプレーシュ侯爵による悪政のため治安は不安定で、彼らは幼くして両親を暴動で亡くすほどであったが……国と国とがぶつかり合うような大きな戦争など、当然ながら経験した事はなかった。

　彼らの脇に残ったまま、しばらく険しい表情で何かを考えていたシーマが、低い声で呟いた。

　「さすがは『炎』とやらか…前代までの形だけの皇帝とは違うようだな」

　「『炎』……？」唐突な言葉に、エマは戸惑った。

　「情報に明るい人間しか知らんことだが、あくまで噂の範疇だと思っていた。……前代のグランフェルテ女帝は、二十年前に国を追放されている。『魔族』と仲良くなって、その子供を身籠ったためにな」

　「ま、『魔族』…！？」

　この言葉は、エマも聞いた事があった。何処かの地に隠れ住むという珍しい種族。人間離れした容姿と、人を惑わす不思議な能力を司るという。昔は普遍的に存在していたそうだが、その力はリュックたちが学ぶ"魔法"の域を超え、恐怖を感じた“普通の人間”たちは彼等を迫害し、虐殺していった。ゆえにその数はごく少数にまで減ってしまっていると言う。エマやリュックは勿論、実際に彼らを見た事がなかったが、そういった種族が存在するという話を新聞や物語などで読む事がある。

　「その、子供というのが…」

　「現在のグランフェルテ七世皇帝だ。『炎』と呼ばれる所以は……今の放送で大王が幾度か示していたように、その特徴的な姿にあるらしい。が……今の様子からすると、気質自体もそれを表しているかもしれんな。一部の情報通の間では、奴はエクラヴワに従順に見せてはいるが、いずれ何らかの謀反を始めるのではと噂されていた」

　エマたちも確かに大王が端々に散りばめた、グランフェルテ皇帝の姿について言及する様子が少しばかり気になってはいたが、こんな事態になった以上、それどころではなくなったのだ。ともかくもそこまで説明したシーマは立ち上がった。

　「お前たちは家で大人しくしていろ。おそらく街には攻撃してこないはずだ」

　「えっ、あなたは？」

　「俺は帝国軍に興味がある。……カプール侯の城へ向かう」

　驚いたエマは、シーマを止めようとしたのだが……彼の足取りは速かった。その背を追って酒場を出てたが、混乱し騒ぎ立てている人々の間に紛れてしまうと、歩き慣れた街であるとはいえ彼がどちらの方向へ行ってしまったのか、完全に分からなくなってしまった。

　不安な思いを胸に、仕方なくエマとリュックは帰路に就くしかなかった。

✱

　そして……先の放送を別の場所から聞いていたあるひとりの若者が、その内容に同じく衝撃を受けていた。

　しかし、マリプレーシュの酒場の聴衆が受けたものとは、また別の種の感情が伴っていた。

　「マジかよ……アイツ、どうして突然あんな……」

　暫し呆然としていた彼であったが、はっと何かを思い出したように、栗色の瞳を上げて豪華な長椅子から立ち上がる。そしてところどころに金をあしらった最高級の放送機の前から、廊下に繋がる扉へ向かって駆け出した。

　「若様！どうされたのです、今日の放送はどうしても聞いておきたいと仰られていたのに……」

　扉の向こうに待機していた衛兵が慌てて若者の行く手をふさごうとする。高尚な身分を象徴する言葉で呼ばれたその青年は、しかしその肩書きに似合わぬ乱暴な言葉遣いで、それを振り切った。

　「放送はもう終わったんだよ！それどころじゃねえ、ちょっと出かけてくる！」

　衛兵は意外な事に、強引な“若君”をそれ以上止めようとせず、少し呆れた表情をしただけだった。いつもこの部屋を守っている彼は、この若君が先ほどのように無理矢理制止を振り切って部屋を飛び出て行くのを毎日のように見ているので、止めても無駄なのをよく知っている。若君がその身分を所持している為に、一応は止めている振りをしているだけなのだ。

　若君は知り尽くした構造の邸を、一直線に出口目掛けて駆け抜ける。途中に何人も配置されている衛兵も先の部屋を守っていた者と同じ経験をしているから、彼が外へ飛び出してゆこうとしているのを見てもあまり気に留めない。若君の方も彼らの事は特に気にしないのだが……中庭の前を通過しかけ、白いベンチに座っていた人物がこちらに視線を向けているのに気付くと、彼は急停止をして数歩だけ後ろ向きのまま戻った。

