夜明け前の蜃気楼~秋の空は高すぎるより

 蜃気楼。地表付近の気温に温度差がある時、空気の密度の違いにより光が屈折して本来は存在しない場所にものが見える現象だ。例えば、海の上に水平線の向こうの景色が見えたりする。大昔はハマグリが吐く気によって高い建物が現れると考えられていたらしい。

 うちのミステリー研究会が出している部誌も同じ名前だが、誠に的を射たネーミングセンスだと思う。『蜃気楼』に載っているのは、ミステリから物語性を引いた何かでしかないからだ。こんなものを青海おうみ大学の一大イベント、文化祭で売らねばならないとは。

「今年のはミステリ小説読みたさに買った人で満足しそうなのは古野ふるのの小説だけだね」

 美咲みさきが笑う。ちなみに私の本名は別にあるが、web小説サイトに投稿している時のハンドルネームが古野なのでみんなそう呼んでいる。ペンネームの由来? そんなことどうだっていいだろう? 興味はないだろうが美咲の方は本名である。

 問題は私の目の前にあるこの部誌の存在自体が詐欺かもしれないということだ。はっきり言って同人誌だから何書いて売りつけてもあなたには合わなかったのね、で終わればいいし、所詮学生が書いたものだからクオリティは保証できない。ただただ個人的な倫理観のみによって私は苦しんでいる。ただし売れなければ小説を寄稿した私の財布が痛むが。

「まあ、古野の小説のための500円と考えれば?」

「インターネットならプライスレス」

 ハハハ、と美咲は笑う。

「ま、ボクから言わせてもらえば、ミステリー研究会の名で売るに堪えうるのか。ふさわしいといえるかもしれないけれど」

 美咲はまた高笑いを始めた。店の前だぞ、とたしなめる。

「古野はこんなに苦しんでいるのに、古野を苦しめた当人たちは、謎解きに夢中なんてね」

 前の時間の売り子が言っていたやつか。次々不可解ないたずらが起きては暗号が置かれているとかいう。私はそれよりも実在の探偵がそんな謎解きに挑むということに驚いた。

「でもよくこうもまあ飽きずに出せるわな」

 美咲がそういうのもわかる。うちの馬鹿どもは書評は酷評すべきとの方針なのか、自分たちが囲う作品以外はかなり手厳しい書評を書いている。最近、読書サークルよだかの会と揉めたばかりだ。

「まあ、形だけでも何かしておく?」

「そうだな」

 美咲は部誌を整えだす。私は在庫が入った足元の段ボールを引っ張り出した。


 文化祭2日目も終わろうかという頃。ミステリー研究会のテントにはサークル長、副サークル長、部誌の寄稿者その1、その2、その3、文化祭の実行副委員長、そしてなぜか謎解きをしていたはずの探偵というよく集めたとも労えるメンバーが集結した。まあ、事件が連続して起きているのに来ないわけにはいかないというわけか。

 なぜあれだけボロクソに言っていた部誌がなんと万引きされたのである。私に言わせれば物好きもいるものだ。

塚田つかだ、状況を説明しろ」

 副サークル長がふんぞり返って命令する。実行副委員長と探偵に説明してやればいい。

「4時からの売り子として僕と牛山うしやまが入りました。

 3時からの引継ぎそのまま、部誌30部ほどが売り場に積んでありました。そのほうが見栄えもいいでしょう?」

 私に視線を向ける。君の営業努力だ。別に責める気もない。

「で、牛山が途中トイレに行きました。彼がいなくなるのと立ち代わりでお客さんがやってきて。『蜃気楼』の立ち読みをさせてくれと。さすがに全部はダメですからね、と言いましたよ。ええ。

 そのお客さんは特定の読みたい話があったみたいでですね。そこのポップ見てバックナンバーを見たいって言いだしたんですよ。で、過去3年分だったらあるから足元の段ボールから探しましたよ。なんせ一昨年のに他の年のが埋もれてすぐ引っ張り出せなかったんでてこずりましたよ。そんでやっとこさ3年分見つけて立ち上がろうとしたらバサってブルーシートが降ってきて。