　「悪りぃ、今回だけはどうしても……」

　手を合わせる彼に優しく微笑むのは、落ち着いた薄紅のドレスを着た、四十歳前後の女性だった。小柄で、年齢に拘わらず可愛らしいというような印象を受ける彼女はその瞳を細めると、無謀な行動を取る彼に対して静かに頷いた。

　「すぐに戻るから！」

　あまり深く考えずに若君はそう言うと、そのまま再度邸の玄関に向かって、突っ走って行った。やはりそこにも衛兵が配置されているのだが、彼の姿を認めると黙って重厚な扉を開けた。やっと建物の外へ転がり出ると、また風を切り、瞳よりやや明るい色の、彼の気質を象徴するような張りのある短い髪が乱れるのも気にせずに、広い庭園を走り抜ける。

　ようやく植え込みを飛び越えて街の裏手に繋がる林へ出ると、彼の良く見知った顔の仲間たちがそこにいた。

　「レオ！やっぱり出て来たか」

　数人の若者たちのリーダーらしき、“若君”とは一見無縁そうに見えるやや派手な軽装の、逞しい体つきの青年が彼に笑いかける。

　「ジャン、オレを待ってたのか？」

　邸の若君……レオという愛称で呼ばれた彼は驚いた。ジャンたち街に住む仲間が、今この時にそこにいると思わなかったからだ。ジャンの方は彼が邸から出てくる時はいつもここからだと分かっているので、あの放送を町の酒場で聞いた後すぐに、ここへ駆けつけたのだ。

　「お前のことだから、行動に出ない訳がねえと思ってたんだ」豪快に笑うジャンの後ろには巨大な動物がいた。「竜も用意しておいたぜ」

　小柄な竜使いの少年が、ジャンの言葉を受けて青い鱗を光らせる竜の手綱を引き、レオと呼ばれる若者の方へ差し出した。

　「すまねえ、おめえらにはいつも世話になってばっかりだ。近いうちウマいもんおごるからな！」

　若者は慣れた調子で勢いよく、革の鞍が取り付けられた竜の背に飛び乗る。

　「その台詞は聞き飽きたぜ。何年ウマいもん待ってると思ってんだよ！……おっと、忘れもん！」

　ジャンは彼に長いものを投げ渡した。それは重厚な装飾と豪華な紋章の施された鞘に入った、美しい曲線の輪郭を描く剣だった。

　「サンキュ！……こないだ、忘れて邸に帰っちまったんだっけな」

　「それ預ってるのはかなりの重圧だったぜ。そんな大事なもん忘れるのお前くらいだろ……さあ、早く行ってこい！」

　ジャンが手を振ると同時に、青い竜はキュルーンと嘶くと翼を広げ、草を蹴り上げた。竜に乗った若者はジャンたち仲間に力強い笑顔で手を振ると、目的地の方向を見定めた。

　「マリプレーシュまで、丁度丸一日くれえか……途中で一度竜を休ませたら……間に合うか…？」

　若者は表情をしかめたが、とにかく一刻も早くその地へ降り立たんと竜の尻を叩いた。

✱

　家の異変に、エマとリュックの姉弟は帰宅してすぐに気付いた。兄のアルテュールが居ないのである。

　「兄さんが……」

　今にも泣きそうな顔で姉を見つめるリュックに、エマは優しく声を掛けた。

　「これからしばらく家に籠らなきゃいけないから、きっと買い出しに行ったのよ。帰るのを待ちましょ」

　アルテュールは足が悪く、車椅子の生活を送っていた。十二年ほど前に街の中心で起こった、大王国の支配に不満を持つ過激派による抗議活動……それがアルテュールから奪ったものは、両親だけではなかった。