 なんとかシートの中から這い出したら牛山がいて、売り場に出してあった『蜃気楼』がきれいさっぱり無くなってて、牛山がサークル長を呼び出してた、そういうわけです」

 牛山の方は蛇に睨まれたカエルのごとく縮こまっている。そりゃあ、トイレ行っている隙に盗まれたとなれば、寄稿者その1、その2、その3くらいの視線は冷たくなるだろう。

「それで、我々にすぐ連絡した、間違いないでしょうね」

 副実行委員長が聞く。「そりゃそうですよ」とサークル長が答えた。

「ところでバックナンバーの部数はなぜまちまちなのでしょうか」

「去年までの売れ残りだよ。2年前のは寄稿者に固定客がついた人がいなかったからめちゃくちゃ売れ残っちまったんだ」

 探偵が聞いたことをサークル長がため息をつく。

「そのお客さんとやらを覚えていないのか」

 その1が言う。

「いや、若い男だったことは分かるんですけど、これといった特徴もなく……」

「目撃者はいないのか」

 その2が言う。

「いないらしいんですわ」

「防犯カメラは」

 その3が言う。あるわけないだろう。

「カードは」

 探偵が言う。さらにあるわけなかろう。もちろん、すべての答えははっきりとはわからない、または全くないだった。

「まったく。前の時間のシフトは古野ともう1人は吉田よしだか。――つながらん。古野、一応連絡してみろ」

 サークル長は手書きで作ったシフト表とにらめっこしながら電話をかけている。1時間前のことを聞くのにそんなに人数はいるだろうか。バイトに行くとか言っていたような気がするので、電話に出ないと思いますよ、と言っておいた。

「くそっ、明日は精鋭部隊で『蜃気楼』をガンガン売ろうとしたのに」

 明日のシフトはサークル長、副サークル長をはじめとした批評家気取り組がかなりの割合を占めていたはずだ。私以外の寄稿者の名前がすべて入っていたような。

 副サークル長とサークル長の話し合いをしているそばで探偵が割り込む。

「他にとられたものは?」

「売上金他すべて無事です」

 副実行委員長が塚田に確認を取る。

「ところで、皆さんは何か他の団体等から恨みを買うようなことはありませんでしたか」

 副実行委員長があっけにとられている中、その1が「よだかの会だ」と言い出した。

「うちの書評に噛みついてきたじゃないか」

 その2、その3が「そうだ、そうだ!」とはやし立てる。ミステリ批評家気取りのうちの部員が、有名な某社会派ミステリを貶める書評を書いたのだ。

「よだかの会、ですか」

 探偵さんがうつむくのも分かる。青海大学の危険なサークルでは毎年5本の指に入るというのだから。

「他には心当たりは?」

「我々の感想に賛同できない輩は残念ながら星の数ほどいる。嘆かわしいことだ」

 その2が額に手を当てる。探偵さんは眉間にしわを寄せたままだ。

「地道な聞き込みや科学的な検証などから万引き犯を割り出すことは、できるかもしれませんが、何か引っかかる、と言いますか。

 万引きの最大の動機は転売、あまり言いたくありませんが『蜃気楼』を欲しがる人がいるのか、ここまで足がつきやすいものを転売する気になるのか、一応フリマサイト等は確認致しますが……あるいはクレプトマニア、しかしここまで膨大な数を盗む事例は記憶には……そしてどうやって短時間で30部も盗んでいったのか、文庫本30冊でも結構なかさと質量、人目につかないよう運ぶのにも一苦労……それ以上に売り手を気絶させておいて売上金に手をつけない……カードもない……やはりよだかの会の可能性が高いか、しかし……」

 探偵がなにやらぶつぶつつぶやいている。

「とにかく警察へ連絡!」

 サークル長が息巻いている。こりゃあ長い夜になりそうだ。


 段ボールの中に詰められた『蜃気楼』を眺める。売り場にあった30部、そして部室に保管されていた在庫を加えたものだ。

「最終的にどうするの、それ」

「どこかに中身をぶちまけておけばいいだろう。学食の裏辺りなら、誰かが見つけて通報するんじゃないか」

「部室のまで取ってきちゃったんだもんね。そりゃ警察案件だよ」

「後は素知らぬふりだ。よだかの会とドンパチやればお互い体力切れを起こすだろう」

 探偵もよだかの会がやった可能性をはっきりと否定できなかったのは、よだかの会が年々政治色を帯びてきているせいで何をやりだすか分からないのを知っていたからだろう。勝手に騒いでいればいい。

 トリックとしては簡単だ。

 売り子が1人になったところでひきつけ役が並べられた部誌から売り子の意識を逸らすための客を演じる。これは顔を知られていない美咲の役割である。なぜって、美咲はそもそもミステリー研究会に所属すらしていないのだから。

 今回試し読みをしてバックナンバーを所望する客、というのは売り子側の心象も悪くならないし、周りの人間にも眉をひそめられる要素はない。当然、応援を呼ぶような業務ではない。そして売り子が立ち上がる瞬間シーツをかぶせる。売り子の視界を奪い、時間も稼げる。

 その間、もう1人が内側から部誌を下げ、リュックサックに詰める。必然的に私の役目だ。そうすれば傍目には万引き犯から在庫を守る売り子にしか見えないだろう。防犯カメラなどで後から見返せば不自然に見えるだろうが、そんな証拠はどこにもない。事前に今年の分の部誌はすべて積み上げておいたのであの時点で売れていなかったすべての部誌の回収に成功した。

「でもさ、古野はあの部誌を出すことに随分苦しんだんだよ。売上金やお釣り用のお金も持ってっちゃえばよかったのに。捜査の目も欺けるし」

 美咲はそういう。理由の1つは部誌をすべて回収したのちに優先すべきは逃げる事だったからだ。銭の多い金まで持って逃げるのには時間がなかったし、美咲の方も善意の通行人に捕まってしまう危険性があった。

 そしてもう1つの理由は、余計な罪を犯すことは避けねばならない。特に美咲に、美咲香哉きょうやには堂々と日向を歩けるように、真っ当に物書きとして戻って来てほしかった。

 もはや書き手の欲求を満たすだけのものにまでなり下がってしまった部誌を売りたくない私と、ミステリー研究会の一部の輩からの批判のせいで筆を折ってしまった美咲。

 2つの利害が一致した時、この計画が生まれたのだ。

「新作はどうするんだ」

 美咲に聞いてみる。かつては文芸サークルで多種多様な小説を書いていた美咲。私はあの頃美咲が書いていた、ちょっとした謎をひもときながら描かれる優しい世界が好きだった。

「ミステリーもサスペンスもおなか一杯。

 ファンタジーとかにしよっかな。悪い奴らに魔法をかけられて戦えなくなったお姫様を王子様が救う物語とか」

 彼はつぶやく。

「美咲、もうお前は帰れ。後はこちらでやっておく」

「どうして今日が決行日だったんだい?」

 気持ちはわかる。もっと早く行えばその分出回る部誌も少なくなるだろう。

「昨日以前だと増刷をかけるかもしれない。下手すりゃコンビニ印刷で」

 そりゃまずいね、と美咲は言った。

「古野が嫌いな、アイツらが書いたものじゃないからだと思ってた」

 やはり彼は気付いていたか。私が売り子の時に来て、形だけでもと買っていってくれたのだから。

 今まで売っていた分は没にされたものの中から掲載許可をもらえたものを私が独自に編集して印刷所に持って行った代物だ。あんなくだらない文章が部誌として発売されるよりかは、どれもこれもミステリと呼ぶには拙いかもしれないが、理不尽な批評をされて泣いていた後輩や批評家気取りに反発する同期の小説を、と思っただけなのだ。中身がすり替わっているのは、原稿が載っている2,3人ほどしか知らない。売り子は売り物の中身など確認もしないし、万が一読んだとしても全員その場限りのペンネームで書いてもらっているので誰の原稿なのかは分からないようになっている。だが、本来の執筆勢が売り子で固まるとなると、嫌な予感がしたのだ。

 美咲がくるりと後ろを振り向いた。

「しょい込み過ぎないようにね」

 美咲はスタスタと歩いていく。

 しょい込むも何も、独断で印刷所に原稿を持って行った時点で、ミステリー研究会とは縁を切るつもりでいたのだから。



「秋の空は高すぎる」を読みたい方はこちら

https://kakuyomu.jp/works/1177354054882046943/episodes/1177354054882825913

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