　そんな状態の彼が、そう遠くに行ける筈はない。そう言う意味合いを込めて、エマは弟を説得したのだが……それは、彼女自身に言い聞かせたものだったのかもしれない。

　（シーマだって無茶なことは判断できるはず。だから何も心配することはないわ……）

　自らを落ち着かせるために、彼女は奥の部屋で両親の写真に祈りを捧げると、台所へ戻って弟とすぐに帰って来るであろう兄のために夕飯の準備を始めた。

　姉弟にとって、いや、すべての市民にとっても眠れぬ夜が明けた。

　夜更けに帰るのだと信じていたアルテュールの姿は、しかしまだ家の中になかった。夜中では為す術がなく途方に暮れていたエマは、明け方になってやっと寝息をたて始めた弟を起こさぬように、そっと玄関を出た。ちょうど隣家の奥方が新聞を郵便受けから取り出して、新しい情報がないかと血眼になって探しているところだったので、アルテュールを見ていないか尋ねてみた。

　「知らなかったの？アルテュールならあの後、放送の後すぐにね、街の若いのだけで城へ向かう抗議活動隊が結成されたのよ。それに加わって行ったんじゃないかね？」

　「お城……！？」

　「マリプレーシュの街が犠牲になるのは、領主のカプール様がしっかりしていないからって。ほら、大きな声では言えないけど……普段遊んでばっかりいるお方でしょ、こんな時くらいちゃんと市民を守れって抗議しに行ったんだよ。アルテュールも正義感が強いからねえ、あの足でも何かしなきゃと思ったのは分かるんだけど、せめてあんた達に何か言ってから行きゃいいのに……」

　奥方の長い話を、最後まで聞く余裕は今のエマにはなかった。夕刻にはマリプレーシュ城が攻撃されるかもしれないと言うのに、アルテュールは車椅子でその侯爵の城へ向かったのだ。

　エマの留守中に目を覚まし、彼女までもが……と絶望しかけていたリュックは、慌てて玄関から駆け込んできた姉の姿にほっと胸を撫で下ろすと同時に……その表情から大体の状況を把握する事ができた。姉弟は身形にもほとんど気を使わないうちに、すぐに家を出て城の方向へ向かった。

　……もちろん、命を張ってカプールに抗議する気などさらさらない。

　ただ、彼等の親代わりとなって育ててくれた、年の離れた兄を助けたいという一心が……姉弟を動かしていた。

　グランフェルテ皇帝の宣告した攻撃開始時間直前となっても、カプール候は動く気配を一向に見せなかった。民から『税金屋敷』と密かに呼ばれるマリプレーシュ城の前には、多数の抗議隊や荒くれ者が押し掛け、大混乱となっていた。

　「カプールを出せ！俺たちを守れ！！」

　「どうして大王国は、帝国の要求を飲まない！？剣を渡すだけじゃないかっ！」

　「世界最強の大王国なら、グランフェルテなんかさっさと抑え込んぢまえばいいのに、どうしてやらねえんだ！！」

　城門を守る兵士たちは普段なら反逆する者を軽く取り押さえてしまうはずだが、さすがにこの数には太刀打ちできない。このような状況では、真か嘘かも判らぬグランフェルテの攻撃などに備える余裕もなかった。

　市民たちはもうどうせ命を捨てるのだからと破れかぶれになって、普段の鬱憤を晴らすとばかりに暴れ狂っている。兵士たちはこのひと晩、交代して寝る間もなく総当たりで取り押さえに必死になっていた。……悪賢い兵は、放送の直後にこの危険な城から逃亡していたので、侯爵に忠実な残り少ない兵たちが頑張らざるを得ないことも、この状態を招く原因であった。

　そんな正門の大騒ぎを他所に……城をぐるりと囲んだ水路の、茂みに覆われた裏手の細い橋……市民には知られていない秘密の出口には、馬車が一台控えている。……間もなく、ころんと丸くて小さい体を絢爛な衣装に詰め込んだ、実に腹黒そうに眉を釣り上がらせた老人が、兵に促されその裏口からこっそりと出てきた。厳重に隠されて来たこの門が、今こそ役立つ時であると思惑した彼の逃亡劇は、すんなりと成功する……はずであった。

　「卑怯だな。裏口から逃げるとは」

　老人……マリプレーシュ候カプールは、突如響いたその声にその丸い体をすくみ上がらせた。声の主にしてみれば別に凄んだつもりはなく、彼の数少ない女友達に話し掛けるのと同じ調子で声を掛けただけなのだ。

　「さすがは悪名高い、マリプレーシュ侯爵様だな」

　この出口脇の柱の装飾の上に乗っていたシーマは、昨日あの場で磨き上げたばかりの愛剣を抜くと、慌てて構える衛兵ふたりに飛び掛かっていとも簡単にその柄で蹴散らし、竦み上がるカプールに詰め寄った。

　「俺は抗議隊でも正義の味方でもないが、あの『神器』に興味がある。貴様、帝国の標的に選ばれたと言うことは……何か知っているのか？」

　「しっ、知る訳ないじゃろ！」カプールは顔を真っ赤に染めて、思わず怒鳴り散らした。「そんな物の事など知らんっ！！あれはエクラヴワ大王様のものだ、わしには関係ないっ！！」

　大声でまくしたてなければ良かったものを。

　「いたぞ、カプールだ！！」

　裏まで回り始めていた抗議隊のひとりに、侯爵はとうとう姿を捉えられてしまった。

　「ど……どけっ！！」

　カプールはシーマを突き飛ばすと、老人とは思えぬ勢いでくるりと方向を変え、馬車とは別の方向へ逃げ出そうとして茂みを掻き分けた。……が、それはまたも失敗に終わった。

　目の前に並んだのは、抗議の若者たちではない。

　鍛え上げられた肉体を、この辺りではあまり見た事のない、白を基調とした洗練された戦闘服に包んだ男達は……囲まれた方が尋ねる前にその立場を明かした。

　「マリプレーシュ候カプールだな。我々は……グランフェルテ帝国の者だ」

　カプールはもはや抵抗は無駄だと悟ったのか、急に大人しくなった。その数人ほどの異国の兵のひとりがちらと、これから老人が乗って逃げるために用意されていた馬車、周囲で伸びている衛兵たちを見遣って呟いた。

　「一国の主が、見え透いた子供じみたことを……どうして己の主君を信じて待てぬのだ？それともエクラヴワ大王は、所詮信頼することの出来ぬ男か」

　帝国兵たちの間からどっと笑いが巻き起こる。つい一昨日まで、ほんの小国……それも大王国の一番の犬と軽んじられていた国の兵士たちの、想像に反するほどの悠然さに、咄嗟に再び柱の陰に隠れたシーマは迂闊にも圧倒されていた。しかしふと冷静に、彼らがなぜ突然ここに現れたのかを考えた時に……重大な事に気が付いた。

　「くっ、時間か…！！」

　城の塔に掲げられた時計の針が、定刻を示す。

　建物の中心で、爆音が響き渡った。

　正門前で熱くなっていた抗議隊の若者たちの表情が、一気に青ざめる。

　「じ……時間だ……」

　「帝国の攻撃だ……本当に、やりやがった！！」

　若者たちの多くは今まであの宣言のことを、通信という非現実の世界の、どこともよく知らぬ者の妄言とどこか軽んじていたのだ。ゆえに覚悟を決めて来たにも拘わらず、幻が現実になってしまった事に怯えて城門から一気に散って行った。……が、本当に勇気ある一部の青年たちはなおも残り、今度は抗議の対象をグランフェルテ帝国兵へと変えた。

　「おいっ！てめえら……突然やって来やがって！！一体、どういうつもりだっ！？」

　矛先を向けられた帝国兵たちは、各々の背や腰に携えられた武器さえも抜かず、冷淡とも言える落ち着きぶりを崩さなかった。……攻撃が始まって、輪をかけて混乱する状況に追い立てられるマリプレーシュ城の兵士たちとは、正反対の様相を見せるように。

　「我々は基本的に一般市民たちには手を下さない。ただ、あまりに暴れてもらった場合には……少し、大人しくしていてもらうしかない。……分かるな？」

　その余裕は自分達の主である皇帝への、絶対的な信頼から来るものなのか。対抗しようとする若者たちはその気迫に押され、歯を食いしばったまま彼らの前に一歩を踏み出す勇気さえ持てずに、ある程度の空間を保ったままの状態で、蛇に睨まれた蛙のようになってしまっていた。

　やがて頭上から低い機械音が響き始めた。一斉に首を上げた隊の若者達が見たものは、大きな空飛ぶ船……飛翔船だった。だがそれは彼らがしばしば見ることのあるエクラヴワ大王国の、獅子と竜の対峙する紋章の入った、重厚な臙脂色の船とは異なる。戦をしに来たという状況にはやや似つかわしくない、幻想の世界のもののような華麗な純白の船だ。

　帝国兵のひとりが、それを見上げて呟いた。

　「皇帝陛下が、いらしたようだな……」